19. 伊崎 蒼

普段とは違い、スーツを身に付けしっかりとネクタイを締めて容姿を整え、長く伸びた髪を結う。普段ならこんな堅苦しい格好はしないが、今日は仕方が無い。過去の友人に会うと言っても、場所が場所だ。恐らく会う相手には、この格好の事についてとやかく言われるだろうが、俺は全くもって気にしていなかった。

「行ってきます。」俺は着替えた後、瀬尾さんの部屋に1度立ち寄り、一応出発する前に声をかけた。彼は此方を向く事はなくただ短く「おう。」とだけ答えて、あとは何も言わなかった。俺はそのまま何も言わずに部屋から立ち去った。これ以上この部屋に滞在していたとして、ただの無駄な時間になりかねないし意味が見いだせそうに無かったからだ。

俺はそのままの足で屋敷から出た。屋敷の前には黒いタクシーが止まっている。予め出かける為に連絡をし、家まで迎えに来させていたタクシーだ。空にはまだ登ったばかりの朝日が輝く。その朝日に少し目を細めて俺は「眩しい。」と呟きそのままタクシーに乗り込む。


タクシーに乗ったは良いものの、何故だかどうにも落ち着かない。笹塚、彼が来たらどうなるのか。それは予想がついていた。飽くまで予想だが、それは嫌な予想だった。もし来なかったとして、俺は疑われるだろう。疑われ無い筈が無い。俺は自分自身が死ぬ分には何とも思って居なかった。が、笹塚が死ぬのだけは嫌だった。何方の線を辿っても結局笹塚は死ぬ。その未来だけは見えていた。俺はその未来を変えたかった。

気が付けば手足が震えていた。いっその事タクシーで行方を晦まして仕舞えば良いと脳内の自分は言った。が、そうすれば笹塚は間違い無く死ぬだろう。勿論、俺の知らない場所で死ぬだろうが。それでも、死ぬ事には変わりないし俺は彼が死ぬのが怖い。何方にせよそれは容認出来ない。例えこの目で彼の亡骸を見なかったとしても。だ。


拳を強く握った。それは決意の証のつもりだった。俺は唇をキツく噛むと、窓から少し遠くの外を眺めた。今日は天気が良くなりそうだ。

変に騒ぎが起きない様祈りながら、俺は外の少し眩しい太陽の光をじっと眺めた。目が緑色の様な色で少しチカチカするが、それすらも気にならなかった。暫くして丁度建物か何かの影に入ったのだろうか。一気に周囲が暗くなった。

「もう直ぐ着きますよ。」運転手は此方を向かずにそうとだけ言った。金を出しておけと言うことだろう。恐らく運転手は此方の世界に居る俺と長い間同じ車内で同じ空気を吸いたくないのだろう。彼の態度からそれは丸分かりだった。俺はそういう扱いには正直慣れていたので、特に顔を歪めることもせず、財布を取りだしお金を用意した。運転手はミラー越しに俺を見ている様だった。ミラー越しの視線を感じた。

「2800円になります。」運転手の彼はそう言った。料金が上乗せされている気がしたが、今此処で文句をいえば面倒事が発生すると思ったので、素直に2800円払ってタクシーを降りた。タクシーを降りると目の前に聳え立つのは、いかにも綺麗な大きなホテル。今日はこのホテルの宴会場で笹塚、彼と会う予定だ。この場は組長である瀬尾が用意した。恐らく、笹塚がこれから死ぬ事を示唆しているのだろう。


ホテルの宴会場の扉を開くと、大きな宴会場の真ん中に大きなテーブルが置かれている。その上には2人分の食器が置かれている。辺りは嫌な位に静かだ。嵐の前の静けさと言った所か。俺はずっとその場に突っ立っている訳にも行かないので、テーブルに歩み寄り腰を下ろした。


落ち着か無い。


俺は彼が来ない事を祈った。彼には俺の立場など考えずに逃げて欲しい。捕まらない位に遠くまで逃げて何処かで生きて欲しい。そう祈った。1人で勝手に生きて適当に寿命で死んで、先に死んだ俺の方に来て欲しいと思う。いや、そうであってくれと祈る。彼が先に死ぬのだけは何だかとても嫌だった。

時間はどんどん過ぎていく。気が付けば集合時間になっていた。誰も来ない。何の音沙汰も無い。俺は安堵した。彼はここに来るべきでは無い。そう思っていたからだ。俺は颯爽と帰ってしまおうかと考えたが、流石に直ぐに帰れば「待たなかったのか?」と何か疑われそうで、疑われたら面倒なので、10分程待つ事にした。勿論時間通りに来ていないのだから来ないだろう。


それから約10分位彼を待った。然しその間、彼どころか誰もこの宴会場に姿を現すことは無かった。「帰るか。」誰も居ない静かな宴会場で呟く。勿論誰も居ないのだから返事をしてくれない。なんの声も聞こえない無い。

立ち上がったその時、背後にある入口の大きな扉が音を立てて開いた。俺は一瞬何事かと思って後ろを振り向きその扉の方へと振り向いた。そこに立っていたのは「笹塚………。」小さく溜息を付いた。そこには俺が呼んでもいない出来れば此処で目を合わせたく無かった相手がいた。


「遅くなってすまなかったな。おかえりか?」彼は何故だか知らないが笑った。「昔話でもしに来たのかよ。」俺は苛立ちながらそう告げ椅子を二脚引いてその内一脚に腰を下ろした。しかも嫌がらせのつもりで、彼に近い方の椅子に座ってやった。

「ああ。楽しい昔話をしに来たよ。」彼はヘビースモーカーにも関わらず、あまりヤニで汚れていない歯を剥き出しにして笑った。「笑うんじゃねぇよ。」と俺は言った。何故だか今日の俺は彼を、彼の顔を見る度に、彼と視線が会う度に苛立っていた。それは恐らく彼が自分の意見に耳を貸さずに此方に来てしまったからだろう。「ああ。失礼。」彼はそう言って俺のすぐ隣に腰を下ろした。


暫くして、幾つか料理が運ばれて来た。キッシュやスープ。前菜のオードブル。矢張り瀬尾が用意するだけあって、豪華な食事でどれもとても美味しかったが、俺は味に集中できずにいた。普段ならもっと味わえるだろうが、今日は違った。目の前の食事に全くもって集中出来て居ない。自分でもそう気が付いていたし、案の定彼も気がついていた様だった。

その証拠に「怒ってんのか?」と彼に聞かれた。俺はメインの牛肉を一所懸命に咀嚼しながら首を横に激しく振った。「昔みたいに拗ねてんじゃねぇよ。」なんて彼はまた笑った。そんなに昔が好きなのだろうか。過去がそんなに好きだったのだろうか。なら、何故組から逃げ出したのだろう。様々な思いが脳内にぎゅっと押し寄せる。

「拗ねてなんかねぇよ。」だから俺も笑った。きっと不器用で不自然だろうが、そんなのは関係無い。無理矢理顔に笑みを浮かべた。彼はそれに対して無表情。なんのリアクションも起こさなかった。そのまま無言の儘暫く時間が流れた。


「最近どうよ。」先に口を開いたのは笹塚だった。彼はコーヒーを飲みながら目を細めて言った。「どうも何も。お前が思ってる通りだよ。」俺はその彼の方を向かずに、口にライチを運び咀嚼し終わるとそう告げた。「お前こそどうなんだよ。」俺は相手の質問を鏡で反射する様にそのまま返した。

「神崎から聞いた。お前との事。」この間の話だろう。そういえばこの間メールで話を聞きたいと来ていた記憶がある。すっかりメールの返信を忘れていた。「そろそろ聞かせてくれねぇか?そっちの話。」笹塚は半分呆れたように小さく溜息をつきながら聞いてきた。流石に答える訳無いじゃんなんて言う子供っぽい事は言えない。流石にもう大人だ。

「俺は彼奴に騙されてた。それだけ。」俺はただ簡潔にそう言った。向こうが掘り下げてくればもっと話そうと思った。然し、暫く沈黙が続いた後、彼は何も言わなかった。「聞かないの?」思わず俺の方から聞いた。聞かないのはおかしい。直感的に心の中の俺がそう言っていた。「聞かねぇよ。」彼は言った。何故彼が聞かない事を選択したのかは知らないし分からない。

昔もこんな事があった気がする。どんな内容だったか忘れたがこのような事があった事だけを思い出した。恐らく、酷く下らない少年の思い出に過ぎないから、覚えて無いのだろう。内容は今の自分にとっても実にどうでも良かった。


「そろそろ帰るかね?」暫く話した後、そう切り出したのは矢張り笹塚の方だった。然し俺は帰るのが嫌だとも別れるのが嫌だとも微塵も思わなかった。心の中では今日2人で話せた事、それだけで、会う前に想像していたよりも遥かに凄く満足していた。

「だね。」一言の短い言葉。それ以上に返す言葉が無かった。俺には今、彼を此処に引き止める理由は何一つ無かった。嫌、探せば1つはあったかもしれない。が、探さ無かった。何故探さなかったのか?引き止めた所で、それは遅延行為でしか無いと知っていたからだろう。きっと、目の前の彼もそれを望んでいない。俺はそう知っていた。


「ごめんね、今日は態々来て貰っちゃって。」俺は立ち上がると彼に上からそう告げた。そして彼も立ち上がって同じ目線になる。「嗚呼。また会えたら………良いな。」彼は笑わなかった。勿論俺も笑わなかった。恐らく彼も俺も、今此処で笑える様な余裕を持ち合わせて居なかったのだろう。

そんな事を話していれば、扉が開く音がして外から冷たい空気が流れ込み、暫くすると俺らの方までそれが届き額に冷たさを感じる。俺も笹塚も扉の方を見なかった。いや、見られなかった。「じゃあね。」俺のその声に、笹塚が踵を返し扉の方へと足を進めようとする。「おう。」彼は短く返事をして、そのまま数歩俺の近くから離れた。勿論、足元に視線をやって何も見ずに。


その時、ドキューンと銃声が鳴った。その刹那、俺はまるで何かに反射する様にや柔らかく目を閉じた。

そして目を開く。目の前に見えるのは、笹塚と………。誰かの人影。

目の前がボヤけて良く見えなかった。


その時、足にある感覚を覚えた。

痺れる様な麻痺する様な感覚。

痛くは無い。

俺は思う様に動かないそれに手を当てた。掌に生暖かい物を感じた。

状況を理解する為に掌を見ると手に付いたのは血液。紅い、いや少し赤黒い血液。


頭が少しクラクラする。

俺はその場で座り込む様にしゃがむ。

揺れるボヤけた視界と、無駄に眩しい照明と、音の歪んだ世界と、立ち去っていく人影と。

様々な物が見えたが、自分だけがその世界に居ないようなそんな気がして。


そのままそこに倒れ込んで、目を閉じる。

嗚呼、このまま俺は死ぬんだな………なんて。

そんな時、誰かが俺の首を触れた様な気もしたが、音も歪んで聞こえない俺はそのまま眠る様に意識を飛ばした。

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