3-3 小さな嘘と罪悪感

 その日は初日ということもあってか、大した仕事もしないまま終業となった。

 九時十七時くじごじできっかり退勤。その上一時間の休憩まであって助かる。


 前の仕事ではこうは行かなかった。

 以前なら、帰るのは大体夜中で、くたびれきって帰宅して寝るだけだった。

 まだ空が明るい内に帰れる事の素晴らしさを噛みしめる。


「さて、晩飯は何にすっかなぁ」


 会社を出て今晩のメニューをスマホで検索していると「遠藤さぁん」と声を掛けられた。

 振り返るとそこに立っている。


「帰るんですよね。私もなんで、良かったらご一緒させてくださぁい」


「あ、どうぞ」


 そう答えて、はっと周囲を確認する。

 こんな場面、同じ課の人に見られたら早速手を出そうとしていると勘違いされてしまう。


 しかし幸いにも、僕たちに目を留めている人は居なかった。

 ホッとして歩き出す。


「わざわざ一緒に帰ろうだなんてすごいですね」


「えっ? そうですかぁ?」


「少なくとも僕の経験上、入ったばっかの新人と一緒に帰ろうとする人は過去に居なかったですよ」


「私はあんまり抵抗ないんですねぇ、そう言うの」


 音無さんはあっけらかんと言う。

 その姿から、彼女に何の含みもない事が見て取れた。

 きっと、素でコミュ力が高い人なんだろう。彼女が人気者な理由も察せられる。こんな可愛い子が自分から声を掛けてくるのだ。大概の男は自分に気があるのではと期待してしまうだろう。


 そうだ遠藤進勘違いしてはいけない彼女はコミュ力が異様に高いだけであって僕に好意があるとかそう言うのではないのだそれは典型的な勘違い男の思考でありこれ以上は行けないそう絶対にだ。


 そんな僕の独り相撲をよそに彼女は隣を歩く。心無しか距離が近い気がして、それが余計に胸の高鳴りを加速させる。


「仕事はどうですかぁ? 続けられそう?」


「ええ。おかげさまで」


「良かったぁ。うちの会社、こう見えて離職率少ないんですよぅ?」


「求人の時に見ましたけど、福利厚生も給料も良いですよね。定時退社なんて幻想かと思ってましたよ」


「あはは。夢じゃないんですよぅ、これは現実です」


「音無さんは勤めてもう長いんですか?」


「南穂」


「えっ?」


「音無って、何だか他人行儀じゃないですかぁ。南穂って呼んでください」


「距離の詰め方がえげつない……」


 どうしよう。

 こんなの、もうどうにかなっちゃうよぉ。

 心がそんな喘ぎ声を上げる。


 リアクションもいちいち可愛いし、油断すると実はこの人僕の彼女じゃないのかとか錯覚しそうになる。

 そしてその後ふと我に返り、自分のチョロさにがっかりするのだ。

 僕も所詮あの課長と同じ。どこにでもいるしがない男の一人なのである。


 そこで不意に、何故だか崎山さんの顔が浮か脳裏に浮かんだ。

 途端、罪悪感のような物を抱いている自分に気づく。


 崎山さんとは付き合ってるわけじゃない。

 別に後ろめたさなんてあるはずないのに。




 しばらく歩いて駅前まで来た。

 この辺りはサラリーマンを狙っているのか、飲み屋が妙に多い。


 僕が眺めていると「飲むの好きなんですか?」と南穂さんが尋ねてきた。


「結構好きですね。よく飲みに行きます」


「私もお酒好きなんですけどぉ、すぐに酔っ払っちゃうんです」


「人によって適量がありますしね。それにしても良さげな店が多いっすね」


「あ、わかりますぅ? 私もたまーに入るんですけど、美味しい店多いですよ」


「へぇ、何かオススメの店とかあるんですか?」


「あそこの角にある焼鳥屋さんとかぁ、あと奥のホルモンのお店とかぁ……」


 南穂さんはそこまで言うと、「そうだ!」と声を上げた。


「遠藤さん、今日良かったらこれから一緒に飲みません?」


「えっ? これから?」


「うちの課で歓迎会ってあんまりやらないんでぇ、良かったらどうかなって」


「そうですね……」


 そこで、スマホに通知が来る。

 崎山さんからだった。

 今日は何時になるのかと聞かれている。晩御飯の催促だろう。


 どうする?

 今から帰れば、十八時前には家に帰れるはずだ。

 しかし。


「ダメですかぁ?」


 このチャンス、逃すは男であるまいて。


「ダメじゃないです。行きましょう」


「やったぁ! そうこなくっちゃ!」


 僕は『今日は歓迎会で遅くなります』とだけ打つと、スマホを閉じた。

 そう、嘘ではない。

 多分。

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