第4話

 夏休みはあっという間に過ぎていった。

 毎年山のように出される宿題にぼくは一切手をつけていなかった。毎朝六時には目を覚まし、七時に家を出た。

 店たちが開店する前の静かな商店街を歩き、印象的な街の風景を、ぼくは手にしたノートに書き止める。この街が好きだった。この街のすべての風景を、ぼくは日本語で書きとめようと思った。どんな写真よりも、絵画よりも、映画よりも、それからイングリシュよりも、祖父が教えてくれた日本語で、凛と話した日本語で、美しくこの街のことを書こうと思った。

 小説はもうすぐ書き上がる。

 だけど、ぼくにその才能があるかどうかはわからなかった。

 ぼくはまだ十四歳で、自分が書いた文章を客観的に見ることができなかった。

 祖父はもういない。ぼくにいるのは凛だけだ。

 だから書きあがったら一番に凛に読んでもらおうと思った。凛がぼくの小説をおもしろいと言ってくれたら、楽しんでくれたら、ぼくはこれからも小説を書いていこう。おもしろいと言ってもらえなくても、楽しんでもらえなくても、おもしろいと言ってもらえるまで、楽しんでもらえるまで、小説を書き続けよう。いつか祖父の遺言を守れるように。

 凛に出会えてよかった。

 凛がいなければぼくは小説を書くことも、日本語を話すことさえ、諦めてしまっていたかもしれなかった。

 凛に会いたかった。

 どんな顔をして会ったらいいのかわからなかったけれど、会いたかった。

 夏休みが始まる前に、ぼくは凛にひどいことをしてしまった。

 話がしたかった。

 携帯電話の番号は聞いていたから電話をすればすむ話だったけれど、直接会って目を見て話したかった。

 ぼくは凛が好きだった。

 商店街を抜けて少し歩けば、凛の住むマンションがあった。一階にレストランが入っているような高級マンションだった。山汐家の部屋は、三階の吹き抜けの階段のそばの部屋だった。道路に面した凛の部屋の窓はいつもカーテンがかかっていた。

 ぼくはどれくらいの間、そこでそうして凛の部屋の窓を眺めていたのだろうか。

 気付くと真夏の暑い日差しが真上からぼくの体にさしていた。

 黒塗りの車がぼくの前に止まったのは、太陽がぼくの頭をちりちりと焦がしかねない時間のことだった。

 車から降りたのは、助手席から背の高い男と、運転席から小柄な男のふたりだった。黒いスーツに身を包んだふたりは、マンションを見上げた。

「何号室だ?」

 背の高い男が言い、

「302号室です。吹き抜けになっている階段を三階で降りてすぐの部屋です」

 ふたりは山汐家の客らしかった。

 背の高い男は、ぼくに目を向けた。

「きみはこのマンションの人?」

 と尋ねてきた。

 ぼくは慌てて首を振り、走って逃げた。


 夏休み最後の日、ぼくは小説を書き上げた。

 鞄にノートを大切にしまって、学校に登校した。

 けれど、二学期が始まって一週間が過ぎても、凛は一度も登校してこなかった。

 不審に思ったぼくは休み時間に凛の携帯電話に電話をかけた。

「おかけになった電話番号は現在使われてはおりません。おかけになっ」

 つながらなかった。夏休みの間に携帯電話の番号を変えてしまったのだろうか。

 奇妙なことに、一学期の最後に凛が座っていた席に別の同級生が座っていた。横に六列、縦に五列、ぼくたちのクラスは三十人で机はそうな風に割り振られていた。しかし、凛が座っていた列だけ、机は四つしかなかった。凛の席がなくなって、後ろの席の者が前に詰めていた。

 教室の後ろの壁には、ぼくたちが美術の授業で描いた、隣の席の生徒の水彩絵の具の肖像画が飾られていた。絵は二枚欠けていた。凛が描いたものと、凛が描かれたものだった。画用紙二枚分の空いたスペースには、かわりに「友」「達」「の」「肖」「像」「画」というタイトルが一字ずつ書かれ切り抜かれた紙がとってつけたかのように貼られていた。

 ぼくは教壇に置かれていた出席簿を確認した。リン・ヤマシオの名前はどこにもなかった。

 同級生たちは誰ひとり凛の話をしなかった。まるで凛がはじめからいなかったかのように。凛はぼくの妄想の世界で作り出した女の子であったかのように。

 だけど凛は確かにいたはずだ。

 クラスの中心でいつも輝くような笑顔を振り撒いていた。その笑顔がぼくは好きだった。ジュニアハイスクールに入学したその日からぼくはいつも教室の隅の席からその笑顔を盗み見ていた。

 はじめて話したのは、夜の教室だった。ぼくは机に忘れたノートを取りに帰り、凛はそのノートを持ってぼくを待っていた。

 放課後の誰もいない教室で、ぼくたちは机をくっつけて日本語を話した。ぼくは凛に読み書きを教えた。

 しかし、凛の存在は夏休みの間になかったことになってしまった。

 同級生の誰に聞いても、凛のことを覚えている者はいなかった。知らないふりをしているということはすぐにわかった。

 ぼくは職員室に向かった。

 不真面目な生徒だったから、宿題の提出を忘れたり試験で赤点を取ったり、職員室や生徒指導室に呼び出されることはよくあったけれど、自分から職員室を訪ねていったのははじめてのことだった。

 担任の教師は、ぼくが訪ねてきたことに驚いた顔をした。凛のことを尋ねると、同級生たちと同じ反応をした。

 凛のいない学校にいる意味はなかった。

 ぼくはそのまま学校を早退した。

 凛のマンションの部屋は空き家になっていた。

 マンションはキーを持っていないと建物の中に入ることができない作りだった。ぼくは入り口で少し待ち、マンションを出る人と入れ違いに入ると、掃除をしていた管理人らしき人に凛のことを尋ねた。

「ああ、ヤマシオさんね」

 管理人だけが凛の家のことを覚えていた。

「なんでも、娘さんが日本語の勉強をしてたとかで、公安が来たんだよ」

 もう十日くらい前かなぁ、きみも公安がどんな奴らか知ってるだろ、かわいそうになぁ、管理人はそう言った。

 あの日ぼくが見た黒塗りの車から降りてきた二人の男は公安だったのかもしれない。

「どこに連れて行かれたのかわかりませんか」

「知らないねぇ」

「そうですか。ありがとうございました」

 マンションを出ると担任の教師が立っていた。

「やっぱりここだったか」

 ヒロユキ・ナツメはイングリシュの教師だった。

「何の用ですか」

「リン・ヤマシオから手紙を預かってる」

 ナツメはぼくに手紙を差し出した。

 そこには凛の字で「富嶽サトシ様」とあった。

「終業式の日にヤマシオがわたしのところを訪ねてきた。お前から日本語を教わってると言ってた。だけどお前に嫌われたみたいで、どうしたらいいのかわからないから相談に来た、ってな。学校の教師は大変だよ。お前みたいな問題児の面倒を見なけりゃいけないし、女生徒の恋の悩みも聞いてやらなきゃいけないんだからな」

 場合によっては公安にも連絡しなきゃならない、とナツメは言った。

「あんたが凛を公安に売ったのか」

 ぼくはナツメの襟首を掴んでいた。

「私は公務員としての務めを果たしただけさ。お前こそ、なんでヤマシオに日本語なんて教えたんだ?」

 お前がヤマシオを殺したようなもんだぞ。

 ナツメの言葉に、ぼくの意識は一瞬遠のいた。

「凛はどうなったんだ?」

「生きてるよ。この国が植民地であり続ける限り、こちら側に戻ってくることはないだろうがな。この国で日本語を話すことは殺人より罪が重い。ヤマシオはこれから35年も塀の中で過ごすことになるだろうな」

 お前がヤマシオとその家族を殺したんだよ。

 ナツメはそう言って、ぼくの手を払いのけると、踵を返して足早に去っていった。

「どうしてぼくのことは公安に言わないんだ?」

 ぼくはその背中に向かって叫んだ。

 ナツメは一度だけ振り返り、だけど何も言わず、商店街の雑踏の中に消えていった。

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