第4話

 私はいつからピアノを始めたのかを思い出していた。十五歳で失ったピアノの感覚はどこで生まれたのか。

 最初は母からピアノを教わったのだった。母から最初に教わった曲はなんだったのだろうか。あの頃の母はどういう表情をしていたのだろうか。今となっては思い出せない。

 生まれた子は娘だった。夫とも話した結果子供は娘ひとりと決めた。戦国時代から続く由緒ある血筋は薄くなっていく一方だった。


 日々の育児の生活が落ち着いてきた頃、電子キーボードを夫が買ってくれた。あのピアノを捨てられた暑い記憶が蘇ってきた。しばらく鍵盤に触れていなかったためにゼロからの初心者のように音になれていくところから始まった。

 ピアノ大会から隠れて弾いていたクセがどうしても抜けられずにいた。ピアノを弾くことで叱責を受けない日々。電子のためヘッドフォンをすれば音は漏れない。といってもカタカタ音はするので夜はしないようにしている。あの大会でちゃんと弾けなかった曲を練習していた。あの大会で母は私をどう見ていたのだろうか。どうしてもあのときミスをしたときの箇所がうまく弾けないでいた。

 

 娘は小学生になる。娘も私のマネをしてキーボードを叩くようになった。少しずつ簡単な曲を教えている。曲になると娘は他にも教えてほしいとせがんでくる。キーボードに向き合う私はどういう表情をしているのだろう。娘は私の腕にしがみついて顔を覗きこんで笑っている。私は娘の頭をなでる。娘は跳ねては耳のそばで金切り声をあげる。

 キン、とした脳に刺激が入る。

 母の穏やかな顔をしていたのを思い出す。母は歌を歌いたかったと言っていた。母もピアノを弾いていた。いつからか私のピアノに専念することになった。それ以前の姿が脳裏をよぎる。母の横顔。私は母の手に触れられずにいた。手を伸ばせば触れるのに触った記憶が一切ない。

 娘は遠慮なしにまとわりついてくる。

「わたしも曲弾けるよ、先生に教えてもらったんだ」

 娘がキーボードの中央に座る。娘は「見てて」と言いながらキーボードを叩いた。


 きらきらひかる夜空の星よ。


 たどたどしく弾くその様子は、母が私に披露してくれたそのままだった。

「うまく弾けないなあ」

 言い方も母そっくりだった。面影も母に似ている。

「ねえお母さん、この曲知ってる。弾くことはできる」

 私は娘を抱きしめた。

「お母さん、どうしたの。お腹痛いの」

「え」

 頬を熱い雫が伝っていく。娘の演奏を聴きながら全身の力が抜けていった。めまいを起こしてしまい、娘にしがみついていないと倒れてしまいそうだった。

 娘は演奏をやめて私を抱きしめた。

「お母さん、大丈夫」

 私の涙はとまらない。今までもいろいろと涙を流してきたけれど、これほど熱い涙は初めてだった。

「お母さんね、この曲大好きよ。弾いてみるね」

 嗚咽のクセが消えていく。弾きながら、もう一度また本格的にピアノをはじめる決心をする。今ならあの大会でできなかった曲もちゃんと最後まで弾けるはず。

「お母さん、すごく上手」

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鎮火 @tatsu55555

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