3-4 大切な時間
居酒屋街の奥の方にあるお店に僕たちは入った。こぢんまりとした店で、特におしゃれなわけでもない。街中で見かけそうな普通の居酒屋である。
「ここ前から気になってたんですよぉ。遠藤さん、何飲みます?」
「あ、じゃあとりあえず生で」
僕の対面に座った南穂さんは楽しそうな声を出す。一方で僕はと言えば、何だか気が気じゃなかった。こんな美人と一緒だなんて、浮いている気がして落ち着かないのだ。
「これも美味しそうですねぇ、あこれも。遠藤さん、ホッケって好きです?」
「めっちゃ食いますよ」
「じゃあホッケとぉ、しめ鯖の炙りとぉ……ムムム」
飲兵衛御用達のようなお店に、こんなゆるふわ系丸の内OLみたいな人を連れて来ることになるとは。
イタリア料理店でチーズとか頼んでそうな人が、ホタルイカの酢漬けが載ったメニューとにらめっこしている姿はなんだかシュールだった。
まさか転職初日からこんな可愛い子と一緒に飲みに行くことになるなんて。
どうも夢見町に引っ越してきてからというもの、女性と縁が深くなっている気がする。
「おまたせしましたー。生二丁」
「あ、どうも」
運ばれてきたビールを受け取り「乾杯」と二人してグラスをぶつけあう。
流し込んだビールはよく冷えており、仕事終わりの体に染み渡った。
南穂さんのビールの飲み方は見た目通り上品だ。小さな喉をコクコク鳴らし、ゆっくりとビールを流し込んでいる。
崎山さんとは雲泥の差だ。生粋の飲兵衛である崎山さんは、挨拶代わりにジョッキ一杯を飲み干す。
「ぷはぁ、ビール美味しいですねぇ」
「ええ、本当に」
「遠藤さんは地方からこっちに出てきたんでしたっけ」
「この会社に就職するために引っ越したんですよ」
「最寄り駅はどこなんですかぁ?」
「夢見町です」
すると南穂さんは「えー、夢見町!?」と大仰なリアクションを取った。
「良いなぁ。あそこ物価も安くて治安も良いからすっごく人気なんですよね」
「あぁ、不動産屋さんがそんなこと言ってましたね」
「夢見町、どうですかぁ? 住みやすいです?」
「いい場所ですよ。駅前に居酒屋街もあって、結構楽しいです」
「ふぅん。じゃあ、普段もよく飲みに行くんですかぁ?」
「まぁそれなりに」
「一人でですかぁ?」
「えっ?」
一瞬、言葉に詰まった。
何と言えば良いか分からなかったのだ。
付き合ってもいない女性の同居人がおり、その人とよく飲みに行く。
そんなこと下手に口にしたら、すぐに噂になって風評被害を受けかねない。
すると僕の様子を察したのか、南穂さんは「おやおや?」といたずらっぽい表情を浮かべた。
「ひょっとして彼女さんとかぁ?」
「いや、そんなんじゃないですよ。彼女はいないっす」
「じゃあ遠藤さん、フリーなんですかぁ? 私もなんですよぉ」
「へぇ、そうなんですか……」
遠藤進、これは風が吹いている。
真っ直ぐな、良い風がよぉ。
きっと僕の顔は南穂さんの好みドンピシャなんだ。
今この好機を逃してはならない。
戦争だ!
いやいや違うぞ遠藤進。
このハイレベルOLが中途入社したての新人になびくはず無いだろう。
これが彼女の戦略なのだ。
こうして男を籠絡して操るのだ。
騙されたが最後、非モテクソ野郎のレッテルを貼られるのだ。
何を言う。お前こそ何を。夢を見るな。夢くらい見させろ。鏡を見ろ。
二人の遠藤が僕の脳内で殺し合いをしている。
無益な争いはやめてほしいものである。
ただ、勘違いしたくなるのも無理はない話なのかもしれない。
何故なら南穂さんの態度は意味深で、そう言うのに慣れていない下層平民の自分からしたら、内心穏やかで居られるはずもないからだ。
彼女はきっと天然でモテるタイプなのだろう。
小悪魔系女子、と言う言葉がピッタリと当てはまるタイプだ。
ただ、情けないことに、僕は自分が決してそれほどモテるわけではないこともわかってしまっていた。
どこかで期待しながらも、相手が決して本気ではないと見抜けてしまう。
それくらいの分別がないと、社会人はやっていられない。
南穂さんのような人に本気になると、痛い目を見るのは自明の理である。
何だか少し、肩が凝るな。
気がつけば、そんなことを思ってしまっていた。
崎山さんと飲む時は、いっつもくだらない話ばかりしている。男女間の微妙な駆け引きとか、やきもきがないのだ。
あの下らなさが、今は無性に恋しかった。
そこでふと気づいた。
なんだかんだ、気がつけばずっと崎山さんのことばかり考えていると。
あの人と過ごす時間は、いつの間にか自分にとって必要不可欠なものになっていたのだ。
「もう、遠藤さん聞いてます? 人の話!」
「えっ? 聞いてますよ。イエス・キリストと仏陀が同一人物って話ですよね」
「誰もそんな話してませんよぉ!」
すると不意に。
どこからか甘い香りが漂ってくるのがわかった。
先程社内で嗅いだのと同じ、甘い香りである。
香水のような、お風呂上がりのような、何だか胸を掻き立てる、そんな匂い。
それは、やはり南穂さんから漂ってきていた。
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