第2話 新しい色たち

 虹陸芸術専門高等学校美術部は他の団体から「木漏れ日の美術部」と呼ばれていた。


常に笑顔を浮かばせながら活動しているところから、木々の合間からこぼれる日差しの温もり、木漏れ日こそが美術部を象徴している。そのような特徴から付けられた別称である。


 まだ少しばかり涼しさを感じさせる五月の今日。

 美術部の部室から聞こえるのは、やはりというべきか、笑い声だった。




「さぁ一色! この勝負に負けた奴が一週間パシリ決定だ! その辺りをよくよく理解したうえで引きたまえ」

「変なプレッシャーはやめて下さい、貴音先輩」


 ……とはいえ、木漏れ日とは思えないほど裏腹な笑い声である。


 美術部に在籍する一年生の男子生徒、一色千尋はトランプを一枚手にして、目の前で凄まじい険相で彼を睨む女子生徒の態度に対して肩を竦める。


 女子生徒……この美術部の部長である三年生の貴音美月たかねみつきは、手を少しプルプルと震えさせながら子犬のような目で一色を再度睨む。


 容姿は大和撫子を体現するように長髪黒髪で、一見すれば良家の箱入り娘のような見た目なのであるが……中身はお察しのとおりである。


 残念美人という言葉が彼女ほど似合う女性はいないであろう。


「あはは! 美月ちゃんがんばれー! これで勝ったら逆転さよならホームランだよ!! 超かっこいいよ!?」

「初香、やめてやれよ。っていうか美月が勝負事に弱いこと知ってて言ってるだろ――弱いくせに挑んできやがって、ふっ」


 その光景を見て楽しそうに煽る女子生徒、二年生の海老名初香えびなはつかとそれをフォローするかと思いきや、完全に馬鹿にしている三年生の海老名雪彦えびなゆきひこが騒ぎ立つ。


この二人は顔立ちがよく似ている兄妹であり、兄の雪彦は音楽専責で、妹の初香はアニメーション専責の課程を修学している美術部員だ。


 海老名兄妹は地毛が遺伝で少々茶色がかっており、髪の分け目が兄妹で左右対称である。雪彦は無駄に髪を整えており、初香は長髪を後頭部の右側で一まとめにしている。


 そんな二人から煽りを受けながらも一色は無表情に美月を見つめながら、彼女の手札のトランプを一枚掴む。


 ――強ばる美月の表情。もちろん一色はそれを見逃さない。


 ……そもそもこのような状況になった大元の原因は美月にあった。


彼女の悪い癖で勝負事を一色や海老名兄妹に叩き付け、逆に叩き潰されているのだ。というより彼女が叩き潰されないことがまずない。


 やっているゲームはババ抜きであるのだが、これがまた美月が弱い種目である。すぐに考えていることが表情として表に出る彼女にとって、このような心理ゲームは最も避けたいところ。にも関わらず、そんなことをお構いなしに提案したのは何を隠そう彼女である。


 自業自得である。控えめに言って馬鹿である。控えめに言わなければ愚か者だ。


 が、涙目の彼女を一方的に且つ全力で絶望させるほど一色も冷たくない。


 彼は恐らく数字札であろうカードを取るのを止め、もう片方の恐らくジョーカーであろう札に手を伸ばす。


 ……安堵する美月の表情。彼は失礼ながらも「馬鹿」と思わざるを得えなかった。


「おい! さっきから思わせぶりな作戦を取るな! さっさとカードを引かないか!!」

「それをするために心理戦をしているんですよ」


 そうは言いつつ、実は楽しんでいるだけの一色。

 とはいえ、彼もまた一週間パシリにされるのは避けたいところ。


彼は特に先輩を労わることなくジョーカーではないほうのカードを抜き去る。案の定、それはジョーカーではなく、美月の敗北が決定した。


「はい美月ちゃんの負け~! まあ予想通り過ぎて面白くないけどね」

「やかましい! そうよ、私の負けだよ! この一週間パシリでも何でもやってやる!」

「んじゃ、あたしと雪彦はミルクティーで! ちひろんは?」


 初香は一色に親しげにそう尋ねる。一色はそれに対して一言「コーヒーで」と返答し、美月は子供のように涙を流しながら廊下へと飛び出していった。

 それを見て初香は余計に楽しげに笑った。


「初香よぉ。美月はへなちょこなんだから、もっと言葉を選ばないと」

「雪彦も何気にひどいこと言ってるよね。さっきもぜんぜんフォローになってなかったし」


 まさにその通り、と一色は苦笑しながら机の上に散らばるトランプを綺麗に箱にしまう。すると机の上に項垂れている初香が一色の制服の裾を引っ張った。


「そーいえばちひろん。こーちゃんはまだ来ないの?」

「あぁ、水無月ですか。今日は授業の課題をしてくるそうなので、少し遅れるそうです」

「いつもなら虹ちゃんが誰よりも早く部室に来ているからなぁ。なぁ千尋よ、虹ちゃんがいなかったら癒しが足りないよな?」

「それを俺に聞く理由が分からないです、雪彦先輩。それなら先輩はどうなんですか?」

「虹ちゃんは俺の心のオアシスさ。癒しの存在で絶世の美少女。そんな虹ちゃんナシでの美術部なんて、ヒロインのいないドラマと同じだぜ」


 ――非常に分かり易い例えである。

 各々、そんな軽口を叩いていると、先ほど走り去っていった美月が部室に戻ってきた。

 ……もう一人の女子生徒を連れて。


「お、美月ちゃんと一緒に登場だ! やっほー、こーちゃん」

「課題は終わったかー? 虹ちゃん」


 初香と雪彦にそう尋ねられ、一年生の女子生徒……水無月虹は元気いっぱいの笑みを浮かべて返答した。


「はい! もうそれはばっちりです!」

「ふふふ、流石は私たちの虹ね」


 パシリにされていた美月が先ほどの泣きっ面とは裏腹に、母性に富んだ優しげな笑みを浮かべて水無月の頭を撫でる。百面相とはまさにこのことだ。


 ……虹陸芸術専門高等学校美術部が木漏れ日の美術部、と呼ばれる最大の理由は水無月虹の存在が大きい。


 彼女のセールスポイントは気取らない可愛さという部分だ。この部活において水無月はマスコットのような立ち位置で、特に上級生である三人からは溺愛されている。笑顔はいつも彼女から生まれ、楽しげな部活という環境を形成しているのだ。


 もちろん、当の本人はそんなこと無自覚であるのだが。


「あ、一色くん! あれ、伝えてくれてありがとね」

「別にそれくらい良い」


 あれ、とは彼女が遅れる理由のことである。水無月はそのことを伝えてくれた一色に満面の笑みでそう言うと、一色は特に反応することなくそう返した。


ぶっきらぼうといえばそこまでだが、これも彼らしいといえば彼らしい。喜怒哀楽をあまり見せないことを部員も十分に理解していた。


「おい、一色。表に出ろ」


 ……もちろん、それを許すか許さないかはそれぞれ別の話であるが。美月、初香、雪彦はそれぞれの反応を見せた。


「そーだねー。こーちゃんにあんな満面の笑み+ちょっと赤く染まった頬でお礼されてあの返しはないかなぁ~」

「まぁまぁ、落ち着いて二人とも。生意気な後輩だけど、照れ隠しだよ。一色は虹ちゃんにべた惚れだからなぁ」

「……えっと、違うんですが」


 三人の理不尽な怒りに、一色は特に慌てることなく水無月を見る。彼女は彼とは違い慌てふためいていて、なにやらアワアワと取り乱していた。


それを見て一色はどうしようもないことを理解して、ため息を吐く。水無月の考えることだから、どうせ俺に迷惑かけているからどうにかしないといけない、なんて考えているんんだろう。一色はそれを理解して、その後で苦笑した。


 美術部における一色弄りと、そのときの水無月の何とかフォローしようとして空回る姿はもはや恒例行事の一つなのである。一色としては是非とも改善したい事案の一つだ。


 ……それから数十分の一色責めの後、気を取り直し、美月は皆の前に立った。


「――それじゃあ、今日の活動をはじめようか」


 ……そうして、美術部の活動が始まった。


○●○●


「「「「絵画リレー?」」」」 


 美月を除く美術部員が口を揃えてそう言った。

 部長である美月から言い渡された本日の部活内容は、絵画リレーと名付けられたものだった。美月は分かり易い図解を黒板に記して説明をする。


「そう。絵画リレーっていうのは一人二十分程度でキャンパスに掛けるだけ絵を描いて、次の人にパスしていくっていうもの。もちろん自分の番では好き勝手に絵を描いてくれて良いし、まじめにやってくれても構わないよ。要は絵を描く上での他人のインスピレーションを肌で感じて、自分の力にしてくれってこと」


 例えばこんな線の引き方があるのか、などといった新しい発見をするための企画と、皆で楽しめる活動内容を込めたものなのだ。美月の説明を聞いた部員は活動に特に異論はなく、自分のペンケースから鉛筆を取り出す。


「それじゃあ最初は……もう一色でいいな」

「そだねー、ちひろんのセンスみたいしー」

「きっとすばらしいものを描いてくれるはずだ。下手すりゃ春画描き出すぜ、あいつ」

「……先輩たちは俺を何だと思っているんですか? そんなどこかの軽薄な雪彦って人の真似するわけないじゃないですか」

「そ、そうですよ! 一色くんは真面目なんだから、みんなそんなこと言っちゃダメですよー! 海老名先輩とは違うんですから!」

「……うん? なんか俺、千尋と虹ちゃんにディスられてない?」


 相変わらずの一色弄りに翻弄されながら、一色は鉛筆を片手にキャンパスに向き合う。


 ……一色はこの学校において漫画専責の生徒である。その中でも画力は非常に高く、線の綺麗さや物体を把握する力であればこの美術部でも一、二を争う。


一色はすっと慣れた手つきで線を引き、自分の中の大体の想像を絵にしていく。


 最初はそれが何かは分からないものの、五分ほど過ぎたところで他の人が見ても分かるほど形が整ってきた。美月はそれを見てふと一色に問いかける。


「なるほど、先に背景を書いているってわけか。見た感じでは森か?」

「ええ。まずは当たり障りのないものを描いて、後は好きに弄ってください」


 一色は若干投げやりではあるものの、見惚れるほど迷いなく線を立て続けに引いていく。すると同級生である水無月はすっと一色の肩から顔を覗かせた。


「わぁ……一色くんの線って、本当に綺麗だよね」

「それはありがと。……それと水無月、顔が近い」


 一色の言うとおり、水無月の距離感はかなり近かった。しかし彼女はあまりそれを気にする性格をしていないので、首を傾げた。


 ……一色は考えても仕方ないと判断すると、再び絵を描くことに集中する。そうしていると一色の時間が終わった。木を描き、その枝にいくつもの葉っぱを慣れた手つきで次々に描き足していった。


 森の全容が大体描けて一色は鉛筆を置き、絵を他の部員に見せる。


「はい、そこまで。……ちっ、普通に良いものを描きよって」

「さっき真面目に描いても良いって言いましたよね? 貴音先輩」

「お前には冒険心ってものが足りないぞ。あれなら春画描いたほうがまだマシだ。まぁいい。次は初香の番だ」


 美月の理不尽な怒りはさておき、美月は次々、と言ってはやし立てる。一色のジト目を気にすることなく初香にそう言うと、初香は鉛筆をくるくると指で回しながら唇を少し舐めた。


その表情はどこか悪戯さを垣間見せており、椅子に腰掛けると彼女は一心不乱に鉛筆を振るい始めた。


「この初香ちゃんがこの絵を劇的に面白おかしくしてあげよう!」


 初香は虹陸芸術専門高等学校において、アニメーション専責に進んでいる。そのため基本的に筆を振るう速度は速く、どちらかといえば絵のタッチは一色に近しいものがあった。


 時間制限があるからか、初香は普段にもまして凄まじい勢いで鉛筆の先で線を次々に引いていく。


 一色の描いた背景にはあまり手を触れず、そこに人物のようなものでも描いているのだろうか。それは一色も定かではないが、ともかく彼女の描くものには興味がある。


 だが、初香が描いていくにしたがって、相対的に一色の表情は曇っていくのだった。


 ……二十分後、キャンパスに描かれていたものは何とも言い難く、しかし確実に「面白い」ものであった。


「……なんでこんな厨二病みたいな絵になっているんですか?」

「ふふん。いやぁ、これは良いものだねぇ~。真面目に描いたちひろんの素晴らしい絵を、すっごくダサくするのは!」


 ……初香の描いたものはとても仰々しいポーズを取って、謎に木々を操っている男だった。背景にはほとんど手を入れず、追加でうねる細い木の枝を男の周りに纏わせるという謎の構図。


 そして何より初香の描いた男の顔は、紛れもなく一色の特徴を捉えたものだった。


「まあこれもちひろんの潜在意識というものだよ!」

「いや、俺はそんなもの描いていませんから。というか人を勝手に描かないでください、迷惑です。……全く」


 まるで自分が厨二病であると言いたげな彼女に、一色は声を荒げずに否定する。


 ……ただ、たった二十分で真面目すぎる絵を面白おかしく変化させたのは彼女の才能であることは間違いなく、そういう意味では素直に感心している一色だ。


 初香はやり切った顔をして、雪彦にバトンを渡すかのようにハイタッチした。次は雪彦が椅子に腰掛ける。


 ……数秒、絵をじっと見つめていると、何かを決めたように妹と同じく唇を舐めた。


「この絵には圧倒的に自然なかっこよさと、可愛さが足りないな。まぁ初香に可愛さなんて求めても無理なものだけど……」


 ボソッと呟く雪彦ではあるが、もちろんそれは初香に聞こえている。初香はその後ろで猛反論しているが、雪彦はそんなことは無視して鉛筆を走らせた。


 雪彦は初香の描いた謎の木の枝に手をかけていき、それをデフォルメ色の強い可愛い木のキャラに変貌させてしまった。更に主人公のような存在の肩に可愛らしい動物を描く。


 それを次々に量産していくと、次第に格好のついていた面白可笑しい絵がファンシー色の強い可愛い絵に変わった。


「ちょ、雪彦! せっかく面白いものに変えたのに!!」

「美月が言っただろ? 好きにして良いって。お前のセンスは中学生で止まってんだよ、バーカ」

「っていうか男の癖に可愛いさを求めるとかキモいよ! こんなお兄ちゃんを持って私は悲しい!」

「……可愛いは正義って言葉をお前に贈ってやる――美月。次はよろしく」


 雪彦は妹である初香の頭を軽く叩いて、美月にバトンタッチした。変わってキャンパスの前に立つ美月は、腕を組んで少し考える素振りを見せる。


「雪彦。なぁ、雪彦。これはつまらない。全く……この三年間、あなたは何を描いてきた? これだからチャラ男は……」

「や、やっぱり海老名先輩って女好きなんだ……一色くん、海老名先輩の真似したらダメだよ?」

「虹ちゃん!? そ、そんなことないからな! あれは美月の奴が勝手に言っているだけで――ってちょっと距離とらないでくれよ! おい千尋、なんだそのゴミを見るような目!! 俺をそんな目で見るんじゃねぇ!!」


 雪彦の必死の取り繕いに対して、水無月は彼から距離を取って二歩ほど一色に近づく。分かるとおり、雪彦は水無月のことを大層気に入っているからこのような反応をされることは本望ではないのだ。


 美月の勝手な発言で風評被害を受ける雪彦を横目に、美月は既に筆を手に取っていた。いつの間にか用意していたパレットを片手に、美月は三人が描いた鉛筆絵に色を塗り始めていた。


「あー、なるほどー。別に色つけたらダメなんて言ってなかったもんねー」

「そう。まぁ見てなさい。私が見事面白おかしくしてあげよう」


 美月はシャツの腕を捲くり、一心不乱にキャンバスに色を塗っていく。


時間が限られているためか、先に薄く下地を塗る。更に人物に劇画調の黒塗りの翼を生やし、その頭部に角のようなものをつけた。さながら魔王の如し悪魔のような見た目になったにも関わらず、周りにあるのは異様にファンシーな見た目の動植物。


 ……そこには一言で片付けるのならば、全く以って意味の分からない世界が広がっていた。正体不明である。


「ふむ、上出来だ」

「上出来も糞もないでしょう、貴音先輩。なに勝手に人を更に馬鹿みたいに描いているんですか?」

「ふふふ……まぁ面白いことに否定はしないだろ?」

「否定はしませんけど、これは幾らなんでも……」

「ちなみに題名は御伽の国のアザゼルだ」

「…………ノーコメントで」


 と思いつつ、翼の生えた自分がちょっとかっこいいと思ってしまう一色は、それ以上は何も言わずに部長である美月の頭を紙を丸めたもので軽く叩いた。それについて文句を言う美月だが、無論無視である。


 そして水無月の方を向いて、少し頭を下げてお願いをした。


「水無月、お願いだからお前の力で俺を助けてくれ」

「た、助ける? ……わかった、とりあえずやってみる!」


 美月によって作り出されてしまった何とも言えない世界観を前にして、水無月は頷く。

 そして奇妙奇天烈なキャンバスを前にして、美月の筆を受け取った。


 ――一色はその姿を、深く凝視する。

 興味深そうに、という言葉が恐らく一番体を表している。一色の目には今は、水無月のことしか映っていなかった。


 水無月が筆を握り、その一筆目がキャンバスに触れた瞬間、今まで彼の目に映っていた世界がガラリと変化した。もちろんそれは言葉の比喩であり、実際に絵が劇的に変化したわけではない。


 ただ、一色の目には確かに「色」が映った。


水面に雫が落ち、波打つように次々と変化を重ねていく絵。その変化の光景に一色は心を奪われていく。キャンパスを前にして懸命に、しかし楽しそうに絵を描く水無月に視線が釘づけになっていた。


 ……それまでモノクロであった一色の世界視界に、確かにほんの少し色が宿ったのだ。もちろんそれはものの例えで実際には一色の目は灰色の世界のままである。だが、理屈ではない部分でそれは確かに「美しい」と感じるものに見えたのだ。


「これをこうして……えっと……、美月ちゃん。朱色取って貰って良いかな?」

「ほれ」


 美月は水無月の願いを聞き取り、朱色の絵の具を水無月に手渡す。


 うんうんと唸りながら賢明に色を塗りたくる水無月。水無月は実に色使いが上手だ。色の相性を理解しており、彼女の描く塗りは絵を最大限活かす。


 濃すぎる人物画には周りの色を合わせるため、別のアクの強い赤を基調とした色を塗り、周りはその赤と黒を生かすために少し薄めの色を塗り重ねる。美月の仕業によって強調されすぎている翼を上から塗り重ねて薄くした。


 それによって世界観がバラバラであったキャンバスが一つにまとまった。調和という言葉が適当であるか。その光景を見ていた周りは「おぉ」と感嘆の声を漏らしていた。


「おぉ……さっすがこうちゃん。よくあのぐちゃぐちゃな絵をまとめたね。ご褒美に撫でてあげよう♪」

「は、初香先輩、くすぐったいですよぉ」


 初香のスキンシップに照れながら応対する水無月。当の初香は水無月の可愛らしい反応に悪戯心が芽生えたのか、刺激されたのか、非常に悪そうな笑みを浮かべて余計にスキンシップを過剰化させていった。


 初香は水無月に抱き着きながら頭を撫でたり、自分の頬と彼女の頬を擦り合わせたりしていた。無論水無月は困っているのが見て分かったからか、一色は溜息交じりに二人に寄っていく。


「海老名先輩、水無月が困ってるんでそろそろ勘弁してくれませんか?」

「むむ、女の子の花園に土足で踏み込んでくるとは、ちひろんも中々のイロモノだね。うちの雪彦みたい」

「それはかなり人聞きが悪いので止めてくださいお願いします。あの人と一緒にしないでください、かなり評判悪くなるので」

「お前ら人聞き悪いな!! 俺、そんなに評判悪いか!?」


 雪彦はいつの間にか自分に標的は移っていることに気付いて反論する。しかしあまりにも自分の評価が乏しくないことに不安を抱いたのか、心情的に確認して安心を欲したのだろう。実に健気で哀れである。


 無論、妹である初香はそんなことはお見通しである。伊達に長年妹をしていない。彼女の性質が起こす行動が、雪彦の心を安心させるための行われるはずもなく……


「一年では、雪彦先輩は性欲の権化、近づいたら手を出されると噂が絶えないですね」

「二年でももっぱらの噂だよー。海老名雪彦は常に女を侍らせるって」

「三年なんてもう近づいたら孕ませられるということで、恐れられているさ。名付けて絶倫雪彦ってね」


 兄を貶めることに決まっていた。


「――ぜんぶ、お前らが勝手に捏造したことだろうがー!!!」


 雪彦はもちろん、そんなことをするような青年ではない。確かに女性経験は豊富な方ではあるが、交際している時はその女性のことを真剣に想っていて、大切にしている。


だが割と高い頻度で交際相手が変わり、女が絶えることのない雪彦に噂が立つのは至極当然なのだ。


 ……たちが悪いのは、それを美月や初香が噂を一人歩きさせ、いつの間にか彼女たちが言ったような噂が生まれてしまったこと。人の噂も七十五日というが、雪彦の悪評は三年目の今でも消えていなく、むしろ悪化の一途を辿ってしまっているのだ。もう一度言おう、哀れである。


「最近女の子が妙に俺を避ける理由はそれかよ! つーかいつの間に俺の噂はそんなにえぐくなったんだ?」

「――噂は常に私がコントロールしているからな! はっははは!!」

「…………。表に出ろや、美月このやろぉぉぉ!!」


 雪彦はイーゼルを片手で持ち、美月を懲らしめようと襲い掛かる。自信満々でそう言い放った美月は自分の身の危険を感じてすぐさま脱兎の如く廊下に逃げ出した。


「お、おまえな! イーゼルという美術部員にとって必要不可欠なものを振り回して、それでも美術部員か!?」

「お前はそれでも人間かー!!」


 ――ド正論である。木漏れ日の美術部、三年コンビは壮絶な追っかけっこをしに廊下を駆け巡り、その結果、三人は部室に取り残された。


「……ちひろん、どうしよっか」

「は、早く離してくださいよぉ、初香先輩ー」

「ってことなんで、そろそろ水無月を解放してもらっても良いですか?」

「はふぅ……まあこーちゃん成分はもう摂取したからぁ――次はちひろん成分を摂取させてねぇ!!」


 まるで標的を変えたかのように、初香は一色に抱き着こうとする。しかし一色はその他諸々の部員よりも遥かに冷静な性格をしていた。一色は飛びかかってくる初香に向けて、普段はキャンパスにかけてある布を覆い被せた。そのまま非常に良い手際で布を覆わせて括り付け、巻物のように拘束する。丁度頭だけが出ているような形だ。


「す、すごい!! 一色くんの拘束技術が進化してる!!」

「あれだけ毎日抱き着かれて匂いを嗅がれまくったら嫌でも上手くなる」

「……ちひろーん、これ解いてよぉ~」


 拘束された初香は解放を求めており、それを見て水無月は一色に一応尋ねてみた。


「……どうしよっか、一色くん」

「――放置」


 まともなのが一年生コンビだけというのも嫌な話である。それほどに一色と水無月は日頃から先輩である上級生に振り回される毎日であるのだ。

 辺りでブーブーとごねている初香を放って、二人はそこで一息つく。


「ふぅ……やっぱり一色くんが入ってくれて助かったよ~」

「今までお前一人であれと相手していたと考えると……」


 ……一色が水無月に甘くなるのも必然と言えよう。何はともあれ、約一名現在進行形で唸って文句を言っている輩はいるものの、部室は平和となる。

 一色はふと水無月が描いていた絵を見た。……お世辞にも完成しているとは言い難い。普段なら気にならないことであるが、一色はその先を見たいと思った。


「続き、描かないのか?」

「え? ……あぁ、そうだね。美月ちゃんが消えちゃったから続きどうしようかと思ってたんだー。一応部長だし」

「……どうせだし、続きを描かないか?」


 珍しくもそう提案する一色に、水無月は少しばかり驚いた。

 ――文化祭が終わった直後に突如入部しにきた同学年の男子。それが水無月にとっての彼に対する印象だった。寡黙で淡々としていて、しかしながら騒がしい部活にすぐに順応して今では美月や雪彦、初香にも気に入られている男の子。

 もちろん水無月もまた新しく入ってくれた同学年の子ということもあり、非常に積極的に交流をしている。

 しかし一色は基本的に受け身の態勢がほとんどで、少なくとも自分から何かを提案することが少ない。だからこそ、水無月は驚き、そして何より嬉しくも感じたのだ。


「う、うん! あ、それなら一緒にしよっか。私、一色くんの分の画材もってくるね!」


 水無月は嬉しそうに提案を快諾すると、スキップをするような勢いで画材を隣の準備室に取りに行った。

 ……それくらいは自分でするのにな、と考えつつ一色はそれまで皆で描いた絵を見た。

 ――無茶苦茶だ。異様に手の込んだ背景に自分の顔と酷似した人物、ファンシーな木々や動物、極めつけは天使か悪魔か分からない翼と来た。しかも性質が悪いのがそれぞれの技術が異様に高く、それなりにまともなものに見えているという点だろうか。合わせて一時間程度でつくられた作品であるから完成には程遠い。だが互いの価値観がぶつかり合った結果が一つのカタチとして収束することに面白みを感じたのも事実だ。

 ……だが一色は思う。この作品に、本当の意味で息を吹き込んだのは紛れもなく――


「一色くんは墨絵が得意だよね? はい、これ筆だよ!」

「……ありがとう」


 ……彼女水無月の時であると、一色は確信した。筆を持ち、椅子に腰かけてキャンパスに向き合う彼女を見ながら一色はそう思う。あの時、あの瞬間に一つのバラバラであった絵は一つにまとまり、一色の目に微かな色を見せたのだ。

 一色は水無月に勧められ、一応は筆を持つもやはり彼女の描く姿に注目してしまう。見える景色は相変わらずの灰色なのに、どうにも色があるように思えて仕方がない。


「……でも一色くんは、本当に綺麗な線を引くよね」


 ピタリと筆を止めて、水無月は一色の顔をじっと見てそう呟いた。

 線を綺麗に引く、というのはその通りである。一色の引く線は迷いなく真っ直ぐに、滑らかに引かれたものだ。あまり線を引くことに慣れてない人が引くと、線はガタガタになる。だから真っ直ぐに線を引きたい時、何気なく定規を使う。

 しかしフリーハンドで描かれる一色の線は歪みがない。それは彼がこの学校では漫画専責のコースで活動しているというのが理由である。


「漫画専責だから、何かと線を引くことが多いんだ。うちの先生は線の質が漫画に如実に現れる、とか言って線を引く練習をひたすらさせるから」

「……羨ましいな。私、あんまり線を引くのが得意じゃないから」


 水無月は「あはは」と苦笑いをする。


「そうなのか?」

「うん。思った風に線が引けなくてね。だから色でカバーしてるんだよ」


 ……実際に水無月が絵画を描くときなどは下書きをせず、いきなり色を塗り始めることが多々にある。絵を描くスタンスなどは独自のものがあるのは当然であり、実際に水無月の描いたもので一色は感動を覚えている。

 ……一色がこの美術部に入った理由。それは彼女のことを知るため。自分に初めて絵の美しさを教えてくれた水無月を知りたいから、彼はこの美術部に入ったのだ。

 文化祭の日。展示されていたあの絵を見て初めて自発的に何かをしたいと思ったあの春の出来事。一色はあれほどの衝撃を他に知らない。

 ……水無月はそんなことを一色が思っているということは露ほどに知らないだろうが。


「……なあ、水無月」

「どうしたの?」

「……お前は絵を描くの、楽しいか?」


 ふと、漏れた疑問であった。この部活に入っているのならば、わざわざ質問するようなことではない。水無月が絵を描くことが好きなことなんて一目瞭然であるからだ。

 感情豊かな彼女は筆を持っているとき、色々な表情をする。笑顔であったり、難しい顔をしたり、何故か涙を浮かべ、だが最終的には笑顔に行き着いて絵を完成させる。

 ……一色には絵を描く楽しさが分からない。もちろん全てがつまらないと感じているわけではない。彼を形成しているものの一つに「絵」というものは確かにある。しかし、そこに「色」が欠けている一色にとって絵を描くことを心の底から楽しんでいるのかと問われれば……答えは否である。

 一色にとって絵を含めた芸術は両親が愛してやまないものの一つだ。小さな頃からその素晴らしさを両親に説かれて、しかしそれを一度も理解できたことがなかったもの。それが彼にとっての「絵」である。

 ……だが、それ故に一色は知りたい。共感したい――そうずっと思っていたのだ。

 だから一色は水無月に敢えてそう尋ねた。他の誰でもない、自分に色を見せてくれた唯一の人であるから。


「うーんと、そうだなー。すっごく難しい質問なんだよね、それって」


……しかし返ってきた反応は、一色が予想していたものとは違った。水無月はううんと唸っていて、これには一色も驚く。一色は彼女ならば即答で返してくると思っていたものだから、この反応は意外だったのだ。拍子抜けと表現しても良いだろう。


「意外だな。お前なら即答で好きって言うと思った」

「むむ、人を考えなしみたいに思ってるよね!? ……それはさ、好きか嫌いかって大好きだし、楽しいかって言われればすごく楽しいって言うよ。だけど……楽しいだけが、私にとっての絵じゃないからさ」

 筆をキャンパスの上で滑らせるように色を塗りながら、水無月はそう言った。

「小さい頃からずっと描いていて、そういうのはあんまり考えたことないんだー。絵を描くことは当たり前で、日常だったから。だから今では私の体の一部みたいな感覚だよ。でも、改めて言われたら……うん。私はきっと、絵を描くことが大好きで楽しいから、こうやって毎日絵を描いていると思うよ」


 水無月はそっと筆を置いて、キャンパスを手に取ってそれを一色に渡す。それを受け取って見てみると、そこにはおおまかにではあるが一つの絵としてまとまった完成絵であった。


「どう? 一色くんの目から、この絵はどう映る?」

「どうって……」


 ……何とも言えない世界観であると、最初に思った。もちろん一色の目にはそれは白と黒で彩られたモノクロの絵にしか見えないが――面白いと。そう感じた。

 自分が描いた森の絵が初香や雪彦の手で面白おかしくなっていて、美月の強行で目にも入れられなくなった限りなく一色に似ているキャラは、水無月の最後の調整で幾分か自然になっている。


「……変な絵」

「うん、私もそう思う」


 水無月は自分も絵を見るために一色の隣に座り、顔を覗かせる。


「だけど私、さっきすっごく楽しかったよ。中々皆とこういうことをするってないからさ。……一色くんも少しずつ美術部に慣れてくれたら、嬉しいよ」


 屈託のない満面の笑みを浮かべて、水無月は一色にそう言った。

 ……その真っ直ぐな微笑みに一色は視線を逸らす。

 ……恥ずかしいのだ。一色にとって水無月はあまり関わり合いにならないタイプの人間だからか、苦手意識ではないのだが偶にテンションというものについていけない時がある。

 今回はただ純粋過ぎる笑みに対する照れ隠しなだけであるが。


「あー、ちひろん、こーちゃんに責略されてるー」

「なっ……なんでいるんですか、海老名先輩」

「こうしたのちひろんだからね!?」


 初香が多少無理のある一色の照れ隠しに過剰に反応するも、それを見た水無月は可笑しそうに笑うのであった。

 ふと耳を澄ますと、廊下からは相変わらず耳に障るほどの足音が木霊する。美月を追いかける雪彦の怒声が聞こえてくる中、一色は小さく溜息を吐いた。


「――この部活は、ホント変な奴ばっか」

「本当だね」

「……水無月も、だからな」

「それはひどいよ、一色くん」


 ……そんな風に日常を刻む木漏れ日の美術部。テンションの上り幅があり過ぎる部長に、異様なほどの女たらしと悪評を広められる副部長、悪乗りが激しく悪戯好きのムードメイカーな先輩に、人懐っこくパーソナルスペースが異様に広くマスコットのような同級生。


 そんな個性豊かな面子に囲まれるのは、色々な問題を抱える好意を素直に受け取れない不器用な男。今日もまた騒がしさにため息を吐きながら、木漏れ日に包まれて過ごす。

 明日はどんなことが起きるのか、決して口には出さないが楽しみにしている。心の底でそんな風に思いながら、一色千尋はときどき微笑を浮かべて今日を過ごしていった。

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