2. 伊崎 蒼

「今日は組長からお呼び出しかぁ…。」自分の部屋を出て小さな溜息を着く。うちの組長が自分を呼び付ける時は大概のっぴきならない状況で有る事が多い。つまり、これから面倒事に巻き込まれるという前兆なのだ。


「失礼します。」扉を開けば相変わらずの何も読み取れない面持ちをした瀬尾。然し部屋のそこら中に何かの資料であろうか…文字や写真で埋め尽くされた書類が散らばっている。「伊崎ぃ…彼奴が見つかった。」煙草を吸いながら瀬尾は一言。たった一言それだけ言った。初め誰の事を言っているのか全く分からなかったし、覚えが無かったが直ぐ近くにあった書類の1枚を拾い上げそこに貼られた写真を見て思い出す。


顔の左半分が酷く爛れた男性。色素が薄く、真っ白な肌。そして動くこともせず瞳孔を開いたまま真っ直ぐ前を見つめる左の瞳。何度も見知った顔だった。「笹塚……。」この写真の男はその様な名前を持つ青年が成長した顔に違い無かった。組から逃げ出したお茶出しの青年。確か、瀬尾のお気に入りか何かで探し続けていた気がする。「此奴、今は月下組とか言う組の組長やってるらしいわ。」その言葉の意味は理解出来そうに無かった。ただ、組長が普段は言わないこんなに脈略も無い事を言うのだから何か裏の意味があるだろうとは思った。ここで適当な事を抜かして瀬尾にそれを言わせた方が早いのだろうが、この雰囲気の中だ。適当な事を言えば殺されるか、瀬尾の背後にある日本刀で刺されるか、殴られるかされそうで正直それをするのは不可能に近かった。

少しの間、脳内でその言葉の意味を思考してみた。が、分かりそうに無かったので今迄浮かんだ言葉の中で1番無難そうな「何か任務ですか。」という問いかけの言葉を投げかける。呆れられただろうか。と今まで書類に落としていた視線を相手に向けてみるが、瀬尾の顔は呆れと言うより無表情だった。いつもの無愛想なあの無表情。何も読み取れない顔。部屋に入った時の瀬尾の顔と何ら変わらなかった。と、なると尚更分からなくなる。瀬尾は何のためにあんなにも意味深い発言を自分に対して投げかけたのだろう。と。また思考してみる。


が、思考が終わるより先に「彼奴の組を潰す。そして、彼奴をぶち殺す。」という乱暴で理不尽でその上予想も出来ないような言葉が自分に投げかけられる。過去、自分の弟の様に或いは子供の様に可愛がっていたにも関わらず、こんな事を言う奴が居るか。と思った。普通は言わないだろう。普通なら同盟を組もうだとか彼奴の事を裏から支えてやろうとか言うだろう。「了解です。」その場だけでの了承。何の意味があるだろうか。然し、今此処で了承し実行に移さなければ自分の首まで飛ぶであろう。「裏切り者には制裁を。裏切り者に慈悲は無し。だろ?」その発言を聞いた時に、この人は組に飲まれちまったんだなと思った。昔の彼は組員の下っ端の1人が違反をした所で無視していたし、笹塚が居なくなったあの日からずっと彼の身を案じていた。それがどうだ。今は笹塚を殺そうと自らの牙を笹塚に向けている。そんな瀬尾が嫌いであった。


が、自分自身の人間観や感情も瀬尾と同じ位一般人間的には狂っていたのであろうか。自分の目の前でどんどん変わっていく瀬尾の事が堪らなく好きで愛しく、心から自らの理想として尊敬していた。瀬尾は今すぐにでも殺したい位に嫌いな男だったがそれ以上に…いやそれと同じ位愛しく理想的。つまり自らの理想の写鏡の様な物、或いは理想の指標の様な存在である。自分は狂信者であり、狂愛者。だから目の前の自分の理想と同じ言葉を鸚鵡返しする様に呟く。益々理解が出来そうに無かった。自らの理想である彼が何故自分が可愛がっていた弟同然の相手を殺そうとするのか。全く理解出来そうに無かった。ただ聞こうとも思わなかった。仮に瀬尾の口から答えを聞いたとしてそれが自分の理想や想像と違えばきっと幻滅するであろうし、自分の理想が歪む。理想だったものが理想では無くなり、また新たなものが理想になる。今はそれが怖かった。革新が。変わることが恐怖であった。


「情報はやるから、何か策を練ってくれ。足りねぇなら情報集めてやるから。」瀬尾は灰皿にまだ少し吸える煙草を押し当てて火を消すと、立ち上がり自分の近くにあった如何にも重そうな紙袋を渡す。どうやらその袋の中に情報の書かれた書類が入っているらしい。ずっしりと重いそれを受け取り「失礼します。」と一言言い踵を返し部屋から出ようとしたその時、「お前、裏切んなよ。」と瀬尾に念を押される。笹塚と仲が良かった事を知っていたからだろうか…、それとも単純的に先程の裏切り云々の会話から派生して出た発言なのか…。考えてもどちらなのかは検討が付かなかったが「はい。」と短く一言返事をし、その場をそのまま立ち去る。振り向いていないので瀬尾がどんな顔をしていたかは知らないが、恐らく無表情であったであろう。


取り敢えず、自室に紙袋を置きそのまま今日は自分が管理しているシマの見回りをする事にした。見回りと言っても、シマを荒らすような人間が居ないか…や勝手に路上に住み着いた子供は居ないか等ただの治安管理。偶に他の組の奴をしばいたり、チンピラと暴力沙汰になることはあるがそれは稀。ただ腐っても繁華街の1部だ。念には念をと言う。自分の担当しているシマは少なくとも週に2回は訪れ見回りをしている。上着を着るのも面倒で半袖の白い少し草臥れたTシャツのまま。袖の下からはチラチラと六芒星の刺青が顔を覗いている。二の腕に大きく彫られた六芒星。その直ぐ真下には『lonely』の文字が刻まれて居たがどの様な意味なのかは学が無いので分からなかったし、背中に彫られた牙を光らせる狼の刺青も何故狼なのかは聞いた事が無かった。ただその六芒星の刺青が見える容姿だと矢張り今の季節の空気は確りと肌に刺さる。一年中私服はこの格好で冷たい空気には慣れている筈の素肌も、外気に触れると一気に鳥肌が立つ。が、矢張り冬でも太陽は暖かい。空の彼方から降り注ぐ太陽の光から微かな暖かさを感じ次第に肌に刺す様な寒さも和らぐ。そして次第に鳥肌も収まっていく。


「伊崎さんっ。」丁度シマである繁華街を歩いていた時。 小学生低学年位の明らかに寒そうな格好をした薄汚れた少年に呼び止められる。別に弟かそういうものでは無い。一言で表すのであれば仲の良い近所の少年か、自分に敬意を持って常日頃から傍に居る何も出来ない使えない弟子辺りが相応しいのだろうか。何れにせよ使えない事には変わりないし、この少年含め多数の少年達の世話を焼いているのも紛れも無い事実。これはそうそう変わる事は無いだろう。「何?どうしたの?」普段呼び止められる時は大体複数で子供達が呼び止めに来る。大概の用事は遊び相手をしてくれだとかお腹が空いたので何か食べる物が欲しいだとかという大体子供らしい要求が多いが、今日はそうで無い様だった。「この間ね、怖いおじさんがいつもの所に来て殴ってっちゃったんだよ。大きなお兄ちゃんを。」彼の言う大きなお兄ちゃんというのは、おそらくの話だが少年とその仲間達と一緒に暮らしている、その中でも最も年齢が高い中学生位の青年の事だろう。少なくともその怖いおじさんは自分の部下で無いことは確かだった。部下は数人居るが、昨日は組関連の集合でうちの組の組員は全員集められていた。1人残らず全員。ので、もう初めから大体の人物像は絞られていた。ただ、うちの組以外で男…その上暴力的という情報だけでは個人の特定迄には至らない。何か他に特徴は無かったのか?と少年に問いかけると「顔が半分無かったんだよ。」と言う。初めその言葉に顔の半分が無い人間何て居るか?と思ったが学の無い幼い少年の事だ。この様な拙い表現になっても仕方が無いだろう。少年の無い語彙力から無理矢理にでも正答を導き出そうとする。が、導こうとする度に嫌な答えが脳内に浮かぶ。その答えというのは、怖いおじさんは笹塚であるという物。が、そんな訳無いよな…と思いもし笹塚であった場合核心を突くような質問「その男は、赤い目で顔の左半分が無かったんじゃないのか?」という質問を投げかける。顔の半分が無い上目が赤だなんてその容姿だけ聞いても完璧化け物だったり人外臭も感じるだろうが、実際見ればそうでも無いことは彼も知っていた。恐らく、彼が知っている男とその男が同一人物だと聞けば自分も少年も瀬尾も腰を抜かして驚くであろう。あの幼子に優しいと言われている月下組の組長が青年を殴るなんて驚かない奴は居ない。「うん。目が赤かった。左半分の顔も無かったよ。」その言葉に内心面倒臭いことしやがって…と思うが流石に子供の前で暴言を吐く訳には行かず、ニコニコと愛想良く笑いありがとうね。と礼を告げる。


正直こんな形で再会する機会を作られるなんて少しも思って居なかったし、予想外であった。会いたいか会いたく無いかと聞かれれば正直会いたくないと言うのが本音だ。ただ、会わずに居ろなんて神様や組長が許す筈が無い。仕方が無いので笹塚を自分の手で探す事にした。再会する事も、彼を探す事も、彼を殺すのも本望では無かった。俺は、瀬尾を愛しいと表すのであれば、笹塚の事を大嫌いと表すのだろうか?いや、違う。今の俺は笹塚が憎く、羨ましく、そして愛しい。この愛しさは愛とも憧れとも違う。瀬尾に向けて居る理想の様な敬意を入り交じった愛しさとも違う。笹塚、彼に向けているのは嫉妬と仲間意識という名前の愛が入り交じった酷く脆い愛。ただ彼に対する嫉妬は憧れとは違った。笹塚、彼は自分の光だった気がする。


影と光は常に同じ場所に存在する…


と言う。つまりはそれである。悪縁なのか良縁なのかは分からないが、何かしらの縁で繋がれその上お互いは常に対極に存在する。出会った時から…ずっと。2人の各々の人生は対極にも関わらず2人の人生の路線は途中から綺麗に重なって居るのだ。どちらかが合わせた訳でも無く、人為的に重ねられたのでも無く自然に。俺は笹塚が光であることに憧れ嫉妬し、全てを奪いたいと思った。が、出来なかった。失敗したのでは無い。笹塚、彼にはもう無くす物が無かった。ので、失敗したのだ。彼は全てを失っているから、何も奪われなかった。彼の不戦勝だった。けれど、今は違う。今は彼だって自分の組だったりするものを持っていた。奪える物など沢山ある。ただ、奪う気にはどうしてもなれなかった。理由なんてものは自分でも分からなかったが…。奪う気にだけは到底なれそうもなかった。俺は自分の大切な物を守る為に相手の大切な物を奪えるのだろうか…。自分でも分からなかった。

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