第2話
病院は大人になっても苦手な場所。ただの検診でも足がすくむ。父親は医者だった。外科医だったため手術が続くとそれだけ家に帰ることは少なかった。今でも父親の顔はぼんやりとしか覚えていない。だけど祖父の顔は老人をみただけですぐにその面影が蘇ってくる。
年始の挨拶にと祖父の家に行った。中学三年生のときだ。私の成績は落ちに落ちて、志望校も滑らない高校を探すようなそんな状況だった。母はそんな私の成績について小言は一切なかった。当然父もなかった。私に恥をかかせるようなことだけはないように、あとは自分の勝手にしなさいと言われたのみだった。その私の成績をどこから聞いたのか、年始だし受験日も近いからと急に祖父からの呼び出しがあったのだった。
私は着物を着て向かった。母方から代々受け継がれている着物だった。
祖父の家は立派な屋敷だった。この屋敷は先祖代々から受け継がれてきた土地なのだという。祖父の代でまた新築にしたという。
父方の先祖は戦国時代からの有名な武将の出だという。京都にまで進出して天下に号令をかける手前までいったというが、私はその名前を聞いてもピンとこなかった。しかし祖父はその名字を誇りにしていた。
厳しい眼光を持つ祖父は歳をとったとしても威風堂々としていた。大病院の医院長をしていたとしても若い頃に鍛えたという肉体は衣服の上からでもみてとれた。居間に通されると「文武両道」の掛け軸がかかっている。その下には日本刀と鬼の面が飾られていた。
その前に祖父が座り、テーブルを挟んで私たち家族が座った。当然全員正座である。祖母がお茶を運んできたけれど誰も手をつけられない。
「料理は後だ。まずは私の話からだ」
父は黙って祖父の目を見ることもできずにずっとうつむいていた。母は祖父の眼光に抗うかのように目をそらさない。私は両親の様子をうかがっていた。
拳をテーブルの上に置いて私の名前を呼ぶ。私は肩に衝撃派を受けた。
「私の家は代々名家として堂々受け継がれているというのは聞いているだろう。麻美ももう中学三年だ、小学生ではないのだから理解できるであろう」
拳を少し浮かせてまたテーブルに置く。その所作は叩くのを堪えているかのようだった。
「しかし君は一人っ子でありしかも女ときている。慶伸の代でこの本家は滅びる。なあ慶伸、この責任はどうとるつもりなんだ」
全員押し黙る。
「おい酒をまずは持ってこい」
祖父が大声をあげる。その突然の声にみんな肩を奮わせる。
「血は断絶するとしても婿養子をとって家を存続させるという方法もまだ残っている。この由緒正しき名家を残すためには優秀でなければならない。最低条件としてこの医院を立派に継げるかどうかである。女として生まれてしまった以上はやむを得まい選択だ」
升になみなみ注がれた酒を一気に飲み干すと、叩きつけるようにテーブルに升を置いた。
顔が赤くなった祖父は大きなげっぷをした。袖をまくると隆々とした腕がでてきた。
「お嬢ちゃん、それには自身が優秀な学校で優秀な成績を収めておかないといけない。類は友を呼ぶという。この医院を継ぐにふさわしい優秀な男とお近づきになるためには、そうでなくてはならない。わかるだろ、この理屈が」
祖父はさらに酒を要求する。
「なんでも君はピアノが少しだけできるようじゃないか。小学生のときには県大会にも出たんだって」
祖母が升と日本酒瓶を持ってきて酌をする。
「だがそれがなんの役に立つ。世界的な演奏ができるならまだしも所詮は県大会どまりだろ。それも他に賞のひとつもとれなかったようじゃないか。くだらない。実にくだらない労力を使ったものだな」
喉を鳴らして酒を飲み込んでいく。
「そのピアノで男を誘えるのか。相手にもされないだろう。今は昔と違って女だてらに勉強なんてと言われない時代だ。立派な学歴をもたないと世間に相手にもされない」
体中を真っ赤にさせた祖父がどなり声をあげる。
「それをなんだ、これから高校受験を控えているのに情けない成績をとっているというではないか。どうなっているんだ、ええ。この家に生まれたという自覚はないのか」
祖父がにらみをきかせる。
「なんだ、その目は。女で生まれてきたくせに」
せっかく今日の日のために着飾った着物の裾を私はちぎれるくらいに握りしめた。
その後料理が運ばれてきたが会話はなくみんな黙々と食事していた。私は豪華なおせち料理を前にして一口も食べられなかった。嗚咽がとまらず箸すら持ち上げられない。その様子を祖父が時折見ていた。その顔は笑っているように見えた。
酒がさらにすすんだ祖父は昔の苦労話をはじめた。
戦後の混乱の中を苦学して大学をでたこと、自分の親類のプレッシャーは今の時代では計り知れないものだったということ。医者としての数々の実績を伴って自慢できる数々のこと。その都度、自分は男としてというワードをいくつも挟んでいた。
さらに酒が入ると不機嫌になっていった。舌のろれつが回らずになにを言っているかわからないまま私を怒鳴りつけた。私は空腹のまま喉の奥に痛みを感じたままに泣き出してしまった。涙が着物にこぼれていく。ハンカチを手に取ることも手で顔を拭くこともできずに涙を落とした。顔が熱かった。
「これだから女は。泣けば済むと思っていやがる」
祖父はそう言うと父に升を投げつけた。顔を真っ赤にして鼻息を荒くしたまま部屋から出て行ってしまった。
父は升が飛んでくるのをわかっているのに少しもよけようとせずに額に受けていた。
「目に当たらなくてよかったよ」と小声でつぶやいた。しかし額からは血が噴き出していた。母がハンカチをわたすと父は額にあてがった。
「さて親父も行ってしまったし、帰るとするか。明日は医院に出勤しないといけない」
父はよろめきながら立ち上がった。
祖母はお土産を父に渡すと父は深々と頭を下げた。父は祖父にはもちろん祖母にもなにも言い返さなかった。
父と長いこと生活していたはずなのに父の印象はこのときしかない。このときの父の背中しか父の思い出がない。それはこのときを最後に会った祖父との記憶とセットだった。祖父の記憶は鮮明だが父のことは曖昧のまま。
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