6-8 前を向くために
真夜中。
女性が一人で道を歩いている。
なまめかしい腰つき、通り過ぎると漂う石鹸のような香り。
もしこれが昼間だったら、誰もが彼女に目を奪われただろう。
だが、その女性に目を奪われたのは一人だけだった。
若い二十代くらいの男。
夜にもかかわらず目深に帽子を被り、顔はよく見えない。
コツコツと、ヒールが夜の街に響きわたる。
そんな彼女の背中を、男は追いかける。
独特の甘い香りは、今宵、女性をさらに蠱惑的にしている。
男は震えだす。
自分の内側にある欲望が、もう我慢できない。
人気のない道で、今彼女を襲っても誰も助けには来ないだろう。
ちょっとやそっとの叫び声では届くはずがない。
男は飛び出し、そして女性に背後から抱き着いた。
「もう我慢できねぇよ……お前が悪ぃんだからな、レム。お前が、俺を舐めるから……」
そこで男の声は徐々にしぼんでいく。
おかしい。
何か違和感を感じてる。
そんな様子にも見える。
それもそのはずだった。
男が抱き着いたはずの、華奢で、可憐な美少女は、妙にゴツゴツしていた。
肩幅も視認していたよりずっと広く、胸板も厚い。
首も太く、喉ぼとけが目立っていた。
何かがおかしい。
男は顔を上げ。
そして女装した僕と目が合った。
「な、何だぁお前!? なんで女の恰好なんてしてやがる!」
「趣味です」
「って言うかお前……真澄レムと報道されてた奴じゃねぇか!」
「大正解」
そこで妙に甘い香りが漂ってきて、僕は思わず腕で鼻をふさいだ。
「そこまでよ」
その声と共に、どこからともなく崎山さんと真澄レムが姿を見せる。
二人とも、僕を真澄レムと勘違いした男を尾行していたのだ。
「ようやく姿を見せたわね、このストーカー男」
「な、なんだぁお前ら……」
男がぎょろりとした視線を投げかけ、真澄レムは怯えて崎山さんの後ろに隠れる。
近づく崎山さんに男は構えようとするが、そこで異変に気付く。
「なんだ……体が動かねぇ!?」
「操作してるから。今、私たちの媚香であなたの肉体は虜にされてるの。意識だけが残ってる」
「何だぁ……何言ってんだぁ……」
男の息は荒くなる。
酷く興奮していた。
発汗している。
「ムラムラするでしょ? でも体は動かない。そういう風にしているもの」
「おかしい……だろ……俺は確かに……真澄レムを……」
「あなたが追いかけたのはね、真澄レムじゃないの。初めからこの女装した変態だったのよ」
「変態言うな」
思わず突っ込むも崎山さんは無視する。
「私たちの流したフェロモンを彼につけて歩かせたの。その匂いを嗅いだあなたは、ウィッグと真澄レムの私服を身に着けた彼を素敵なアイドルの真澄レムだと勘違いした。ただのごぼう野郎とも知らずに」
「ちょいちょい僕の悪口挟むのどうにかしてくれませんか」
心が死ぬ。
崎山さんが近づくと、フェロモンの影響が強くなるのか、男の全身が震え始める。
彼女の全身からは、いつか見たピンク色の薄い
その匂いをまともに嗅いだ男は、ヨダレをたらす。
すると、男の手から何かが落ち、カシャンと金属音が鳴り響いた。
何だろうと思い見てみると、それは包丁だった。
刃渡り十センチ以上はありそうな、小型の包丁。
「崎山さん、もしかしてこの人、これで真澄さんを……?」
「刺そうとしたんでしょうね。正確には、真澄レムに見えたあなたを」
思わず息をのむ。
一歩間違っていたら死んでいたかもしれない。
崎山さんがいなかったらどうなっていただろうか。
「尾行されたって言ってたからね。近くに居ると思ったの。駅前にいた真澄レムをつけて、家を完全に特定して。夜中にまた嫌がらせをするんじゃないかって」
「それで、僕を囮に?」
「ええ」
果たして崎山さんの予感は当たったわけだ。
お陰で僕はこんなひどい恰好をさせられているわけだが。
僕と真澄レムがこの数日間、偽装恋人として楽しんでいた間、崎山さんはずっとこうした変装セットを用意し、作戦を立ててくれていたらしい。
申し訳なさに頭が上がらない。
「それで、どうするの? これでこの男、警察に突き出せるけど」
崎山さんが振り返ると、少し遠巻きに男を見ていた真澄レムが、真剣な表情で近づく。
「どうして……こんなことを?」
すると、意識がほとんど途切れかけにもかかわらず、男はぐへへへと汚く笑った。
「どうしてって、お前が俺に目ぇ向けたんじゃん」
「はっ……?」
「ステージからよぉ、抱いてって。聞こえたぜ、お前の声」
「わ、わた、私そんなこと言ってません!」
「インスタでも、ツイッターでも、俺に向けてサイン、送ってただろ。だから目をかけてやったのによぉ、他の男にも色目使いやがって、このクソビッチがぁ!」
「か、勝手なこと言わないでください!」
一方的な男の言い分に、真澄レムは泣きそうな表情を浮かべる。
すると崎山さんが目を細め、苛立たし気に舌打ちした。
「聞いてて反吐が出るわね。典型的な勘違いストーカーじゃない。一生分の性欲を散らしてやろうかしら」
怪しげな靄をさらに出す崎山さんの肩を、僕はそっと叩いた。
「崎山さん、落ち着いて。僕らの仕事は終わりました。あとは警察を呼ぶだけです。これ以上何かする必要はないですよ」
「そりゃそうだけど……」
「おい女ぁ! お前、よく見たらめちゃいい女だなぁ! 今すぐ抱いてやるよぉ!」
「あんたこの期にもかかわらずよくもぬけぬけと……!」
崎山さんが目を怒らせる。
いや、ここで彼女に手を出させるべきじゃない。
それだったらいっそのこと僕が。
僕が一歩踏み出そうとした時。
先に男に近づいたのは、真澄レムだった。
「真澄さん、何を――」
僕がすべて言い終わる前に。
真澄レムはそっと男の頬に手を当てると。
その唇にキスをした。
「はっ……!? ま、真澄さん……!?」
「ちょっとあなた、何やってんの!?」
驚きすぎて、思わず僕と崎山さんは目を丸くする。
あれだけ苦しまされたストーカーに何でキスしてる?
気でも狂ったのか?
信じられない光景だった。
僕らが慌てふためいていると。
すぐに異変は生じた。
ゴクリ……ゴクリ……。
真澄レムは何かを飲み込んでいた。
まるで飲み物でも飲むかのように。
すると、先ほどまで二十代に見えた男が、途端に萎び始めたのだ。
真澄レムが一飲みする度に、男の顔が皺だらけになり。
わずか数秒で、まるで老人のように老いていく。
それだけじゃなかった。
先ほどまでどう見ても人間だった真澄レムの目が、黒く染まっていたのだ。
白目の部分が真っ黒になり、黒目が真っ赤に輝いている。
人間のものじゃなかった。
真澄レムは泣いていた。
泣きながら、男の『何か』を吸っていた。
生命力、精力、寿命……それらに準ずる『何か』を。
やがて、男が完全な老人になった時。
口を話した真澄レムは、ペッと傍らへ唾を吐きだした。
「性欲よりももっとタチ悪いもの吸ってやりました。私がサキュバスじゃなかったら……一人の人間の女の子なら、きっと人生をズタズタにされてたから。その報いを受けさせてやったんです」
真澄レムがにらむと、その場に倒れた男は「あぁ……あぁ……」と枯れた声を出す。
「この人、大丈夫ですか……?」
僕が尋ねると、真澄レムは「知りません」と言った。
「どうせ死んで当然の男です。たくさんの人に迷惑かけて、私の人生を台無しにして。生きてる価値なんてありません」
「だからって……」
殺すのは、やりすぎじゃないだろうか。
確かにこの男は醜悪だ。
ほんのわずかしか話していないのに、最低な人間であることがわかった。
でもこれは、殺人じゃないのか。
サキュバスの力を使って殺せば、誰も真相に気づかないかもしれない。
でも、本当にそれでいいのか?
男は、もう間もなく絶命しそうに見えた。
かなり弱っている。
命の灯が消えつつある。
「遠藤くん」
不意に崎山さんが僕の前に立った。
「どうしたんです?」
「あなたの精気、少し分けてくれないからしら」
「僕の精気って……どうするんです?」
「この男は最低よ。でも、いくら最低の男でも、
崎山さんのまっすぐな瞳に、僕は本気なのだと知る。
僕はうなずいた。
「わかりました」
崎山さんは、「ありがとう」と目を瞑る。
「じゃあ、目を瞑って、力を抜いてくれるかしら」
「こうですか?」
すると。
不意に、僕の唇にとんでもなく柔らかいものが触れた。
驚いた瞬間、口の中に何やら蠢く柔らかいものが入り込んでくる。
ねちっこく舌に絡みつくようなそれはまさか……。
僕があまりの事態に体を固くしていると。
異変は起こった。
体の中から『中身』が吸われ始めたのだ。
何が吸われているのかはわからない。
でもそれは……命のような気がした。
体から力が抜け、立てなくなる。
視界が揺れ、思わず座り込んだ。
言葉が出ない。
そんな僕を、悲し気に崎山さんは見下ろしていた。
「ごめんなさい……、遠藤くん」
「さ……きやま……さん……」
声がうまく出せない。
ヒューヒューと息が漏れ出る。
その様子を見た真澄レムは目を見開いた。
「崎山さん、まさかその男を助けるんですか!?」
「そのまさかよ。この男を警察へ。然るべき罰はそこで償わせる」
「何でそんなことを!? 余計なことしないでください!」
黒い瞳のまま崎山さんに迫る真澄レムの頬を。
崎山さんは、バチンと叩いた。
呆然とした真澄レムは「どうして……」と声をだす。
「あなたが、これからも前を向いていられるようにするためよ」
それは、他ならぬレムがもう一度、アイドルとしてファンの前に立つためだった。
崎山さんは、そっと僕に目を向けると。
「遠藤くん……見ないで」
そう言って、ストーカー男の顔にそっと顔を近づけた。
その瞬間だけは見ないでおこうと、僕は意識を手放した。
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