14. 伊崎 蒼


14.


「お前が何故此処に居る。伊崎。」

俺は今、睨まれている。神崎四季という女に。その時、ふと笹塚に知られてはならないと言う思考が先行した。笹塚は関係無く、俺と彼女の問題だ。笹塚を下手に巻き込む訳には行かない。彼女が手出しをしてこない限り、此方から手出しをすることは辞めようと勝手に誓った。勿論、口にその言葉を出す事無く心の中で勝手に。「お前ら、旧知の仲だったのか?」笹塚はビーフジャーキーを齧りながら問いかける。未だ俺ら二人の関係性には気が付いて居ないようだ。

そうだ、それで良い。それ以上知らなくて良いと心の中の俺は言った。彼が二人の関係を知ってしまう事の無いように、神崎四季が口を開く前に先に口を開く。「旧知の仲だよ。彼女の名前は神崎四季…だったかな。久しぶり。」彼女の名前を忘れる)ね筈がなかった。俺の愛情の矛先が1度でも向いていた相手。ただ今は愛情以上に彼女の事が憎かった。腹に刺された刃物の痛みは今でも忘れ無い。

失望と失恋。当時は2つ同時に、味わされた気がした。刃物が刺さった傷の痛みより心の傷の痛みを酷く感じた。勝手に彼女に期待を抱いていたのは自分の筈なのに、彼女に裏切られた様な気がしていた。彼女に向け続けた俺の愛はきっと歪んでいて穢れていたのかもしれない。


「あの時の事、忘れたとでも言うか?」どうやら彼女は俺の方針が気に入らなかったらしい。自分のジャケットの内ポケットからナイフを取り出すと、瞬時に俺の首元に刃先を充てる。少し力を入れれば刺さるだろう。刃先が首に擦れ少しヒリヒリとした。俺はこのまま知らないフリをすれば殺されるのだろうか。

「また俺を殺そうとするのか。お前は。」こうなれば好戦的に行くしか無いと思った。此処で無駄に血を流す争いを起こさない為にも。俺の言葉でより一層、彼女のナイフを握る手に力が入るのが分かった。その証拠に首に構えられたナイフは薄い皮を貫き、先程より更に俺に痛みを与えていた。首からは少し血液も流れ出ている様だ。生暖かい少し体温で温まった血液はゆっくりと伝う様に首を流れている、その感覚が擽ったかった。


「私はお前を殺すために生きて………っ、組長。」ナイフを握る手に更に力を入れより深く刺そうとする彼女の手を、誰かの手がグッと引っ張った。初め、俺も彼女も今何が起こったのか理解出来無かったのだろう。2人してその場でフリーズしてしまった。暫くしてその場に何が起こったのか理解した。

俺を殺そうとした神崎四季を笹塚が止めたのだ。刃物が首元から離れる。首元に手を充てると指先が自分の血液で赤黒く染まる。痛い。と思った。心が。

少し前のめりになると、床に血がポタリと垂れる。「伊崎、済まなかったな。傷、見せろ。」笹塚は彼女の腕を握ったまま、俺の首を見ようとする。腕が引っ張られると彼女は少し顔を歪め痛そうな顔をした。が、傍から見てそんなに強くは引っ張られて無さそうだ。何があるのだろうか。

「大丈夫。こんな傷なんて。」精神の痛みなんて、誰に言ったって癒えない事はとうに昔から知っていた。腹に深く刃物を刺されたあの時から知っていた。俺はあの時から精神に傷を負ったままで生きているが、1度も癒えたと思えた事は無い。

この首から滴る血液も、今まで後悔や精神の苦しみから流した涙と比べれば量も回数も少ない。


俺は笑った。何故か知らないが笑った。笹塚に心配させないようにと言う気持ちが精神をおかしくしたのか、何度も傷つけられた精神が我慢の限界に達し狂ったのか俺には分からなかったが、何故か笑った。自分でも分からないが笑った。声を上げてでは無い。何故かニコニコと笑った。

「痛くないのは分かった。取り敢えず落ち着け。」笹塚は俺に落ち着くように言った。恐らく今笑っている俺を異常だと思っているのだろう。俺も自分のことを異常だと思っている。ただ内心思う。愛している人にこの様な形で裏切られたら、笹塚でも冷静に居られるのだろうかと。居られるはずが無いだろう。目の前にいる感情の欠如した、神崎四季という女でさえも無理だと俺は思う。

笹塚は彼女の手からナイフを奪うと折り畳み自分のポケットにしまい込んで、彼女の手を解放した。彼女は引っ張られていた部分の自分の手を優しく撫でる。怪我でも負っているのだろうか。嫌いで憎くて仕方が無いのに彼女の手首が心配で仕方が無い。それが彼女を愛していたからかと聞かれても俺には分からない。愛は憎しみに勝つものなのだろうか。俺には経験が無いので分かるはずが無かった。


「お前ら、何があったんだ?」唐突に過去の話を聞き出そうとする笹塚。先程まで無意識のうちに笑っていた俺は瞬く間に真顔に戻った。笹塚にこの件は関係は無い。ただの過去に仲が良かった友人だからといって、幼馴染だからと言って笹塚に過去の2人の話を教える義務は無い。

「知らなくて良い話だよ。俺と彼女2人の問題だ。笹塚に関係は無い。」俺は笹塚の顔をじっと見た。彼の顔には納得出来ないと書かれていた。ただ俺は、彼以上に彼がこの話に自ら関わりに来ることの方が理解が出来なかった。神崎四季が自分の大切な側近で、俺が自分の大切な友人だと言うことは分かったが、だからといって自分の組員や友人の問題に自分が足を突っ込む必要は無いだろう。

「神崎は何か言う事あるか?」笹塚に問いかけられると、神崎は此方を何か言いたげな顔で睨んだ。ただ彼女もまた笹塚に対する回答は似た様な物で「組長には関係無いので聞かないでください。」と少し声を荒らげて言った。どうやら彼女の思考としても、笹塚の事を不用意に巻き込むのは本望では無いようだ。正直その点の思考の一致はあって良かったと思って居る。


ただ、笹塚だけは思考が俺ら2人とは全く違った。笹塚は俺ら2人の言葉を聞いた上で言った。「2人とも今此処で死ぬか、何があったか話すのかどっちが良い?」2人とも耳を疑った。この場でお互い共に死ぬか、この件に関する事情を1から笹塚に説明するかの2択。

自分の命が惜しいかと言われればとても惜しい。俺には守らなければならない路上生活者の子供達が居るし、大好きな瀬尾さんや笹塚もいる。俺は大好きな人達を守る為に生きたいと思った。「笹塚だけになら話す。それで良い?」ただ条件の確認も必要だ。この様な案件の場合、どちらかが条件を理解していなければ問題が発生する可能性が高い。それだけはどうしても避けたい。神崎四季とも対立し、更に笹塚とも対立が起きれば組同士の全面戦争になりかね無い。

「ああ。」笹塚は火をつけた煙草を咥えると深く息を吸い、煙草の煙を肺の奥深くに落とすように吸う。笹塚の目線が俺から神崎の方へと移る。口には出さないが彼女がどうしたいのか問いかけているのだろう。「………それならお話します。」神崎は真顔で表情人1つ変えずに答えた。相変わらず彼女の真顔を見ると、少し怖いと感じる。怖くは無いのかもしれない。本当は恐ろしいと思っているのかもしれない。顔からは思考が全くもって読み取れない。これは心理学者でも驚くかもしれない。


「そうか。」笹塚はそう答えると、灰皿に吸い途中の煙草を押し付けて火を消してしまった。もう吸う気は無いらしい。徐にポケットから黒い本革の財布を取り出すと、机の上に1万円札を数枚置く。「支払い、これで足りるだろ?足りなきゃ後で連絡でもしてくれ。」笹塚はそれだけ述べてら 、部屋のパスワードロックを解除して神崎を連れて部屋から出ていってしまった。


1人の空間に戻る。虚しいとは思わなかった。

机の上に広がっている余ったピザと乾き物。1人で食べようとは思えなかったが、誰か呼ぼうとも思えなかった。ただ、このまま残すのも勿体無い様な気がした。だから、フルーツは適当なパックに移し乾き物は袋に入れ持ち帰る事にした。ピザはあと一欠片だったのでその場で食べてしまった。

フルーツと乾き物は明日にでも食べれば良いだろう。もし食べなかったとしても、子供達にあげれば喜ぶ。そんなに期限の持たない物でも無かった筈だ。

机の上に食事が広がったままでいると、終わってしまったパーティの後片付けをする人の気分になり、とても虚しく思う。


唾液を飲み込む度に少しヒリヒリと痛みの走る首の傷を無視して、淡々と帰る準備をする。恐らく、此処に他の組員が来たら自分がするので早く帰れと言うだろう。だが、今は誰にも邪魔されたくない、自分で全て片付けたい気分だった。



そして片付けながら、笹塚と此処で今度はちゃんと何の問題も無く、大人数で楽しくパーティをしたいなぁと思った。叶うかは知らない。その前に俺が死ぬかもしれないし、彼が殺されてしまうかもしれない。

ただ、最初から叶わないと決め付けてしまえば本当に敵わない気がしたので、叶うと信じておくことにした。


全て片付けると、そのまま無言でその場を後にする。迎えなど呼ぶ気は無い。俺は挨拶するホストクラブの店員を横目に、早足でホストクラブを後にした。

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