ぼくたちの境界線
雨野 美哉(あめの みかな)
第1話
一九四五年八月十五日、今からもう六四年も前の話だ、その日ぼくの住む国は何年も続いた戦争に負け、九九年もの間植民地となることになり、ぼくたちは母国語を失った。
かつてこの国がアジア諸国から母国語を奪ったように。
この国の人々にはイングリシュという新しい言語が与えられた。
漢字や平仮名、片仮名といった日本語と呼ばれていた言語は都市からも田舎からも消えた。
ぼくが生まれ育った都市の名も堺からSAKAIに改められ、かつて摂津国・河内国・和泉国の三国の境に発展した街である事から付いたというその由来をどこにも感じられない名前になった。今ではたぶん、誰もその由来を知る者はないだろう。
かつてはこの街は「ものの始まりなんでも堺」といわれるほど、堺を「発祥の地」とするものが伝承も含めて多数あったそうだ。
鉄砲製造であったり、傘であったり、三味線、線香、金魚、かるた、関東煮、だんじり、ふとん太鼓、すずめ踊り、それから銀座。今ではすべてイングリシュの言葉に差し替えられるか、あるいはローマ字表記されるこれらの言葉たちは堺で生まれた。
SAKAIシティの歴史は古く、古くは旧石器時代から続いているとされるが、イングリシュの言葉が並ぶこの街はその歴史さえ失われてしまったように思えた。
戦争が終わって、五十年が経った一九九五年の八月十五日にぼくは生まれた。
ぼくの家は曽祖父の代から続く教師の家庭だった。
偉大な国語(日本語のことだ)教師だった曽祖父は、ぼくが生れ落ちたときにはとっくの昔に亡くなっていたが、その跡を継ぎ、敗戦まで国語教師を務めたという祖父から、ぼくは日本語を習った。日本語はイングリシュとは違う独特の文法を持ち、似た文法を持つ言語は地球の裏側にある国の少数民族のものだけだと祖父は言った。日本語は美しい言語だと祖父は何度もぼくに語った。「おまえの父親は駄目だ。あいつは日本語を覚えようともしなかった」祖父はそう言ったが、仕方のない話だとぼくは思う。日本語を話せば罰せられる、教えれば職を失う、今でも変わらないけれど父が育ったのはそういう時代だった。祖父だって、敗戦を機にイングリシュの教師に転向していた。
ぼくは祖父から、戦後の日本語文献回収騒動から免れたというMEIJIやTAISHO、SHOWA初期に書かれた小説を与えられて育った。イングリシュの教師であった父の目を盗んで、ぼくは日本語を少しずつ覚えた。両親にも友達にも学校の先生にも内緒で。話し相手は祖父しかいなかったけれど、祖父と過ごす日本語を話す時間がぼくには何にも換えがたく、学校から帰るとぼくはランドセルを玄関から居間に放り投げると、駆け足で祖父の住む家へと向かった。祖父はぼくの家から徒歩数分のところに住んでいた。
SAKAIシティの西部は平坦で、古くからの工業地や商業地が多く、市街化が進んでいた。OSAKAベイに面する北西部は、日本語にあえて訳すなら新日本製鐵堺製鐵所を始めとする堺泉北臨海工業地帯と呼ばれる工業地域だ。HAMADERASHOWAとSUWAフォレストは屋敷や別荘が建ち並ぶ高級住宅地であり、海浜リゾート地であった。今はHAMADERA沖の埋め立てと重工業コンビナートの形成により、この地域の高級感は少し衰えをみせる。中央部は大阪市の上町台地から続く高台で、UENOSHIBAにはその地形を生かして戦前、阪和電鉄により「向ヶ丘」「霞ヶ丘」の住宅地が開発された。また、戦後はニューKANAOKAやセンターMOZUなどに大規模団地が建設され、1970年代には北東部の市街化も進んだ。南東部のHATSUSIBAとOMINOは戦前に住宅地として開発されたが、周辺は緩やかな台地と田園地帯で農地も多く残る。南部は丘陵地となっており、IZUMIノースニュータウンが広がっている。
祖父はいつも、庭に面した縁側で、日向ぼっこをしながらぼくが訪ねてくるのを待っていた。
「ハウ・イズ・ユア・ファーザー?」
父は必ずぼくにそう聞いた。祖父の英語は、片仮名で書きとめてしまえるほどの片仮名英語だった。
"My father is always speaking English as usual"
父さんは相変わらずイングリシュばかり話してるよ、ぼくは必ず祖父にそう答えた。
「ゴー・アップ・ツー・ザ・ハウス」
「センキュー」
それはぼくと祖父の合言葉のようなものだった。
祖父が死んだのは、ぼくがジュニアハイスクールに上がる年のことだった。
兄弟や息子娘夫婦、ぼくを含めた孫たちに囲まれながら、祖父は最期と時を過ごした。
祖父はけっしてイングリシュを話そうとしなかった。
日本語で、ぼくたちひとりひとりに感謝や激励の言葉を語った。ぼく以外、誰一人祖父の言葉を理解できる者はいなかった。祖父は力なく笑っていた。ぼくはそのときはじめて、祖父の日本語を英語に通訳して皆に伝えた。
皆驚いた顔をしていたが、祖父に日本語で別れを言いたい、と言った。
「サヨウナラ」
ぼくは別れの日本語を口にし、皆一様にサヨウナラ、サヨウナラと祖父に笑いかけた。
祖父は最後に、「ありがとう」とぼくに言い、
「大人になったら日本語で小説を書きなさい」
と言った。
「日本語で小説を書いても、誰も読めないとお前は思うかもしれない。だけど日本語を死なせないためにも、誰にも読まれることがなくても、お前には日本語で小説を書いてほしい。それを後世に残してほしい。いつの日か日本人が日本語を再び話せるときがやってきたときに、新しい世代のこどもたちがお前の小説、生きた日本語を読んで育つことができるように」
わしはお前に日本語を教えるために生まれてきたような気がするよ。
それが祖父の遺言だった。
ぼくはその言葉を誰にも通訳せず、胸に秘めて、祖父の遺体が火葬場で焼かれ、煙と灰になるのを見届けた。
そうしてぼくはジュニアハイスクールに入学した。
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