第2話

 祖父が亡くなってからのぼくは、母曰く「死んだ魚のような目」をしていたそうだ。

 母国語は失われても、慣用句のようなものはそのまま英語に翻訳され使われていた。

 それもそのはずで、ぼくは父の遺言を守りたいと思いながらも、日本語を話す相手がいなくなってしまい、ぼくの語力は自分でもわかるほどに衰え始めていたからだった。祖父が遺してくれた文学小説の文庫本だけが、ぼくの心のよりどころだった。

 学校の授業は退屈だった。退屈だからといって、文庫本を鞄から取り出して読むというわけにもいかなかった。そんなことをしてもし教師に見つかりでもしたら、没収どころの騒ぎではすまない。ぼくは通報されて、公安に逮捕され、重い罰を受けることになるだろう。ぼくは未成年だから、両親にもその罰は与えられるかもしれなかった。

 教師たちや同級生たちが話すイングリシュは子守唄にもならず、ぼくは眠ることさえできなかった。だからただぼんやりと、ぼくは窓の外の空を眺め、小説の構想を日本語で練った。ときどき、教師に当てられて日本語で答えてしまいそうになりながら、ぼくはノートに誰にも気づかれないようにして日本語で思いついた物語を書きなぐった。

 何も思いつかない日は、学校を早退した。SAKAIの街をひとり歩いた。

 SAKAIは、OSAKA府では人口と面積がニ番目に大きい都市である。二〇〇六年四月一日にジャパンで十五番目・KINKI地方では四番目、OSAKA府でもOSAKAシティに次いでニ番目の政令指定都市に移行した。SAKAIは昼間人口より夜間人口の方が多いという特徴がある。また、南区のIZUMIノースニュータウンは、OSAKAシティのベッドタウンというイメージが強い。

 ジュニアハイスクールから程近いTAKASHIMAYAやジョルノ、SAKAI銀座商店街でぼくは下校時間までを過ごす。SAKAIイーストステーション周辺には、市役所や裁判所などの行政機関が集まっているので、一日中たくさんの人でとても賑わっている。その中心にある駅前商店街が、SAKAI銀座商店街だ。J-POPミュージックを牽引するミュージシャンたちの一組、KOBUKUROというフォークデュオがインディーズ時代に路上ライブをしていたらしいその商店街では、毎晩ストリートミュージシャンが自作の恋の歌を歌っていた。演歌やムード歌謡まで、この国の音楽という音楽はすべてイングリシュで歌われるようになっていた。商店街でストリートミュージシャンが路上ライブを始める頃、ぼくは帰宅する。

 帰宅すると、ぼくは部屋に閉じこもり、むさぼるように文庫本を、日本語を読んだ。何度も何度も繰り返し読んだ。本当はもう、読まなくても祖父が遺してくれた文庫本はすべて一字一句頭の中に入っていた。それくらい読み返していた。

 祖父がいなくなってしまって、日本語はもう文庫本の中にしかなくなってしまった。


 その日もぼくは、銀座商店街を歩いていた。

 KAKURENBO、ミスタードーナツ、ISHIBASHI歯科医院、QUICK9、プロミス、Fish&Art、OSセンター、Rio、アット・チャレンジャー、SoftBank、センターコンタクト、MIYAMOTO-MUNASHI、100YenShop”Le.Plus”、RUSTIC HOUSE、ケンタッキーフライドチキン、ドトールコーヒー、WATAMI、TAKATOMI、YAYOI-KEN、コポ、ヘアカット・ダルマ・パビリオン、TSUBASA、KI・CHI・RI……。

 商店街に並ぶ店の、イングリシュの看板を眺めながら歩いていた。

 小説の執筆は遅々として進んではいなかった。

 ぼくは祖父の遺言を守ることができるだろうか。植民地から解放される35年後の未来に、ぼくは49歳になっている。この国があるべき形を取り戻したとき、もう一度この国の人々が日本語を話せるような時代がやってくるだろうか。ぼくが書く小説を誰かが読む時代がやってくるだろうか。看板たちを眺めていると、そんな時代はやってこないような気がした。

 ぼくが書くだろう小説は、きっとこの国が母国語を失わずにすんだ世界の物語だ。

 鞄から小説の構想を書きとめたノートを取り出そうとして、ぼくはそれを教室に忘れてきてしまったことに気づいた。取りに戻ろうかと考えた。だけどまだ午後の授業中だった。

 ノートはたぶん机の中にあるだろう。誰もぼくの机の中など見ないだろう。明日の朝、いつもより早く家を出て学校に行き、ノートを確認すればいい。鞄にしまえばいい。そうも考えたけれど、万が一ということもある。もし誰かにあのノートを見られたら、その誰かが教師に報告をしてしまったら、そう考えると額に汗が噴き出してきた。手のひらにもじっとりと汗を書いていた。

 ぼくは商店街でストリートミュージシャンが路上ライブを始める時間まで過ごすと、学校へと引き返した。

 夜の学校に来るのははじめてのことだった。

 職員室にはまだ教師が残っているらしく明かりがついていたが、ベースボールクラブのグラウンドも、体育館も、教室も真っ暗だった。月明かりと、職員室の窓から漏れる明かりを頼りに、ぼくは校舎の薄汚れた白い壁に手をはわせながら、生徒昇降口へ向かった。昇降口のドアにはもう鍵がかけられていて、ぼくは途方に暮れてしまった。

 ぼくは教師たちがまだ職員室にいることを思い出し、教員用の出入り口へ向かった。

 教師たちに見つからないように注意深く校舎内に侵入し、かがんで足早に職員室の窓に面した廊下を通りすぎた。ぼくが所属する2年F組の教室へ。

 教室は真っ暗だったが、明かりをつけるわけにはいかなかった。教師たちが気づき、不審に思ってやってくるかもしれなかった。ぼくは鞄から携帯電話を取り出すと、その液晶画面の明かりを頼りに机へと向かった。

 そのとき、

「富嶽くん?」

 背中から女の子の声がした。

 振り返ってしまった後で、ぼくは日本語で名前を呼ばれたことに気づいて驚いた。

 そこには同級生のリン・ヤマシオが立っていた。

 長い黒髪に、こぼれそうなほど大きな瞳を縁取る長い睫、夏服の白いセーラー服から伸びた長い手足は透けるように白い。

 教室の隅でいつも窓の外ばかり見ている、不真面目で不健康で内向的なぼくと違い、リン・ヤマシオは同級生の男子たちの間ではマドンナ的な存在だった。

 ぼくも密かにだけど、リン・ヤマシオに恋をしていた。

「暗いからよくわからないけど、富嶽サトシくんだよね?」

 リンは、もう一度日本語で、ぼくの名前を呼んだ。

「どうしてここに?」

 ぼくはイングリシュで彼女にそう尋ね、

「あなたがノートを取りに戻ってくるのを待ってたの」

 リンはやはり日本語で答えた。

「ノート?」

 ぼくは知らないふりをした。目は暗闇に徐々に慣れてはきていたが、まだリンの表情をうかがい知ることはできなかった。

「あなたのノートよ。日本語で何か書かれてる」

 憧れの女の子が流暢に話す日本語はとても美しかった。

 リンの舌足らずの甘い声は日本語を話すためにあるとさえ思った。

 彼女は授業が終わった後、掃除中に誤ってぼくの机を倒してしまい、その際に床に散らばった教科書たちの中からそのノートを見つけたのだと日本語で言った。

「これ、見つけたとき、わたしとても嬉しかったの。わたしの他に日本語を話せる子が同級生にいるんだってわかったから。富嶽くんも日本語、話せるんだよね?」

 ぼくはもう諦めることにした。

「きみも話せるみたいだね」

 日本語でそう言った。諦める、というのは間違いかもしれなかった。ぼくも日本語を話せる相手が同級生にいたことが、それがリン・ヤマシオであることが嬉しかった。

「話せるだけ。読み書きはできないんだ。だからこのノートは読めなかった」

 ねぇ、これには何が書いてあるの?

 リンはぼくに尋ねた。

「死んだじいさんの遺言なんだ」

 日本語で小説を書いている。

 ぼくはそう答えた。

 リンの目が暗闇の中できらきらと輝いた。

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