こころのいろ
マッハでゴー!
第1章 木漏れ日の美術部
第1話 虹色の始まり
この世界は色で満ち溢れている。
血のような赤色、清涼感あふれる青色、光のような黄色、自然豊かな緑色。そのような表現があるらしい。
雨上がりに浮かぶ虹は七色を彩り、それはそれは美しいと知られている。
普通の人が見える世界は色鮮やかで、さぞかし美しいのだろう。
……でも、それでも俺にとってはそんなものは取るに足らないものだった。
色なんてものは俺にとって何の美しさも感じないもの。
……感じない、のではなく感じることができないもの。
――色覚異常という病気がある。先天性のものと後天性のものがあり、俺はその先天性の色覚異常だ。色覚異常は人によって症状の差があるが、俺の症状は……全色盲。灰色の世界、と表現できるものだ。数十万人に一人の症状である、と医者は言っていた。
俺の視界は生まれてからずっと白と黒で構成されている。
どんな広大な海を見ても、生い茂る木々の営みを見ても、燃え盛る炎を見ても……俺にとっては色のない世界。だから俺にはこの世界の「美しさ」がわからなかった。
……「美しさ」ってなんだろうとずっと考えてきた。両親が芸術の仕事をしているから、小さい頃からずっとたくさんの絵を見てきた。
親は俺に対して自分たちと同じ「美しい」感性を求めているからか、本当にたくさんの絵画を見せてくれた。
……期待されて、その時、初めて俺は絶望を覚えた。俺の世界は白黒のモノクロだったのだ。
だから俺は両親の感じる色の「美しさ」がわからなかった。理解することは到底できなかった。……それでも両親は俺を邪険に扱うことはせず大切に育ててくれた。
人は共感を求める。大切な息子に、両親は芸術の素晴らしさを、美しさを共感してほしかったのだろう。だけど俺にはそれが出来ない。
……人が共感を求めるのは互いに分かり合いたいから。だから共感することを求めるのだ。
そんな優しい両親だったからこそ、俺は知りたい――心の底から共感できる「美しさ」を探し求めていた。
「こんにちはー。美術部の展示をしてるから、よければ見に来てね!」
春のある日の出来事。
……俺、
そこには美術部が作品を展示していることと、教室番号の情報が記されている。
……俺の足は自然と美術部の展示の方に向く。
理由なんて特にはない。このままブラブラして帰るのも癪だし、それに……少しだけ興味があったのだ。
――俺の通う
俺の場合はその学校の漫画専攻のクラスに在籍している。……しかし、この学校において美術部などの文化系の部活動に入る生徒は少ない。授業におけるレベルの高さからわざわざ文化系に入る生徒が極端に少ないのだ。だからどの芸術部も小規模である。
その中でも特に美術部は授業における活動と発表の場がいくらでもあるため、部員はほとんどいないと考えることが普通だ。
……それにもかかわらず、部活にまで延長して熱心になれることに俺は興味を持った。
そんな人たちの作り出す作品がどんなものなのか。……本当に興味本位だ。
……教室の扉は開かれていた。中に入ると、今、そこには誰もいなかった。
教室の至る所にイーゼルが置かれていて、そこにキャンパスが立てかけられている。どうやら熱心に活動しているのか、作品数は部員の人数に比べてかなり多い。部員の人数は四人と少なく、人数については黒板に書かれて知ることが出来た。
俺の視界からは白と黒の情報しかわからないけど、とても上手な作品が多いように感じた。きっとこの部活の部員は本当に絵が好きで、自分を高めているのだろうと思う。
……それでも色の美しさは感じない。どれだけ多彩な色を使っていても、俺にとって上手な白と黒の線と点の集合体にしか見えなかった。あとは灰色の濃淡の違いだけか。
ほんの少し、期待していただけにふとため息を吐く。仕方がないと思いながら、教室から出ようとした。
……出口の扉から退出しようと思ったときだ。扉付近に立てかけられている、布が被さっているキャンバスに気づいた。
教室の隅に、意味ありげに掛けられたキャンパス。
俺はそれに気づいてふと、歩みを止めた。……わざわざ見えないようにしているのは、作者が見られたくないからなのだろうか。
ほんの少しの興味本位だった。俺は悪いと思いながらも、布に手を掛けた。
そして……布を取っ払い、その絵を見る。
―――その瞬間、心臓を直接掴まれたような感覚に囚われた。
身体中に電流が走り、体が熱く火照る。
ドクンドクンと心臓の鼓動が億劫になるほど止まらなくなった。
自分でもどうしてこうなったのかは分からない。まるで自分の体じゃないような感覚に包まれていた。
俺はその絵をじっと見つめ続ける。息をすることを忘れて、瞬きすることすらも忘れ、音さえも聞こえなくなった。
ただそのとき、その一枚の絵を見ることだけに夢中になっていたのだ。
「――すごい」
……こんなこと、生まれて初めてだった。
何の変哲もない絵だった。相変わらず俺の視界は白と黒だし、その絵は他のものに比べて決して上手とは思えなかった。素人目からすれば十分に秀逸であると言えるだろうけど、この学校に通っている生徒のレベルを考えればそう言える。
線はあまり上手く引けていなくて、普通の人なら他の作品を評価するだろう。
だけどそんなことなど構うことなく、俺はその絵だけをずっと見つめていた。
だって、その絵を見た瞬間――俺はその絵に、色がついていると認識してしまったのだから。
恐らくは湖畔を描いた作品なのだろう。湖畔の傍には小鳥が止まり、その近くには親鳥と思われる大きな鳥が描かれている……そんな絵。どこか心を穏やかにさせるような温もりを感じる作品であると思った。
視界に色が染まっているわけではない。そもそも俺は色を知らない。……それでも。
――その絵を見て、綺麗だと思った。心の底から「美しい」のだと感じた。絶妙なバランスで色が塗られていることが、灰色の濃淡の違いではっきりとわかる。不思議とこの絵を描いているとき、作者はこの絵を楽しんで描いているのだろうと、そう思える作品だ。
自由で、自分の世界を描いている作品。親鳥の翼がその自由の証だ。羽ばたかせた翼で、湖畔を越えて海の向こうの地平線まで子を連れて飛んでいく――その姿が容易に想像できた。
……生まれて初めての経験に、俺は心臓が嫌というほどドクドクと振動する。これは何なのだと思ったとき、ふと頬に手を添えた。
――触れた途端、指先が濡れる。
それでようやく気付いた。自分が泣いていることに。心の底から感動し、心躍り興奮していることに。
……そうだ。そのとき、俺の白黒の世界に、初めて美しい色が色づいたのだ。灰色の世界に彩りの華がたった一輪だけ咲き誇る。そんな風にも思った。
……ふと俺はその作品の下部に記されている、作者と思われる生徒の名前を見つける。
そこに書かれる名前は……
「
俺はその名を呟く。その名前が、この絵を描いた人物のことが気になった。この絵をどうやって描いたのだろうと。色の見えない俺が、この絵の色を「美しい」と感じたのだ。
生まれて初めての高揚に、心が、身体が震える。
……知りたい。この作者のことが。俺に色を見せてくれたこの作者のことがどうしても知りたかった。
一体この作品を描いた人がどんな世界観を持っていて、どんな想いでこの作品を描いたのだろう。それを知るために俺に出来ることは、多分たった一つだけだ。
俺は美術室の出口付近の机の上に置かれている一枚の紙を取る。その紙は手書きのイラストなどが描かれていて、そのタイトルは「入部届」と書いてあった。
その紙を持って立ち止まる。すると、
「もしかして、入部希望ですか?」
……俺は不意にも声を掛けられた。振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。俺と同じ学年の模様の描かれたリボンをつけているから恐らくは一年生。背は小さく、目はくりくりと大きくて、自分が関わらないタイプの女子だ。目を大きく見開き、目元には涙で濡れたような薄い膜が張っていて、瞳の美しさを顕著に表している。
その女子は嬉しいということが十全に伝わる満面の笑みを浮かべて、俺のことを見つめてくる。こっちをじろじろと見つめてくるものだから、居心地が悪く感じてしまう。俺がこういうことに慣れていない証拠だ。
「ちょっとだけ、興味があるだけだ」
美術部ではなく、水無月という少女に。だから俺は躊躇する。たった一瞬の激情に駆られただけでいきなり別のコミュニティーに入ってしまっても良いものかと。そんな人見知りを発動してしまう。ぶっきらぼうにそう返答してしまった。
「じゃあ、俺はこれで」
俺は女子生徒に背中を向けて美術室を後にしようとする。そんなときだった。
「――あなたの
――彼女はそうやって、俺に問い掛けた。
その突然の問いかけに俺は振り向いて彼女の顔を見つめる。まるで俺の心を見透かしたように問いかけられたその言葉に、先ほど感じた高揚を思い出してしまったのだ。
……今になって思えば、きっとこの時から俺の全ては変わっていった。
何も変わらず、つまらない日常。何も感じず、でも何かを求めていた心。新しい世界が知りたくて、でも何も出来ない現実。何色も見えなくて、心までが灰色に染まってしまっていた。
そんな退屈な日常に終止符が打たれた――そうだ。この日から始まった。
色を求め、美しさを求め、他人との共感を求める俺たちの――心と色を求める日々は、ここから始まったんだ。
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