3-5 ほとんどオタサーの姫じゃん

 何だかんだ酒が回ると時間も経つもので。

 店を出る頃にはすっかり空も暗くなっていた。


「すっかり暗くなっちゃいましたねぇ」


 南穂さんは少しろれつの回らない声で言う。酔っているのだろう。お酒に弱い割には、結構飲んでいた気がする。


 帰宅途中の会社員の姿が店の中で飲んでおり、一方でチラホラと帰る人達の姿も目立つ。どこか一日の終わりを感じさせる、平日の飲み屋街の風景だ。


「南穂さん、途中まで一緒でしょ? 駅まで送りますよ」

「えー、もう帰るんですかぁ? まだ時間早いですよぉ」

「そう言っても明日も仕事ですし」


 入社二日目にしていきなり二日酔いで出社なぞしたくない。とは言いつつも、この美人と飲むのはやぶさかではない自分もいる。

 何だかんだ男を喜ばせるポイントを知っているのだ。天然小悪魔とは彼女の事を言う。


 すると不意に、南穂さんは僕の首元に腕を回し、グイと引き寄せて来た。

 思わぬ行動に抗えず、されるがまま顔を引っ張られる。


 お酒が入った彼女の色っぽい顔がすぐ近くに来て、思わず息を飲んだ。少しお酒臭い吐息もまた、彼女の魅力を際立たせる。自分の心臓の鼓動が跳ね上がるのがわかった。


「せっかくの夜に帰っちゃうなんてもったいないですよぅ? 今日は私と一緒にいませんかぁ?」


 その途端。

 僕は、違和感に気がついた。


 僕たちが立っているのは道のど真ん中である。そんな場所で男女が抱き合っているのだから、周囲の視線が集まってもおかしくない。


 にも関わらず、まるで誰も僕たちに気づいていないかのように通り過ぎていくのだ。


「ねぇ、いいでしょう? 遠藤さぁん」



 、だ。



 あの、独特の甘い匂いがする。

 どこかで嗅いだことのあるような、甘い匂い。

 その匂いは、僕の理性を奪い、正常な思考能力を鈍らせる。


 人言的な感覚が奪われ、オスの本能の部分が露わになるのを感じる。

 目の前にいる人を女性ではなく、メスとして認識し、スイッチを入れたかのように、急に性欲がむくむく増殖してくる。



 僕はこの匂いを、南穂さんと合う前に、二度嗅いだことがある。



 一度目は、崎山さんと出会った日。

 酔いつぶれた彼女から、甘い匂いが発されていた。


 そして二回目は、今朝。

 猫を性処理するという崎山さんから漂っていた。



 何故そんな匂いがしていたのかはわからない。でも、この意識がくらくらする感じ、正常な思考が奪われる感覚は……。


「南穂さんは、サキュバスなんですか?」


 ほとんどまともに思考できなくなった状態で、僕はそう言っていた。我ながら、なんて馬鹿なことを言っているのだろうと思う。


 ほら、南穂さんだってキョトンとした顔を浮かべてるじゃないか。

 そう……キョトンと。


「あれぇ?」


 南穂さんは笑っていた。


「気づいてたなら言ってくださいよぅ」


 言うや否や、彼女から尻尾と耳がニュッと生えてくる。


 唖然とした。

 嘘だろ、まさか本当に南穂さんが……?

 いや、考えるのも野暮だ。思えば今日一日、ずっとおかしかったじゃないか。

 今だって、誰も僕らに気づく様子もない。


「おびえちゃって、遠藤さん、カワイイ」

「やっぱり、社内の人はあなたが……」

「私、食いしん坊なんでぇ、全員食べちゃってまぁす。ほとんど籠絡ろうらく済みでぇす」

「そんなの、ほとんどオタサーの姫じゃん……」

「あはは、ホント君、おもしろぉい」


 南穂さんは異様に長い舌で、僕の頬をベロリと舐める。もはや喜ぶべきなのかどうかもよくわからない。濃厚な甘ったるい匂いに、昏倒する意識を保つのだけで必死だ。


「遠藤さん、なかなか理性強いんですねぇ。こんなにもった人は初めてかも」

「なんでこんなことを……」

「知らないんですかぁ? サキュバスは、定期的に精を補充する必要があるんですよぅ。お酒呑むと特に私、タガが外れちゃってぇ。遠藤さんが悪いんですよ?」


 今夜は吸い尽くしてあげますね。大丈夫、死にはしないですよぉ。明日動けなくなるくらいで。明日には、嫌なことぜぇんぶ忘れちゃってます。


 まるで水の中にいるかのように、彼女の声が徐々にボヤケていく。

 もう、どうでも良いかと思えてきた。

 元々失うものなんて何もないんだから。

 むしろ、可愛い女の子と一夜明かせるだなんて、ラッキーじゃないか。


 そんなふうに、意識を手放しそうになった。

 その時。




 ピリリリリ




 どこからか音がして、ハッと意識が戻った。

 それは、スマホの着信音だった。

 電話が掛かってきたのだ。


「全然帰ってこないと思ったら、こんなとこでイチャついてたの」


 その聞き覚えのある声は、薄れかけた僕の意識をどんどん現実に戻していく。

 僕はゆっくりと振り返った。


 耳元にスマホを当てた崎山さんが、腕組してそこに立っていた。

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