鎮火
辰
第1話
暗いところに一筋のスポットライトが照らされているのを見るとフラッシュバックがおこる。例えば夜道に街灯が自分だけが照らされているだけで体が硬直してしまう。だからできるだけ夜道を歩くのは避けるようにしている。それでもそういう場面にはどうしても出くわしてしまう。そして決まって過去の自分に戻される。
十二歳ででたピアノコンクール。私は田舎の地方だとはいえ県大会まで駒を進めることができていた。これが優勝すれば次は全国大会。だけど私の指は前日から震えが止まらなかった。自分の名前が呼ばれて舞台上のピアノの前に座るとスポットライトがあまりにも眩しくて鍵盤が反射で白く光り目を開けていられないほどだった。緊張で手に汗がにじんですべってしまう。
ミスをすると額から汗がしたたり落ちていく。意識は朦朧とするがミスをするたびに体に痺れが走る。これでもう優勝はないと思うと口呼吸が荒くなってくる。体の温度が急上昇していく。息が上がる。しかし演奏を途中で放棄するわけにはいかない。
予選までには演奏がうまくいかずに泣き出してやめてしまう子など散見されたけど、県大会ではそんな子はいなかった。ミスが重なっていく。
思い出す度にあのときの吐き気が同じようにもよおす。その日の朝食はあまりとるとことができなかったが飲んだフルーツジュースがあと少しのところまで逆流していた。横隔膜を痙攣させながら堪えていた。
演奏を終えると礼をすることも忘れてすぐに舞台から降りた。廊下までたどり着くと一気に吐いてしまった。演奏の内容までは記憶が曖昧だけど目が回った視界は鮮明に覚えている。
気がついたら控え室のソファで横になっていた。誰かスタッフの人が運んでくれたのだろうか。表彰式をやっているであろうアナウンスが聞こえる。薄らとした意識の中で自分が呼ばれることはないとまた眠りについていた。涙が頬をつたうのを感じながら。
控え室が騒々しくなって目が覚めるとそこには親子で話している悲喜こもごもの姿があった。私はひとりでいた。
私の静寂はハイヒールの高い音が近づいてくることで破られた。母特有の強い足音。
「麻美」
大きな声で私を呼ぶ声。その金切り声が耳をつんざく。私の腕を力ずくで引っ張る。痛い痛いと言ってもきく母ではなかった。足がもつれてうまく歩けない。それでも母は力任せにひっぱっていく。
「あなたはどれだけ私に恥をかかせるつもりなの。ちゃんと歩きなさい」
母は腕を床に投げた。私の体は叩きつけられる。高価なドレスが埃まみれになってしまう。
目を開けてみると親戚一同がそこに勢揃いして立っていた。心配する声も聞こえるがどの顔も笑っていた。母の様子を伺いながらみんな狼狽している。
私が立ち上がると母は私の頭を上から押さえつけた。
「みなさま今日はお忙しい中、この子のために時間を割いていただいたのに、かように結果も出せずに申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる母の横で私は押さえつけられたまま礼をした。母はもう片方の手で持っているハンカチを力強く握りしめていた。その手が小刻みに震えているのを見ながら私は嗚咽した。嗚咽はこのときからクセになった。
演奏者は全員集まるようにと指示があったので私は母の脇をすり抜けて駆けた。後ろを振り返ることができなかった。母の香りが消えていくと涙があふれでた。私は舞台の端のほうに立たされた。盛大な拍手が起こった。中央で賞状を手にしている者は満面の笑顔だ。私は後ろに隠れてずっと泣いていた。声を殺してもしゃっくりがでてしまっていた。参加賞でもらったペンを抱えながら舞台を降りた。みんな母親に抱きついたり頭をなでられたりしていたけど、私を待っていた母はずっと私を睨んで黙ったままだった。
落とさないようにしていたペンを母は奪いとると床に叩きつけた。
「あんたは私に恥をかかせて。どういうつもりなの」
ペンは簡単に壊れてしまった。そのペンを拾うこともままならずにまた腕をひっぱられた。もうひとつの手を伸ばしても遠のくペンを私は二度と手にすることはなかった。
いつまでも泣いていた私の手を離した母はひとりでタクシーを呼んで乗ってどこかに行ってしまった。私は人目をはばからずに泣いた。親戚の叔母は叔父が私をなだめるがきかなかった。涙も声も枯らすまで泣いた。顔が熱くて立っていられなかった。
泣き疲れて泣き止んだ私は叔母の言うとおりに行動した。母はもうここには戻ってこないからと叔父の家に行くことになった。
車の後部座席に座ると私は横になった。ピアノの旋律が脳内から聞こえた。顔はひきつるような痙攣をおこしていて眠りにつくことはできなかった。
「あら、よっぽど疲れたのかしらもう寝てしまったわ」
叔母の声が聞こえる。
「麻美ちゃんはよくがんばったと思うけどねえ、私はピアノのことはよくわからないけどさ、あんな立派な舞台でよくもまあ」
「でもよう、なんか途中途中で妙な音がしなかったかあ、それはオレでもわかったぞ。やっぱり優勝した子とはなんか違ったよな」
叔父の野太い声が耳に入る。
「ちょっとアンタ、そんな大きな声で。聞こえでもしたらどうするの、後ろに麻美ちゃんいるのよ」
赤信号で止まると叔父は後ろに首を回した。
「大丈夫だよ、ぐっすり寝てら。あのプレッシャーから解放されたんだ、しばらく起きないよ」
叔父の乾いた笑いが起こる。
「しかしまあ、この子の母親ときたら変わらないな。見たかよあの姿」
「そうそう、すごかったわね」
叔父も叔母も笑っている。私は瞼に強い痙攣を感じながら聞いていた。
「あれは火のような女だ。火のように美しいが火のような激しい気性だ。あの火を消すことなんてできねえ。恐ろしい女だよ」
私は身震いをした。視線を感じる。
「この子もそうなっちゃうのかね」
叔母のそのひとことに叔父が笑う。
「血は争えないだろ。あっちの血はみんなそんな女ばっかりだ。それに父親は勤勉そのものって感じだけどその親父もあの有名な病院の有名な医院長だろ、もっと厳しい性格になっちゃうんじゃないか」
「ちょっと、そんな大きな声で目を覚まして聞こえたらどうするの」
「大丈夫だよ、しっかり寝てるよ」
私は涙がでるのをぐっと堪えて見られないほうの手を堅く握った。私のピアノ大会はこうして終わった。
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