第3話 東堂健

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健の家で一晩を過ごし、朝食までご馳走になった私は家に帰るために健の家の玄関で靴を履いていた。


「美子、忘れもんないか?」


「うん、特に何も持ってきてないし大丈夫だよ。」


心配してくれる健の方を振り返ってそう答えると、健の後ろにいたおじいちゃんが桜色の紙袋を差し出した。


「良かったら持って行きなさい。心配しとる親御さんと一緒に食べるんじゃぞ?」


ウィンクしながらそう言うと、私の頭を優しく撫でてくれた。しわしわで、大きくて、温かい手につられて満面の笑みを浮かべた。


「はい!ありがとうございます!」


正直、無断外泊をしてしまって家に帰りづらかったけど、十分過ぎるほど良くしてもらったからこれ以上迷惑をかけたくなくて、何とか帰る決意を固めたのだった。


(…ちゃんと謝れば、お父様だって許してくれるはずだし…後は自分でどうにかしないと…!)


そう意気込んで拳を握り締めた時に丁度健と目が合った。健が寂しそうな顔をするから、帰りたくない気持ちがまた顔を覗かせる。だけど、それをぐっと堪えて思いっきり笑った。


「健、また遊ぼうね!」


健は少し驚いた顔をしてから、すぐににかっと笑った。


「…おう!また、あそこで待ち合わせな!」


「うん!」


二人とも「バイバイ」は言わなかった。

それも私たちのルール。次いつ会えるのかなんて分からないから「またね」っていう約束をする。約束があれば絶対に会える。そんなおまじないみたいな約束が私たちを引き合わせてくれるって信じているから絶対に言わない。



「…お邪魔しました!」


元気よく挨拶をしてからくるっと方向転換して、玄関の引き手に手を伸ばしたその時だった。



ガラガラガラッ!!!


「わわっ!?す、すみませー…」



突然動いた引き戸に飛び跳ねながら顔を上げると、引き戸の外には紫色の布に白い紋様があしらわれた袴を穿いた人が立っていた。誰だろうと気になってその人の顔を見上げると、その男の人は感情の無い目で私を見下ろしていた。無表情なのに、その目は蛇のような獰猛さを湛えていて、一瞬にして背筋が凍り付いた。



「あれ?もう帰って来たのかよ、父ちゃん。」


恐怖に支配された私の背後から健のそんな言葉が聞こえてきた。…私に向けられた言葉ではなかったけど、健の声に少しだけ勇気を貰えた気がした。



「…健、どういうことだ?」


健に「父ちゃん」と呼ばれたその人は、私から目を逸らすことなく健を問い質した。



「どうしてが我が家にいらっしゃるんだ?」


「えっ……?」



胸がドクンドクンと脈を打って痛かった。でも、今は早鐘を打つ胸よりも頭の方が痛かった。金槌でガンガン殴られているみたいな鈍い痛みが頭に反響する。



「美子。」



聞き慣れた冷たい声が、鼓膜を貫いて心臓に突き刺さる。空気を吸い込んだ肺が重くて胸の前で手を握り締めた時、その声の持ち主が紫の白紋袴の男性の後ろから現れた。





「……お、とう…さま……」



震える唇でその名を呼べば、寒くもないのに身体が震え出す。いつもはこんなに怖くないのに、どうして今日はー…



「…お父様……?」


「あっ……」



…健のその一言でようやく判った。身体が震えるのはお父様が怖いからじゃない。



私は、健が怖いんだ。




「…言っただろう。今日から【四神】の各家に挨拶をしに行くと。そして今日は【青龍】の東堂とうどう家に行く予定だったんだが……どうやら挨拶は済ませているようだな。」


そう言って私の頭にポンと手を置いた。お父様は叱ることなく私を褒めた。褒められることは滅多になくて嬉しいはずなのに、今は嬉しさではなく恐怖に支配される。


「応龍様、美子様、改めてご挨拶をさせて下さい。」


そう言うと、紫の白紋袴の人は私とお父様の横を通り過ぎて立ち尽くす健の右隣で正座をした。


「失礼致します。」


呆然と事の成り行きを見ていると、お父様の後ろから今度は女性の声が聞こえてきた。その女性もさっきの人と同じで紫の白紋袴を穿いていて、通り過ぎる時に私達に一礼してから健の左隣で正座をした。


「健、お前も正座をしなさい。失礼だろう。」


正座をした男の人にそう咎められて、健は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。



「本日は我が拙宅まで御足労いただきまして誠にありがとうございます。【青龍】一同、この日を心よりお待ち申し上げておりました。」


お父様は私の肩に手を置いてその様子を涼しげな表情で見ていた。それに対して私は、一度も目が合わない健を漠然と眺めていた。


「美子様。昨日で六歳になられたと聞き及んでおります。【青龍】の一族より、美子様の健やかな日々と幸多き一年をお祈り申し上げます。」


お父様に肩をトンと叩かれて、その空っぽな言葉が私に贈られた物だと気が付いて慌てて口を開いた。


「あっ…ありがとう、ございます…。」


引きつった笑顔で何とかそう返事をした。すると、妙に納得した表情のお父様が「青龍殿」と男の人に声を掛けた。


「素晴らしい祝辞に感謝します。そして挨拶はこのくらいにしておきましょう。この後のことですが、娘と貴殿の御子息に時間を設ける予定でしたが、その必要は無いようですのでもし宜しければ美子に【青龍】について教えて頂けますか?」


「畏まりました。では青龍神社の方でお話を致しましょう。」


そう言い終えると健の両隣にいた二人が立ち上がって控えていた従者の人に指示を出し始めた。その中で、たった一人項垂れて座る健を私は瞬きもせずに見つめていた。ずっと健だけ見ていたのに一度も目が合わなくて、気が付いたら健は女の人に連れられて何処かへ行ってしまった。そして私も、悲しみに暮れる間も無く紫の白紋袴の男の人や装束を着た人たちに案内されて砂利の上を歩いていた。






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砂利の敷き詰められた参道を歩き、ようやく辿り着いたのは神社の本殿だった。そして、その本殿の御神体を背にする形で座る男の人の正面に私は座っていた。お父様は私の少し後ろに座って口を閉ざしていた。


「では僭越ながら【青龍】の当主であり、この青龍神社の宮司である私がご説明させていただきます。」


「…よろしくお願いします…。」


悪夢みたいなあの出来事からちっとも立ち直れていなかったけど、ここまで場を整えて貰ったからには聞かない訳にもいかず、生半可な心持ちで頭を下げた。



「まず、我が【青龍】の一族についてですが、その名の通り青龍の加護を受けた一族なのです。」


「青龍の…加護…?」


「はい。青龍は東を守護する神獣で出世・地位・名誉などを司ります。また、青龍は軍神でもありますのでその加護を受けた我ら一族は武術に長けており、その力を以って魔を払い清めております。そして、その青龍を祀る「青龍神社」では勝負運と商売繁盛の御利益を得られるのです。」


「…なるほど。」


健が傷だらけだったのは青龍の、武術の稽古のせいだったのかな…なんてぼんやり考えながら相槌を打った。


「美子、【四神】とは【応龍】の守護者であると教えたな。」


その言葉に肩がビクッと跳ねた。そして、それを堪えるように膝に置いた手を握りしめた。


「…はい。」


「【四神】には守護者としての義務があるが、それは当主のみに課されるものだ。そして、守護の対象は【応龍】の当主のみであり、例え配偶者であろうが子孫であろうが守護の対象にはならないのが規則だ。」


「えっ…?」


弾かれるように顔を上げて、その勢いのまま振り返ってお父様を見れば、感情の読めない目が真っ直ぐ私に注がれていた。


「つまり、今現在【四神】が守護する対象は私のみであり、次期当主の光は家督を継ぐ時にその対象となる訳だ。」


「…じゃ、じゃあ!お兄さまがいるから、ただの巫女のわたしは…、【四神】に護られるような人ではないんですねっ…!?」


突如現れた希望の光を見失わないように早口でそう捲し立てた。後はお父様の口から肯定の言葉さえ出てくれば良かったのに、お父様は淡々と首を横に振った。


「…如何なる規則にも例外があるように、【応龍】と【四神】の間にもそれは存在する。そしてその例外こそが美子、お前なのだ。」


「…わ、たし……?」



…どうして光なんて見せたのだろうと憎しみと悲しみが胸の中で混ざり合い、それが闇を生み出して再び真っ暗になった視界の中でその人は息を吸い込んだ。


「その例外とは『【応龍】の家に女児が生まれた場合に限り、その女児が十八になるまで【四神】の次期当主が守護する』というもので、先程挨拶をした東堂家の嫡男、東堂健とうどうけんはお前が十八になるまでその義務を負うことになる。」


欲しくない言葉だけしっかり言葉に残してその人は口を閉ざした。



「…では次に、この青龍神社の御神体についてですがー…」


代わりに後ろから別の人が口を開いて何事もなかったかのように説明を続けた。


憎しみのひとつでもぶつけられたら楽になれるのに、そんな勇気もない私は億劫になった呼吸をただ繰り返していた。






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途中に休憩を挟みながら私は二人の当主に延々と歴史やら建物やらの説明を受けていた。そして、太陽が西の空に傾く頃にようやく解放されたのだった。


「それでは美子様、お食事の時間になりましたらお声掛け致しますので、それまではこちらでごゆっくりお過ごし下さいませ。」


「…はい。ありがとうございます。」


部屋まで案内してくれたお手伝いさんは、そう言って頭を深く下げてから襖を閉めた。一人きりになってしばらくは立ち尽くしていたけど、立っているのが嫌になって畳に横たわった。


「………。」


色々なことを一度に教えられたけど、それらを整理して理解する気にはなれなかった。もう考えることすら面倒くさくて、何もかもがどうでも良かった。




……サラサラサラー…



風が吹いて葉の擦れる音が何処か遠くから聞こえてくる。その音が、懐かしさと寂しさを呼び覚ました。



(…昨日はあんなに楽しくて嬉しかったのに、どうしてこんなことになってるんだろう……)


誕生日なのに誰からも「おめでとう」と言われなかったとしても、昨日は間違いなく今までの人生の中で最高に幸せな日だった。だって昨日は、手を引いて連れ出してくれる彼が傍にいたから…。 



(…「大嫌いだ」って言ってたから怒ってるよね…騙したみたいになっちゃったかな……私はただ一緒にいられるだけでいいのに…護ってくれなくてもいいのに…)


彼の笑顔を思い出して、もう私に向けられることはないんだと思うと途端に悲しくなってくる。



「…また一緒に遊びたいよ…健…。」


涙を我慢しながら噛み殺すように呟いた、その時だった。





『…タスケテ、リュウノコ…』



葉擦れの音しか聞こえない静かな部屋に、鈴の音のように涼やかで美しい声が廊下の方から響いて来た。


「…誰…?」


いつの間に入ってきたんだろうと疑問に思いながら上体を起こして襖の方を見てみたが、そこには誰もいなくて襖も閉じたままだった。


「『助けて』ってどういうこと?」


姿は見えないのに不思議と恐怖はなくて、私は冷静に声のした方にそう尋ねた。




『…リュウノコ、リュウノコ、タスケテ、ハヤク…』


またあの声がしたと思ったら、閉じたままの襖から小さな一匹の緑龍が現れた。そして、その緑龍は泳ぐように空を飛んで驚いて固まる私の前までやって来た。


『…リュウノコ、タスケテ、ミコ…』


「…えっ?どうしてわたしの名前を知ってるの…?それに『リュウノコ』ってもしかしてー…」


私が言葉を言い終える前に、緑龍は回れ右をして再び襖の奥へ消えて行った。


「ま、待って!!」


緑龍の言葉に嫌な予感がして慌てて廊下に出ると、遠くの方で飛んでいるのが見えた。他人の家であることを忘れて全速力で走って行くと、今度は私の走る速さに合わせて空を駆けて行った。




………

……





「はぁっ…!はぁ、はぁ!」


緑龍の後を追って辿り着いたのは「道場」と書かれた木の看板が立て掛けてある建物の前だった。その緑龍はと言うと、息も絶え絶えの私を気遣うように周りをフワフワ飛んでいた。


「だ、大丈夫…!それよりも、ここなの?」


顎に溜まった汗を拭いながらそう問えば、緑龍は返事をすることなく扉の奥へ入って行った。それが答えだと確信した私は引き戸を力強く横に動かした。





…木と汗の匂いがする道場の中に、胡座をかいて窓から覗く夕陽を静かに眺める人影が一つあった。夕闇が満ちる広い道場だったけど、長い白髪と白髭を茜色に染めたその人が誰なのかはすぐに判った。



「…健の、おじいちゃん…。」


小さな声でその人の名を呼べば、夕陽を映す二つの目がゆっくり瞬きをした。



「…健ならここにはおらんぞ。」


落ち着いた口調で独り言のように呟いたおじいちゃんを、私は何も言わずに見続けていた。



「太刀筋に迷いがあったのでな、注意してやると刀を放り出して逃げてしもうた。青い青い、未熟な者よな…。」


「…健は、どこへ行ったんですか?」


ゆっくり歩いておじいちゃんの正面で正座をすると、その朧げな目が私に注がれた。



「刀を置いていってしもうたのでな、老いぼれには分からぬのよ。しかし巫女様…いや、美子ちゃんには探し出せるやも知れんのぉ。」


そう言っておじいちゃんは木刀を私に差し出した。両手で受け取った瞬間、木刀がドクンっ…と大きな鼓動を打った。その鼓動に驚く間も無く、今度は暖かい風がまるで私を守るように全身を包んだ。




『クゥォォオオォォォン!!』



拍子木ひょうしぎをうったような咆哮が道場に響いた瞬間、風が止んでその声の方を振り返って見ると、開けっ放しにした扉の所にあの緑龍が座って私を見ていた。その神秘的な目に、力強く頷いて立ち上がった。そして、道場の扉を通ろうとした時におじいちゃんが静かに口を開いた。


「…青龍は、五行思想の「木」に相当するんじゃ。もしかすると…。」


そこで言葉を切ったおじいちゃんはまた夕陽を眺め始めた。


「…行ってきます!!」


感謝を込めた笑顔でそう伝えてから、廊下に出て飛んで行く緑龍の後を全速力で追いかけた。夕陽に照らされた道は、真っ直ぐ私を彼の元へ導いてくれるかのように伸びていった。





ーーーーーーーーーーーーー






「…はぁ、はぁっ…こ、こは……」


一心に追いかけた緑龍が止まったのは、私と健がいつも遊んでいる神ヶ森の入り口だった。乱れた呼吸を整えながら緑龍を見つめればそうだよと言わんばかりにコクンと頷いた。


「わたしは大丈夫!だから、早く健を迎えに行こう!」


さあ連れて行って!と袖を捲って意気込む私を見ながら、緑龍は静かに首を横に振った。


『……ワカラナイ…』


「えっ……?」



思わず言葉を失ってしまった私に代わって、緑龍が悲しそうに言葉を紡いだ。


『…リュウノコ、カタナ、オイテイッタ…オオマガトキノモリ、ジャマスル…』



「そ、そんな…ならどうすれば…」


頭が真っ白になりかけた時、不意におじいちゃんの言葉を思い出した。そして、ある方法を思い付いたが余りにも突飛な内容だったために確信を持てずにいた。するとその時、考え込む私の顔を覗き込むように空を飛ぶ緑龍と目が合った。その目を見つめていると無意識に口が動き出した。



「…青龍は、ゴギョーシソーとか言うやつの「木」になるんだよね?」


『…ウン、キノカタナ、リュウノコ、チカラ、デル…』


「その力は【応龍】のわたしでも使える?」


『…ワカラナイ、デモ、ミコ、ワタシ、ミエル、ハナセル、リュウノコ、デキナイ…』


曖昧な返事だったけど、私には十分過ぎるほどのものだった。そして、確証を得た私は一本の木に向かって歩き出した。緑龍は不思議そうな顔をして私の後を追ったが、私がその木に触れたのを見て小さく『…ミコ…』と言った。



「…あなたが視えるなら、きっと大丈夫。だから、わたしを信じて力を貸して。必ず助けるから、わたしを、健のもとまで連れて行ってー…。」


こいねがいながら言葉にすると、触れていた木が突如緑青色の光を放ち始めた。そしてそれに呼応するかのように、右手で握りしめていた木刀がまたドクンドクンっと脈を打って風が私を包み込んだ。瞬きも、息をするのも忘れてその不可思議な現象に身を委ねていると、私の後ろにいた緑龍が右肩に乗ってきた。



『……アリガトウ、ミコ…』


そう耳元で囁いてから天に向かって大声で鳴いた緑龍。…その声は厳かで美しく、夕闇を切り裂くように森に響き渡った…。






続く…

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