第5話

 家に帰ってから、ぼくは凛の手紙を開封した。

 スリーピングキャットという、猫のマスコットがプリントされた女の子らしい封筒に、凛の随分上手になった日本語の字で、ぼくの名前が書かれていた。

 猫のシールの封を剥がして、ぼくは便箋を取り出した。


「富嶽くんへ


 富嶽くん、こんにちは。

 この手紙を富嶽くんが読んでいるということは、凛は夏休みの間に何かがあって、もう富嶽くんのそばにいられなくなってしまったのだと思います。

 でも凛は富嶽くんに嫌われてしまったみたいだから、それでよかったのかな、と思います。

 ずっと富嶽くんのそばにいたかったけれど、最後に過ごした時間みたいに何も話してくれない富嶽くんといっしょにいるのは辛いだけだから。

 凛は富嶽くんのことが大好きでした。

 富嶽くんの話す、教えてくれる日本語が、大好きでした。

 富嶽くんが書く小説を楽しみにしていました。

 小説、読みたかったな。

 もう読めないかと思うと、すごく残念です。

 だけどそれ以上に富嶽くんにもう会えないんだって思うと涙が止まらなくて、悲しくて、怖くて……。

 ねぇ富嶽くん、会いたいよ。

 またいっしょに放課後の教室でふたりきりで過ごしたり、いっしょに銀座商店街を歩いたりしたかったよ。

 はじめてキスをした場所、富嶽くんは覚えてくれてるかな。キスをしたのはあのとき一度きりだったね。凛にとってはじめてのキスでした。大切な大切なファーストキスでした。凛はあのとき、富嶽くんになら凛のこと全部あげてもいいって思いました。

 富嶽くん、凛のこと、まだ好きですか?

 最後にもう一度だけでいいから会ってほしいです。

 時間が許してくれるかぎり、凛ははじめてキスをしたあの場所で富嶽くんを待っています。


 山汐凛より」


 気が付くと、ぼくは家を飛び出していた。

 凛の手紙を握り締めたまま、商店街に向かって走っていた。

 公安に逮捕されてしまった凛が、四十日以上前に書かれた手紙に書いてある通り、約束の場所にいるはずがないことくらい、わかっていた。

 それでも走らずにはいられなかった。

 夏休みの間中、凛はひとりでぼくを待ってくれていたのかもしれない。そう思うと心が痛かった。

 凛のことを嫌いになったわけじゃなかった。嫌いになんてなるはずがなかった。

 なぜぼくは凛に誤解させてしまうような態度をとってしまったのだろう。

 凛でいやらしい妄想をして、自己嫌悪に陥って、ぼくは凛の顔をまともに見てあげることも話してあげることもできなかった。凛を傷つけてしまうとも知らずに。

 最低だった。

 会って謝りたかった。

 好きだと伝えたかった。

 ぼくは商店街の入り口のアーチをくぐり、行き交う人々に何度もぶつかりながら、罵声を浴びせかけられたりしながら、ぼくと凛がキスをした雑居ビルにたどり着いた。

 テナント募集中のフロアには、夏休みの間に不動産会社が入っていた。すでに今日の営業時間を終えて、明かりは消えていた。

 壊れていたはずのドアの鍵は直されていて、鍵がかけられていた。

 中に凛がいるはずはなかった。

 わかっていたけれど、ぼくはドアノブを蹴っていた。何度も、何度も。十数回蹴った頃、ドアノブがごとりと床に落ちた。ドアを押して中に入る。

「凛!」

 暗闇の中でぼくは叫んでいた。

「いたら返事をしてくれ」

 壁を手探りで明かりのスイッチを探した。見付からなかった。

「凛、いるんだろ、そこに。ぼくだよ富嶽だよ」

 本当にどうかしていた。

「手紙を読んできみに会いに来たんだ。遅くなってごめんな」

 警報が鳴り響いていた。

 駆け付けた警備会社の社員が警察に通報した。

 最寄りの交番の警察官にぼくは現行犯逮捕された。


 身元引き受け人には担任のナツメを指定した。

「なんでご両親じゃなくて私なんだよ」

 深夜に電話で呼び出されたナツメは、SAKAI警察署の入り口で不機嫌そうにそう言った。あわてて寝間着から着替えたのだろう。ナツメはスーツを着ていたがノーネクタイだった。

「先生に話があったから」

 ぼくはそう答え、促されるままナツメの車に乗り込んだ。外国製の軽自動車だった。

「まぁ、あの手紙を読んだらこんなことになるだろうとは思ってたけれど」

「読んだのかよ」

「どんな内容か聞いてただけさ。読んじゃいない」

「随分凛と仲が良かったみたいだね」

「リン・ヤマシオのことはもう忘れろ」

「よく言うよ。あんたが公安に凛を売ったんだろ」

「いや、ヤマシオ自身が自分から公安に名乗り出たんだ」

「まさか、そんなはずない」

「彼女が何故日本語を話せたか聞いてるか?」

「おじいさんから教わったって聞いてる」

「うん、そのおじいさんが、ちょっと困った人でな」

「困った人?」

 ぼくはオウム返しに尋ねた。

「そう。過激派という奴さ。いわゆるテロリストだな」

 初めて聞く話だった。

「ヤマシオは君から日本語の読み書きを習い、祖父がテロ組織のリーダーだということを知ってしまった。夏の終わりに大規模なテロ行為が行われるという計画書を見つけてしまった。その計画書は日本語で書かれていたそうだよ。だからテロを未然に防ぐために自ら、公安に名乗り出た」

 ナツメはずっと、祖父のことで凛から相談を受けていたのだという。

「自分が公安に逮捕されたとき、心配なのは自分に日本語を教えてくれたお前まで捕まってしまうんじゃないかということだった。だから、守ってあげてほしいと頼まれたよ」

 テロ計画は、SAKAI中のイングリシュの教師の自宅を爆破するというものだったらしい。

 ナツメやぼくの父も標的だったという。

「ヤマシオはお前のことを守りたかったんだ。好きだったんだよ。本当に」

 涙が溢れて止まらなかった。

「お前はどうだったんだ? 好きだったのか?」

「好きだった。今でも好きだ」

「じゃあ彼女の気持ちに答えてやれ」

 どうやって?

 ぼくにはもう何もわからなかった。

「日本語で小説を書くんだろ。一番に彼女に読ませてやるんだろ」

 小説を書く。

 それがぼくが凛のために出来る唯一のことだった。

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