第3話

 その夜から、ぼくとリンは秘密の時間を共有するようになった。

 リンは日本語を、ぼくと同じように祖父から習ったそうだ。しかしリンの祖父は戦後、読み書きを忘れてしまったそうだ。だからリンに日本語を教えることはできても、読み書きを教えることができなかった。

 ぼくは、放課後の教室でリンに読み書きを教えた。

 今では祖母がひとり暮らす祖父の家の物置から、ぼくは敗戦まで祖父が教えていた国語の教科書や読み書きの学習帳を探し出した。教科書は墨で黒く塗り潰されている箇所が多く、塗り潰されているのは当時は危険思想とされたものであったり、カタカナで表記される日本語英語だったりした。戦時中はイングリシュを使うことを禁じられ、ベースボールの試合でさえ、ストライクやボール、ホームランなどの言葉までもすべて日本語に訳して行われていたようだ。戦争を知らないぼくたちは、まだ日本語を話すことが許されていた戦争という時代が少しだけ羨ましかった。不謹慎かもしれないけれど。

 読み書きを教える前に、リン・ヤマシオという彼女の名前に、ぼくは山汐凛という漢字を当てた。

 凛は、はじめて書いた漢字を、自分の名が書かれたノートを、けして上手には書けていなかったけれど、溢れんばかりの笑顔で抱き締めた。

 イングリシュで話すとき、ぼくたちは自分のことをアイ、マイ、ミー、マインと表現する。日本語で話すとき、凛は自分の名を一人称に当てるようになった。凛は。凛の。

「変かな?」

「かわいいよ」

 普段は教室中に振り撒かれている凛の笑顔が、放課後の教室ではぼくだけに向けられていた。

 顔をくしゃくしゃにして笑う凛の笑顔がとても好きだった。

 凛は自分の名を漢字で書けるようになると、今度はぼくの名を覚えてくれた。

 ぼくたちは日が暮れてクラブ活動が終わり、生徒昇降口が閉まってしまう時間まで教室でふたりきりで過ごした。

 帰り道は同じ方角だった。

 銀座商店街を並んで歩きながら、凛はぼくの手を握ってくれることもあった。ぼくはその手を握り返した。

 凛は、占領下にあり日本語を話すことさえ許されないこの国の、イングリシュばかりが並ぶこの不自由な街で、とても自由だった。テナント募集中というイングリシュの貼り紙が貼られた雑居ビルのドアの鍵が壊れているのを見つけると、中に不法侵入して、ぼくを誘った。

 ぼくたちがはじめてキスをしたのは、そんな場所だった。

 唇と唇が触れるだけの優しく甘いキスだった。

 舌を入れようとすると、凛は唇を離して、ぼくの体を腕で押し退けると、まだだめ、と頬を膨らませて言った。かわいかった。

 ぼくたちは、指をからませてもう一度キスをした。

「凛ね、富嶽くんのことが好き」

「日本語を教えてくれるから?」

「バカ……」

 ずっと好きだったの、はじめて見たときから、凛はぼくの顔中の至るところにキスをした。

「凛ね、一生懸命日本語を勉強する。富嶽くんが書く小説が読めるくらいになりたい」

 帰り道、凛はそう言った。

「富嶽くんの小説の最初の読者になりたいの。それでね、富嶽くんの小説がたくさんの人に読まれるときが来たら凛は言うんだ。ずっと前から凛は知ってたよって」

 何十年も先の話だよ、とぼくは笑った。

「そんな時代が来るかどうかもわからないよ」

「きっと来るよ。凛ね、それまでずっと富嶽くんのそばに居させてほしいな」

 ぼくも凛にずっとそばにいてほしかった。

 ぼくたちはまだこどもで、未来のことなんか何ひとつわからなくて、十年後や二十年後にぼくたちがいっしょにいられる保証なんてなかった。だけどそのときのぼくたちの気持ちは、本物だった。

 小説の構想は、大まかにだけれど、もう出来ていた。

 日本語を奪われなかった世界に生きるぼくと凛の物語だ。

 その小説をぼくは祖父のためではなく、凛のために書こうと思った。

 後はもう書くだけだった。

 ぼくは毎日、凛を家まで送った。

「公安に気を付けて」

 ぼくたちは必ず、そう言って別れた。


 ジュニアハイスクールに入学するときに買ってもらったミニノートパソコンには、もちろん日本語なんてインプットされていない。

 インターネットのアンダーグラウンドと呼ばれる場所には、パソコンを日本語化する違法なソフトが転がっているという話を聞いたことがあったけれど、公安が仕掛けた罠だという噂だった。そんなソフトは存在せず、ウェブサイトは公安によって作られており、そうとは知らずダウンロードした者は、個人情報を逆に奪われ、数時間後には公安に逮捕されるという。現代の都市伝説のひとつだ。

 だからぼくは小説を書くときはノートに書いた。文具店で買える原稿用紙はイングリシュ用のもので、かつてのような400字詰め原稿用紙などはなかった。

 小説の作法は、繰り返し読んだ祖父の文庫本から自然と身についていた。

 物語の舞台は、ぼくや凛が生まれ育ったこの街だ。

 学校の図書館でSAKAIシティの地理や歴史を記した本を借りた。生まれ育った街の歴史を知るのはとても興味深いことだった。ぼくはこの街が戦時中に何度も空襲を受けたことさえ知らなかった。他にも資料になりそうないくつかの本を借り、女の子の心を知るために凛から少女漫画を借りたりもした。

 凛が貸してくれたのは、とても少女漫画とは思えないような、女の子が簡単に男に体を捧げてしまうような漫画ばかりだった。最近の少女漫画はみんなそういうものなのだという。十年くらい前に、日本語に訳すなら援助交際とでも言うのだろうか、売春と大差ないような行為が女子中学生や女子高生の間で流行った。あの頃から未成年の性は乱れはじめたと言われている。学校で性教育が声高に叫ばれるようになったのも確かその頃からだ。ハイスクールで夏休みの前にコンドームが配られるようになったのも。少女漫画を読む少女たちの性が乱れているから少女漫画も乱れはじめたのか、あるいは少女漫画の性が乱れはじめたからそれを読む少女たちが乱れるようになったのか、ぼくにはとても疑問だった。

 凛に尋ねたみたけれど、

「そんな難しい話わかんない」

 と言われた。

 凛が変な漫画を貸してくれたものだから、ぼくは気が付けば彼女が処女であるかどうかということばかり考えるようになってしまった。一年生から同じクラスだけれど、凛に男ができた、という話は聞いたことがなかった。だから安心だ、と彼女が貸してくれた少女漫画を読んでしまったぼくにはとても思えなかった。

 凛がぼくではない男に抱かれているのを想像すると、心臓が早鐘のように鳴った。呼吸が荒くなり、頭の中がざわざわした。今すぐ凛を問い詰めて真相を聞き出したいという欲求にかられた。その一方で、たまらなく興奮を覚えている自分がいた。気が付くとマスターベーションしていた。射精してしまった後で、激しい自己嫌悪に陥った。

 次の日の朝、ぼくは凛の顔をまともに見ることができなかった。

「小説、進んでる?」

 凛はぼくに尋ねた。

「もうすぐ夏休みだね。しばらく会えなくなっちゃうね」

 ぼくは答えてやることができなかった。

 ぼくは凛を汚したのだ。

 そのかわいい笑顔を。白くきれいな体を。彼女の心を。

 ぼくは凛から逃げるように、ジュニアハイスクールの校門をくぐった。

「どうしたの? 富嶽くん。なんか今日変だよ」

 放課後の教室で過ごす時間も、いつものようにはいかなかった。

 凛は相変わらずぼくに優しく笑いかけてくれた。

 その笑顔を見ると、昨夜彼女を汚してしまったことを思い出した。

 胃液が逆流する。

 ぼくはトイレに駆け込んで、胃の中のものをすべてもどした。

 教室に戻ると、もう凛はいなかった。

 彼女と満足に話せないまま、夏休みがきてしまった。

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