12.瀬戸 水行

「いらっしゃいませー。」ドアに付いた鈴がチリンチリンと可愛らしい音を周囲に響かせると、店内に威勢の良い元気な声が響く。メニュー表を手に取る。先程来た客の座った席の目の前にあるカウンターに飲み物、お摘みそれぞれのメニュー表を丁寧に置く。

「水君、君が此処で仕事してくれて本当に良かったよ。いつも有難うね。」とおじさんはアップルパイとミートパイを切り分けている僕の横でクククッと小動物の様に笑っている。正直他人からの評価はどうでも良い。むしろ嫌いだ。僕にとって大切なのは、僕の愛しい彼女が僕に振り向いて僕を愛してくれるかどうかだ。それは今も過去も、これからだって変わる事は無いだろう。

時計の針は22時を過ぎている。もう数十分もすれば混雑して来るだろう。二次会や三次会のお客さん、仕事帰りのお客さん。何らかの理由でこの場所を知っている人や、ネットで調べて来た人等様々な人々がこのお店には来る。勿論、酒を飲む場所としてでは無く情報を手に入れる場所として訪れる人も居る。僕はおじさんの集めた情報が見たかった。そこに自分の情報が有るのかそれも気になったがそれ以上におじさんの集める情報の質が知りたかった。

ただ、情報のある部屋に入る為にはおじさんの指紋を機械に通し、指紋を認証する必要がある。普通におじさんに開けて貰う訳には到底行かないので、僕は先ず指紋を取るためにおじさんにある頼み事をした。それは誰もが日常で行う為誰も疑わない様な動作だった。

「おじさん、小麦粉の詰め替え頼んでも構わない?」僕は丁度小麦粉がいつものケースに入って居らず、もう空っぽである事に気が付いた。だから僕は仕事を頼むフリをし小麦粉の粉が指に付着し台やケースに付いてしまった指紋を採取しようと考えた。採取用のテープは持ってきた。僕はよく殺害対象の部屋や家に侵入するのだが、その家が指紋認証であった場合の裏技だ。


「小麦粉かい?嗚呼、分かったよ。袋が重いから持って来てくれないかな。」僕はアップルパイとミートパイを切り分けている手を止めて、直ぐ傍にある使いかけの業務用の大きな小麦粉の袋を持ち上げ、おじさんの直ぐ傍に置く。おじさんは腰痛持ちの為、重い物を持ち上げるのが苦手らしい。そんなんでよく情報屋なんてやってるなと尊敬したくもなる。

少し不器用なおじさんは、少し小麦粉を零しながらも何とかケースに注ぐ。その間僕はこっそりとおじさんの様子を見ながらアップルパイとミートパイに刃を入れ、切り分け皿の上に並べる。暫くして小麦粉を注ぎ終わったのかおじさんが手を止め、僕も丁度アップルパイとミートパイを切り分け終わったので、直ぐにおじさんの元へ足を進めた。


おじさんの手を見ると真っ白で、ケースにはおじさんの指紋がいくつか付いている。「手と顔、洗って来た方が良いと思うよ。真っ白だから。」僕は無理矢理愛想良く告げるとおじさんは何か幸せな事でもあったかの様に鼻歌を歌いながら奥の洗面所の方へと歩いて行った。僕はその隙にポケットから透明のシールを取り出すと、ケースの外に付いた幾つかの指紋をシートで取っていった。

情報屋なのに自分の情報握られてどうするんだよと突っ込みたくなるが、今は言わないでおこう。言ってしまえばこの事がきっとバレてしまう。丁度指紋を取り終わり、辺りの掃除をしている時におじさんが帰って来て背後から声をかけられる。

「アップルパイとミートパイは切り終わったのかい?」ちゃんと見ろよと言いたくもなるがそれは今は言わずに抑えておく事として、僕はまた愛想良く笑いながら相手の目を見て言う。「もう終わりましたよ。」と。


僕は昔から愛想良くするのだけは得意だった。愛想良くすれば誰もが自分を愛し、認めてくれると知っていた。愛想良く居れば、大人からも同級生からも好かれ、日々友人に囲まれる様になると知っていた。僕は愛想良くさえすれば人に好かれると思っていた。しかし、それは違った。僕の価値観は、考えは神崎四季に出会ってから、彼女を人目見た時から一気に崩れて行った。

彼女は酷く愛想が悪かった。笑わないし泣かない。怒らないし苦しみも顔に出さない。彼女は『感情』という物を持っていなかった。僕は最初噂で聞いた際、彼女を軽蔑し嫌っていた。ただ軽蔑し嫌っていたにも関わらず何処か魅力的で惹かれるものがあった。それから僕は彼女を街で必死に探した。

そして、僕が初めて彼女を見た時一瞬にして惚れた。子供離れし成熟した精神に、大人顔負けの礼儀と道徳を持つ少女。それに加えて彼女は人前で感情を示さ無い。彼女は僕とは相反するが、本当の理想の自分を見ているかの様に思えて、彼女を見つめ気が付けば胸の高鳴りを感じていた。

僕は最初、普通に彼女に対して恋心を抱いていた。そう、彼女が伊崎と出会う迄は。彼女が伊崎という男と出会うと、あっという間に伊崎と彼女の間の距離は縮まった。それが僕は嫌で、日を増す事に僕は彼女のストーカーになっていった。日々生活を追いかけ、彼女と伊崎の関係性の発展を探る。それが日課になっていた。

そんなある日、僕は彼女と伊崎をいつも通りストーカーしていた。本当にいつも通りだった。晴れた空に少し蒸してきた空気。相変わらず若者が溢れる繁華街。何も普段と違う点は無かった。ただ、彼女は伊崎と何か話している時に笑った。声に出して笑ったのかは知らないが、あからさま嬉しそうに顔に笑みを浮かべて。

僕はその時、胸の奥でお湯が沸騰する様に何かが沸きあがる感覚を覚えた。同時に『伊崎を殺せば俺の物になる。二人の仲を決別させよう。』という思考に勢い良く脳内が占拠される。その時の僕にも今の僕にもそれ以外考えられ無かった。伊崎を殺し神崎四季を自分のモノにする為という目的の為に知られたら嫌われてしまいそうな位、卑劣な非道徳的な方法を何度も使った。



そんな事を暫くぼーっと考えて居れば「水君、疲れているみたいだから裏で休んでおきなさい。また混んだら君の事を呼ぶよ。」とおじさんが気をかけてくれた。口では感謝の意を告げながらも、脳内はこれからおじさんの手に入れた情報を全て見てもし自分が暗殺する人間や、自分に関する資料が存在して居ないかを確認したいという一心だった。

僕はstaff onlyと書かれた扉を開き扉の向こうに足を踏み入れる。扉の向こうにはすぐ廊下があり、扉の目の前の部屋がスタッフルームとなっており、店員は僕以外に居ないので僕の部屋だ。そしてその横に御手洗があり、その更に隣におじさんの部屋、店長室がある。店長室には情報が置かれて居たり、一日の売上が保管されて居たりする為、店員含め部外者が侵入しない様にと指紋認証が付いているらしい。

僕は迷わず店長室のドアの目の前まで足を進めると立ち止まる。そして先程採取した指紋を数枚取り出し、指にシールを貼っていく。全てのシールが指先に貼られた後僕は辺りに注意し、耳を澄ましながら丁寧に確実に先程の指紋を機械に通して行く。1つ、1つと幾つも通して行くがランプの色は赤から変わらず、相変わらずドアもロックが掛かったままだ。

これで駄目だったら別の方法を考えよう。と最後の1枚を押し当てる。忽ちランプは赤から緑色に変わり、ドアの閉められていたロックもガチャリという音を立てて開いた。どうやらドアの鍵を開くのに成功したらしい。期待を胸に部屋に踏み入れる。


部屋の中は僕の家の情報収集に使う部屋とは違い少しも散らかっておらず、パソコンが1台机の上に閉じてあり金庫が部屋の端に鎮座し、パソコンが置かれている机の傍に本棚の様な物があり、そこに茶色の大きめの少し膨らんだ封筒が所狭しと並んでいるだけだ。

僕は最初、本棚の封筒達を漁り始めた。どうやらもう既に完成している情報が置かれているらしく、ご丁寧に資料にはページが振られておりホチキスで留められていた。宛名の名前も見てみるが特に知ってる名前は無いし、調べられている側に自分は居ない上自分の知っている人間も居なかった。

「なんだ。つまんねぇの。」試しに資料の内容を読んでみるが、内容は『旦那の浮気調査』だとか『お見合いで会った相手の情報』だとか『隣の部屋に引っ越して来た人の情報』だとかそんな僕にとってはくだらない内容ばかりだった。

ここに良い情報が有るという望みはもう無くなってしまったが、折角入ったのでパソコンの中身も見ようとパソコンを開こうとするが、電源を立ち上げた後パスワードが分からず開け無い。流石に僕は超能力者でも無いので彼のパスワードを知る術も無い。パソコンの周りを探してみたがメモもされて居なかった。

パソコンを開くのは凄く時間がかかりそうな上、もし情報が大して無かった場合悲しいのでもう開くのは諦めた。

自分の部屋に戻ろう。ここには何も無い。とパソコンから離れこの部屋から出ようと考えたその時、パソコンのすぐ横に置かれている書類に貼られた写真に目が行った。その写真の中に映る人物に見覚えがある。「こ…これは。」その写真の中の人物は間違えようも無い。僕だった。

写真の中の僕は、玄関扉から顔を出しキョロキョロと見回している様子だった。いつそんな事したっけ…と数秒の間考えてふっと思い出す。そういえば今日の昼間、家にピンポンダッシュが来たっけ。と。恐らくその時に撮られたのだろう。となれば、ピンポンダッシュの犯人とこの依頼をした人物は関わりが有るのか…と考え書類の端から端まで目を通し依頼人の名前を探す。


誰がどう考えても書かれてそうな表面には依頼人の名前は書かれていなかった。普通に表面に書かれておらず、裏面に何も印刷が無いとすれば裏面を見ないだろう。ただ、僕はその書類を何となく裏にした。裏にしたら分かる気がしたのだ。

真っ白な裏面の左下に小さな文字を見つけた。最初は小さく読みにくかったのでポケットからスマホを取り出すと、フラッシュを炊いてその部分だけ拡大で撮影する。「神崎…四季。」画面に表示された文字は『神崎四季様へ 12/2 20迄』と書かれていた。僕の知りたい情報は手に入れた。僕はこれ以上何もせずにただ先程の僕に関する調査依頼の紙を写真に撮って、そのまま元通りの場所に置き、少し早足で音を立てない様に組長室を立ち去る。


取り敢えず家に帰ったら彼女に対する対応は考えようと一旦スマホの電源を落として、この事は仕事中は忘れておく事にした。スマホをズボンのポケットに差し込み、そのままスタッフルームの扉を開きポツンと置かれた椅子に腰かける。この部屋には少し大きなテレビが置かれているが、僕はテレビが元々嫌いな為全くもってテレビを見る気にはなれない。ただ、少し無機質な部屋に1人で居る為静寂が流れ正直辛い。

こんな時、僕はいつも音楽を流す。音楽と言っても今の若者達が聞く様なかっこ良い曲では無い。僕が聞いているのは所謂ミュージカルの曲と言えば良いだろうか。僕が一番好きな『レ・ミゼラブル』というミュージカル映画の有名な1曲『Do you hear the people sing?』だ。昔から英語で聞くのがとびきり好きで、寂しい時や辛い時勉強する時等様々な場所や時に聴いている。


暫くしてガチャリと扉が開く。「水君、出てきて。お客さん結構来たから。」イヤフォンを取ってカバンにイヤフォンを仕舞う序にスマホで時間を確認する。23時19分。仕事が終わるまで約1時間半と言った所か。取り敢えず仕事に集中しようと息を深く吸い「今から行きまーす。」と扉の方へ少し大きな声で明るく答える。僕はエプロンの紐を締め直し、そのままスタッフルームを後にする。おじさんは僕を呼びに来ただけでもう店に出たようだった。廊下に姿が無い。

「お待たせ!」店に出るとカウンター席から普通のテーブル席まで全ての席が埋まっていた。カウンター席に座っている男達はガタイが良く、指や首元に髑髏や龍等の刺青が確りと入っていた。メニュー表を渡すとコチラをギロりと睨んで来た。おお。恐ろしい。内心では全く持って思って居ないが、相手にはそう見えるように演じておく。


今日の今の僕は『臆病で可愛い店員』である事には違い無かった。そう魅せていたのだから。


「お疲れ様。水君。カウンターのお客さん大丈夫だった?お得意様で不知火組の組員さん達だからさ…ね?これからも会う事あるかもしれないし。」おじさんは切りすぎたアップルパイを齧りながら言う。僕にミートパイを勧めるように此方に寄せて来たので折角なので一欠片頂戴する事とする。

不味くは無い。好きでは無いので特別美味しいとも思えないが…。「ヤクザでしたか…。怖いですね。」違和感が無い程度に演じておく。怖いとは微塵も思って居ない。正直好機だとまで思っている。僕はミートパイを喉に詰まらせそうになるが、何とか飲み込みアップルパイに手を伸ばす。僕はミートパイよりもアップルパイが食べたかった。

「接客の時気を付けてね。まぁ素は良い人が多いからさ。」店長のその言葉に一瞬アップルパイを咀嚼する口を止める。素は良いだと?そんな事有り得るかと反論したくなるが、反論の言葉をアップルパイと共に飲み込んだ。


「じゃあね。僕もう帰るよ。お疲れ様。」其の儘立ち上がり、引き止められる前に荷物を担ぎ店のドアに手をかけると、おじさんはまだ何か話したかった様だが諦め「お疲れ様。」と此方に声を掛けてくる。僕はそれにすら言葉を返さずに店を後にする。僕には今彼に構う程心に余裕は無い。僕は今、僕の人生で最も大切な事を考えている。

僕は今直ぐにでも自分の家に帰り、人生で最も大切な事についてもっと真剣に考えたかったので、適当な近所の明らか通った方が早そうな家の塀を超え適当に近くにあった誰かの家の庭を超え、アパートやマンションの1階にあるベランダを超え、何時もよりも短縮して家までの道を辿った。

不法侵入?僕にはそんなものは関係無い。人を殺している時点で沢山法に触れている。余罪を重ねた所で僕は元々、殺人罪で死刑以外無いのだから警察に見つかろうが良い。今の僕には法律というものは存在して居ない。今の僕自身を縛る事の出来るものは僕自身の美学だけだと思う。僕自身の美学が僕にとっての法律なのだ。


家の玄関扉を開く。心做しか何時もより少し軽い。別に何時も新聞受けに新聞が溜まっている訳でも無いのだが今日は無性に軽かった。何なら今日は新聞受けに新聞が入れっぱなしだったので抜き取った。

「さて、調べるか。」僕は早速自分の様々な情報がファイリングされ置かれている部屋にスマホ片手に移動する。スマホの画面があまりにも明るいので、部屋の電気を点け忘れていたので慌てて部屋の入口のボタンを押す。

神崎四季に関しての情報の載ったファイルは何時も定位置に置かれていた。部屋の入口のドアの目の前で左を向き散歩小股で歩いたその場所に何時も置いている。勿論今日も置かれている。数冊あるファイルを一度に何とか取り、腕に抱え其の儘自分のデスクの上にまるで眠った赤ん坊を揺りかごに置く母親の様に優しく置く。

取り敢えず先ず初めに先程スマホのカメラで撮った例の依頼書?の書類の様なものを見る事とする。僕はこれを発見したのを理由に神崎四季に関して無性に知りたくなったのだから、これ以外から見るというのは有り得ない。


スマホの写真の中の文字を見て、思わず体の力が抜けたのか床にスマホが落ちる。幸いスマホの画面には頑丈なフィルムをしていたので割れずに済んだ。もう一度、目を疑う様にスマホの画面を確認する。何度見ても確かに画面には書いてあった。『神崎四季が瀬戸水行を調べている』という事実と、『約半年前の事件に関して再度調査を依頼した。』という事実。もし仮にこの事件に関して彼女に知られてしまったら…と思うと恐ろしい。この事件に関して彼女が探るのであれば彼女を殺すしか僕には選択肢が無さそうだ。


電気を消す。


「僕を惚れさせた君が悪いんだよ。」

とナイフに映る僕は声を上げずに嗤う。


神崎四季の写真を壁に押付けナイフで深く額を刺す。壁に穴が開こうが今更どうでも良い。僕は、彼女を殺した後に死ぬのだから。彼女とあの世で2人きり愛し合う為。


「僕を愛してくれ無い君が悪いんだ。」


人生は不公平だと唱えたのはどこの誰だったか。忘れてしまったが彼女もまた同じ事を言っていた記憶がある。人生を不公平にされたのは何方だろうか。不公平にしたのは何方だろうか。


愛されたら愛し返す。それが義理だろ。なぁ?


僕の人生の不公平を作るのはいつも君なんだ。神崎四季。

ただ僕は彼女の事は絶対に嫌いにはならない。僕の愛を裏切ったのには腹が立つが、僕にとっては彼女のそれすらも愛おしい。僕は彼女に付けられた傷ならちっとも痛くない自信がある。


僕は笑いながら布団に腰かけ、そして眠りに落ちた。

それは白雪姫の眠りみたいに長いものでは無いだろう。

きっと直ぐ目覚めてしまう。


だから僕は一時でも良いから彼女に愛されるそんな幸せな夢を見たい。


きっと許されないだろうけど。

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