第2話 お泊り
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「「ただいまぁー!!!」」
せーのっ!で声を合わせて、健の家の大きな玄関でそう叫んだ。健は平然とした表情で立っていたけど、私は気が気じゃなかった。つい勢いで来てしまったけど怒られたらどうしよう…とか、お父様やお兄様は今頃どうしているだろう…とか色々な不安が頭の中をグルグルしていた。すると、廊下の方から人が歩いてくる気配がした。
「おかえり…おや?珍しく客人を連れておるのぉ、健。」
「じいちゃん!」
健の声に弾かれるように顔を上げた。人と話す時は目を見るのが礼儀だと教えられていたから、もはや反射のようなものだった。
「お、おじゃまっ…」
ご挨拶をしようと口を開いたのに、顔を上げた先にあったお顔が言葉を奪ってしまった。
…結べるほど長い白髪と、たくさんの皺を刻んだ顔。そして何より目を引いたのは、髪の毛と同じ色の長くて立派な髭だった。何処ぞの仙人を思わせるその容姿は、幼心に畏怖の念を抱かせるには十分だった。
しばらく石像のように固まってそのおじいさんを凝視していると、お顔の皺がより深くなった。
「ほっほっほっ。すまんすまん。怖がらせてしもうたかの?なに、お嬢ちゃんが幾ら可愛いからと言って食いはせん。リラックスってやつじゃの。」
両手をヒラヒラ、体をクネクネ、お髭をユラユラさせて、健とそっくりのニコニコ笑顔を見せてくれた。
「オレのじいちゃん!んでもってオレの師匠!仙人みたいな見た目してるけど、普通のジジイだぞ!」
健がそう言うと、ゴツン!と鈍い音が響いた。その直後、健が頭を抱えて尻餅をついた。
「いってぇぇえぇ!!」
「口を謹めと何度言えば分かるんじゃ?全国のジジイに謝りなさい。」
「だ、だって!ジジイはジジイ…」
健のおじいちゃんは、握った拳をさらに固くギュッと握った。それを見た健は「ひぇっ…!」と悲鳴を上げながら、扉のところまで物凄いスピードで後退って行った。
「…ぷっ、あははっ!」
その光景に健も苦労してるんだなあと思ったら何だかおかしくなった。いや、健も私と同じで完璧じゃないから安心したのかもしれない。
人目も憚らずに声を上げて笑えば、健のおじいちゃんは優しく笑った。
「良い良い。笑うておるのが一番じゃ。して、小さな客人よ。主の名は何というのかの?」
「美子です!美しい子で美子!」
真っ直ぐおじいちゃんの目を見てそう答えた。その声音には、恐怖なんて一切なかった。
「美子ちゃんか、良い名じゃの。さてさて、今はジジイしかおらん寂しい場所じゃが、美子ちゃんさえ良ければお上がりなさいな。」
そう言うと、おじいちゃんは踵を返して今来た廊下をゆっくり歩いて行った。曲がり角でその長い白髪が見えなくなるまで見ていると、後ろの扉の所で丸くなっていた健が立ち上がった。
「…ちぇっ、美子には良い顔すんだもんなー。オレなんか「ジジイ」って呼んだだけでゲンコツだったのによー。」
殴られた所をさすって口を尖らせながらそう言う健を見て、私は思わず笑ってしまった。
「わ、笑うなよ!マジで痛かったんだからな!?骨と脳みそにこう、ズドーン!!って響くみたいなんだからな!!」
大きな身振り手振りで必死にその痛みを表現している姿がさらに私のお腹をくすぐった。笑い過ぎて涙が出るなんて、生まれて初めての経験だった。
「ご、ごめんね。でも、わたしもお父さまによく叱られるから、健の気持ちすごく分かるよ。」
目に浮かべた涙を拭いながらそう答えると、健は嬉しそうな顔をした。
「美子も怒られるんだな!オレと一緒だ!」
「うん!また一緒だね!」
そう言ってまた笑い合った。
一緒が増えていくごとに、嬉しさが募っていく。
嬉しさが募るごとに、健が大好きになっていく。
その大好きは、私の胸を優しい気持ちで満たしてくれる。
ポカポカ温かい胸を押さえながら感慨に耽っていると、健が靴を脱いで家に上がった。
「来いよ、美子!まずは風呂入ってきれいにしねーとじいちゃん怒るぞ!」
振り返ってそう言うと、私に手を伸ばしてくれた。土まみれの小さな手が、私にはキラキラ光って見えた。
「ゲンコツされないように気を付けなきゃね!」
伸ばされた手をしっかり握り返して、私も健の家に上がった。たった数十センチの高さを上がっただけなのに、私の胸は神ヶ森の一番高い木を登った時よりドキドキしていた。
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「「いただきます!!」」
あれからお風呂を済ませて健に導かれるままピカピカな廊下を進むと、美味しそうな匂いが立ち込める居間に辿り着いた。お腹はペコペコだったけど厚かましくはないだろうかと迷っている私を、健のおじいちゃんは笑顔で迎え入れてくれた。
「おいしいっ…!」
たくさん遊んでお腹が空いていたこともあって、口に運んだ料理はどれも頬が落ちそうになるほど美味しかった。
「ほっほっ。お口に合ったようで良かったわい。ほれほれ、遠慮せんといっぱい食べなさい。」
「はい!」
元気よく返事をしてから、私は忙しなくお箸を動かした。健はそんな私を横目でチラチラ何度も見ては負けじと口いっぱいにご飯を詰め込んでいた。おじいちゃんはというと、一生懸命ご飯を食べる私たちを温かい眼差しで見つめながら、お猪口に注いだお酒をくいっと飲み込んで笑みを浮かべていた。
………
……
…
「「ごちそうさまでした!!」」
ぱんっ!と気持ちの良い音と元気な挨拶が、夜の気配が漂う居間に心地良く響いた。
「お粗末様でした。粗茶ですが宜しければどうぞ。」
用意した料理が米粒一つ残されなかったことが余程嬉しかったのか、簡単な挨拶をし、食後のお茶を運んでくれたお手伝いさんは軽やかな足取りで部屋を出て行った。
「それにしても、健にこんな可愛い友達がおったとは知らんかったわい。」
菜の花のおひたしを肴にお酒を呷るおじいちゃんは、フゥーフゥーとお茶を冷ます私達にそんなことを言った。
「美子とはつい最近友達になったんだ。隠してた訳じゃねーよ。」
「神ヶ森の一番高い木の所でたまたま出会って、それから一緒に遊ぶようになったんです。」
一口だけお茶を飲み込んでからそれぞれそう答えた。
「ほぉ。つい最近、しかも偶然とは、不思議な縁でも結ばれておったのかのぉ?」
揶揄うように語尾の調子を上げて笑うおじいちゃんに私達は首を傾げて見つめ合った。
「どういうことだ?じいちゃん。」
健が素直にそう聞けば、おじいちゃんは「さぁ〜のぉ〜?」と戯けてはぐらかしてしまった。それからひっひっひっと一人で愉快そうに笑い始めたおじいちゃんに、健は大きな溜息を吐いた。
「…あーあ、出来上がっちまったなぁ…。美子、こうなったじいちゃんの相手すんのメンドーだからさっさと布団いこーぜ。」
「えっ、放っておいていいの?」
「おう。多分このままここで朝まで寝るし。」
ご老人を放置していいものかものすごく悩んだけど、子供の私達ではどうすることもできないなという結論に至り、健の後に続くため立ち上がった。そして、敷居を跨ごうとした時だった。
「…ぬしは天地神社の御子じゃろ?」
…向けた背中に、ぴりっとした空気が言葉と共に突き刺さった。本能的にここにいてはいけない思ったのに、催眠術でもかけられたかのように身体が勝手にその声の主の方へ振り向いてしまった。
「…っ…」
振り返った先にいるのは間違いなく健のおじいちゃんなのに、その皺だらけの顔に浮かぶ厳しくて冷たい表情が全くの別人を思わせた。
…いや、違う。私はよく知っていた。だって、その冷たさは、時折お父様が私に向ける眼差しのそれと全く同じだったから…
息をするのも瞬きをするのも忘れておじいちゃんを見つめていると、白い髭の下にある見えない口が静かに開いた。
「…龍が引き合わせたのか、はたまた流れる血の因果か…何方にしても厄介なことに変わりはないが…」
「…りゅう…?」
今まで感じたことのない恐怖が身体を支配していたのに、その単語だけは鮮明に聞こえてきた。私が【応龍】の一族だからなのかも知れないけど、その言葉で強張っていた身体が楽になって頭も少し冷静になった。
「…どうして、わたしが天地神社の子だって知っているんですか?」
勇気を出してそう聞くと、おじいちゃんは朧げな目で私を見つめた。
「…知っているとも。この家もぬしの家と同じように神を祀りお仕えしておるのでな。いや、しかし、困ったものよ…。」
「…困る?「美子ぉー?」
名前を呼ばれて振り返ると、先に部屋へ行ったはずの健が怪訝そうな顔をしながら戻って来ていた。
「全然来ねーから戻って来たけど、何してたんだ?」
「あっ…えっと…」
「わしと話しておったんじゃよ〜。男の嫉妬は醜いぞぉ〜?健〜。」
言葉の先を奪うように重ねられた声には、さっきまでの清逸さは微塵もなくて、皺だらけの顔に浮かぶ表情も緩んだものに変わっていた。その変わり様に、私だけ夢でも見ていたんじゃないかと錯覚しそうになる。
「しっとじゃねーし!あーもう!メンドーだから行こーぜ、美子!」
健は心底面倒くさそうな顔をして少し乱暴に私の手を握った。それから私の返事を待たずに手を引っ張って部屋を出て行こうとする。驚いた私は咄嗟に振り返っておじいちゃんを見た。
「おやすみ〜仲良う寝るんじゃぞぉ〜?」
真っ赤な顔で私たちを見送るその姿は、ただの酔っ払いのおじいちゃんで、私は胸に
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「よしっ、電気消すぞー?」
「うん、いいよー。」
パチッという乾いた音とともに電灯から明かりが消えて暗い夜の闇が部屋の中に広がった。何も見えない中を、健は手探りで何とか私と同じ布団に辿り着いた。徐々に暖かくなる布団が心地良くて
「…けん…?」
「…ん?ああ、悪い。気にしなくていいぞ。」
そう言って小さく笑った健が、何だかすごく苦しそうで放っておくなんて出来なかった。
「…わたしには隠さなくていいよ。健は、わたしの苦しいこと聞いてくれたから、今度はわたしが健の苦しいこと聞きたいな…。」
暗闇に目が少し慣れてくると、隣にいる健の表情がぼんやりと見えるようになった。目を大きく開いて固まりながら健は真っ直ぐ私を見ていた。
「…そっか……なら、少し聞いてくれるか?」
「うん。なあに?」
健は天井を見つめると瞬きを一つしてから口を開いた。
「…オレにはさ、護らなきゃいけない奴がいるんだ。父ちゃんやじいちゃんは「それがお前の宿命だ」って言ってた。」
「…護らなきゃいけない奴…?」
「そう。会ったことも見たことも、ましてや名前すら知らねー奴なんだけどな。」
「本当にいるの?そんな人…」
「オレもそう思ってたんだけどよ、明日そいつがそいつの父ちゃんと一緒にあいさつに来るんだって。」
「そっか…それは緊張するね。」
私がそう言うと、健はまた溜息を吐いた。
「…別に緊張はしねーよ。けど…正直に言うと会いたくねーんだよ、そいつに。」
「どうして?仲良くなれるかもしれないよ?」
健らしくない冷たい物言いに内心驚きつつも健の言葉を待った。すると、健は闇色の天井に向かって右手を真っ直ぐ上げた。
「…オレさ、今までずっとそいつのために修行や稽古をさせられてきたんだ。やりたいこととか全部我慢しろって言われて…。だから、チューセーシンとか全くなくて、むしろ怒りすら感じてるっていうか…。」
そこで言葉を切った健は上げていた右手をギュッと握って自分のおでこに置いた。
「…なのに、今さら会ってどうしろって言うんだよ……怒りしかねーのに、護れとか……、勝手すぎんだろ…父ちゃんもじいちゃんもそいつも、みんな自分勝手で、大っ嫌いだ…!」
健の声は震えていた。握り締めた拳も肩も唇も、怒りと苦しさから震えていた。私はそれを何も言わずに見つめては唇を引き結んだ。
…自由だと思っていた健は、ちっとも自由じゃなかった。寧ろ私と同じで、視えない鎖に縛られて苦しんでいた。同じ苦しみを抱えていたのに、大好きなのに、自分のことばかりで気付かなかったなんて…
湧き上がる激情を抑えるために目を瞑り、気付かれないように息を吐いた。そして、ゆっくり目を開いて震える健の手に自分の手を重ねた。健は肩をびくっと震わせて驚いた顔で私を見つめた。
「…ごめんね、健。」
「…何で、美子が謝るんだよ…」
今にも泣き出してしまいそうな顔で、重ねた私の手を両手で強く握り締めた。助けてと言っているかのように痛いくらい強く握るから、私もそれに答えようともう一つの手で健の手を包んでおでこ同士をくっつけた。
「…健が、わたしを助けてくれたみたいに、わたしが健を助けてあげられたらいいのに……何も出来なくてごめんね…健。」
自分の無力さを憎みながら、少しでもその苦しみに寄り添いたくて、健だけに聞こえるくらいの小さな声でそう言った。
「…このまま、二人で嫌なこととか苦しいことから逃げられたらいいのにな。」
「…うん。」
大きな真っ白の布団の中で、固く手を握り合って目を閉じた。誰にも邪魔をされない夢の中でずっと遊んでいられるように月に祈りながら、私たちは眠りについたのだった。
続く…
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