おかえり

八代 八千代

おかえり

 突然いなくなった母さんが戻ってきたのは、また突然だった。

「帰ってきちゃった」

 そう言って何事もなかったかのようにソファにどっかり座って、お煎餅をほおばる母さんは、なんだか少し、へんだった。

 ……あれ? 母さんって、こんなんだったっけ。



 母さんがいなくなったのは、半年前だった。

 町内会の旅行に行くとか言って、そのまま帰ってこなかったのだ。平生からぼんやりとした父さんが言うには、母さんは男の人のところに行ってしまったらしい。私もお兄ちゃんも、「なんで、あんな、おばさんが?」と驚愕した。

 実を言うと、私が驚いたのはそこだけだった。母さんがいなくなったということは、なんだかひどく嘘っぱちのように感じられたのだ。だから私がそのことをはっきり認識したのは、いつもできていたお弁当が、朝起きても食卓にないことに気づいたときだった。

「ううわ、あの人ほんとにいないんだ」

 お兄ちゃんの言葉に、そうだねと頷きながら、いやはやこれは大変なことだったのだなぁ、とぼんやりと思ったのだ。

「あら、ま。きったないわねぇ。あんた、ちゃんと掃除してたの?」

 母さんは意地悪な継母のように呟きながら、部屋の中をうろうろしている。その姿に、なんだか私はちょっと落ち着かない。

「嫌だ、テレビの裏、すっごい埃」

 信じられない、と言いたげな表情で母さんが振り向く。戻ってきてから三日、ずっとこの調子だ。まるであの半年間なんてなかったように、私と遠慮のない親子の会話を続けている。それに、父さんもお兄ちゃんも、少し驚いただけで、それからは母さんの存在を当然のものとして扱っていた。

「うるさいなぁ。今からご飯作るんだから、黙っててよ」

「やだぁ、あんたの味つけ濃いのよ」

 母さんはくすくす笑って文句を言いながら、それでも大人しくソファに座った。その白髪を染めた後ろ頭を確認して、私は台所へ立った。

 なんだかとっても、親子みたい。まぁ、確かに親子なのだけれど。

 そう思うけど、やっぱりへんだ。この状況だってそう。前は母さんがここに立っていて、私がソファに座っていた。すごく、へん。父さんもお兄ちゃんも、あの半年がなかったように振る舞うけど、やっぱり母さんはいなかったのだ、この家に。

 じゃあもう、あの人は、昔の、『私の母さん』ではなくなってしまったに違いないのだ。いったい彼女は今、何者なのだろう。心の底から疑問がむくむく湧き上がってきて、私はひょいと母さんを振り返る。実態のないすかすかした靄みたいに、老いの入り口に立った女は奇妙にかすんで見えた。



 カレンダーに、小さな赤い丸がついた日がある。それは今日だった。なんだったっけ、これ、と思ってじっと見ていると、横でお兄ちゃんが呟く。

「ううわ、今日、あの人の誕生日だよ」

 あぁ、そうだった。我が家には、カレンダーを買うと家族全員の誕生日に丸をつけるというおかしな習慣があったのだ。去年は、ちゃんと覚えていたのになぁ。父さんもお兄ちゃんも、そして母さんも何も言わないから、さっぱり忘れていた。

 私は母さんの背中に声をかける。

「ねぇ、誕生日、何が欲しい?」

 やっぱりソファに座って朝のニュースを漫然と眺めていた母さんは肩をびくりと震わせた。それから油の足りないロボットのような動きで振り向くと、にやっと笑って、

「大きいケーキ」

 と、ひどく子供じみたことをのたまった。私は目をぱちくりさせて、父さんと、お兄ちゃんを振り返る。父さんは黙って新聞を読んでいる。お兄ちゃんはやれやれ、と首を振り、私の作ったお弁当を持って居間を出て行った。

「よろしくぅ」

 母さんはそう言って、再びテレビに向きなおった。



 ホイップクリームと苺がたっぷりのホールケーキ。横にはカラフルな真ん丸マカロンが勲章みたいにくっついている。母さんは警察犬のように鼻をひくつかせながら、じぃっと私が買ってきたケーキを見て、

「やだぁ、このチョコレート!」

 と唇を尖らせて小さく叫んだ。

 ホワイトチョコレートでできた板には、普通なら『〇〇ちゃん お誕生日おめでとう』とか『お母さん ありがとう』と書いてあるはずだ。でもこのケーキの上の異端は、名前の文字だけ逃げ出してしまったみたいに抜け落ちていて、チョコレートで書かれた『お誕生日おめでとう』という言葉も少し困っているみたいだ。

「あんた、これどうすんのよ」

 若干の非難が混じった母さんの声に、ご飯作ってるのに、とぶすったれながらも、私は野菜を刻む手を止める。首だけで振り返って、

「その袋の中にチョコペンがあるから、それで好きなように書いてよ」

 母さんはしばし悩んだ。傷んだ髪をくるくると指に巻いたり、テレビのチャンネルを忙しなく変えたりしていた。戻ってきてから、いちばん落ち着きがない。

 私はその横でせっせと料理を作っていき、母さんの前に山のごとく積んでいく。それでもさすがに作るものがなくなってしまった。仕方がないので、母さんの正面の席に浅く腰掛ける。

「ね、まだ?」

「まぁだぁよぉ」

 尋ねると、ちっとも可愛らしくない低い声で、母さんは間延びした言葉を返した。料理の大皿を脇によけ、母さんの手元が見えるようにする。眉間に縦皺を寄せており、こうしていると母さんは老いたのだなぁ、と唐突にそんな当たり前のことが思い出される。

「早くしないと、みんな冷めちゃう」

 チンしただけの唐揚げをひょいと摘んで、言う。

「急かさないでー」

「早くー、はーやーくー」

 足をばたつかせながら、子供っぽく催促をする。子供っぽく、そう、母さんの子供っぽく。やがて母さんはチョコペンを机に置き、ふいと顔をそむけた。疲れた横顔をしている。なんだか私が悪いことをしているような、そんな気がする。違うけど。

「なんて書けばいいのよ」

 母さんは呟いた。

 知らないよ、そんなこと。

 そう言いたかったけど、言ってはいけないという確信があったから、そんなことは、言わない。

「洋子さんお誕生日おめでとう、とか」

 滅多に呼ばない母さんの名前を口にすると、どこか居心地悪く感じた。母さんもそうだったのか、しきりに身をよじっている。そして俯いて、呟いた。

「母さんお誕生日おめでとう、じゃ、いけないの?」

 その表情は、陰になっていてわからない。でも声は、小さく震えていて、あぁ、この人は許されたがっているのだなぁ、と気づいた。

「それは母さんが決めることだよ。母さんが書くんだから」

 言って、私はお皿を出そうと立ち上がる。椅子を引く音に混じって、かすかにかあさんの、ごめんね、が聞こえた気がした。でも知らないふりをする。母さんがいなかった半年がぼんやりと思い出されて、そしてまた今に戻ってくる。……へんなの。

 母さんはそのまましばらく、身動きせずにじっとケーキを見つめていた。母さんだけど、母さんじゃない人は、迷っている、ようだった。

 でもそれから突然顔を上げ、母さんはチョコペンを神聖なもののように取り上げた。大きく息を吸って、慎重にチョコで文字を書き始める。

「……出来た」

「そっか」

 そのとき、玄関の扉が開く音がした。お兄ちゃんと、父さんが入ってくる。帰宅時間が重なったらしい。そして奇妙なことに、その手にはどちらも大きな箱がある。あ、ケーキの箱だ。

「なんだ、やっぱりこいつが買ってたよ」

 お兄ちゃんはがっかりした声で嘆いた。父さんはそうか、と言っただけだった。私と母さんは顔を見合わせて、うふふ、と笑う。

 冷蔵庫の中には大きなケーキが二つ。テーブルの上には、ちょっと味の濃いご馳走。ケーキの上には、『母さんお誕生日おめでとう』のチョコレートプレート。今年も母さんの誕生日だ。

 私はおめでとう、と母さんに言う。

 ちょっと恥ずかしそうな半年振りの笑顔を見せるのは、もう一度、私の母さんになった、母さんだった。

 おかえり、母さん。

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