第2話 空言

 風向きによっては、娘の声は麓の村にも届くようだった。微かに聞こえる歌が、そこらの鳥の囀りとは違うのは村人にも分かるらしい。軒先で豆の鞘を剥く女が、ふと手を止めて顔を上げて呟いた。


「空鳴き姫は今日もよくいらっしゃるねえ」

「母さん、って?」


 尋ねたのは、母を手伝う幼い娘だった。彼は、今度は小さな白鼠に姿を変えている。白い毛皮に赤い目でも目立たないのは重畳だ。零れた豆を狙って母子の足元をうろつく振りで、彼も女の答えに耳を澄ませる。

 盗み聞きしている者がいるなど気付かないのだろう、人の女たちはせっせと手を動かしては軽やかに言葉を交わす。


「鳥の鳴き真似のことさ」

「ああ、普通の歌じゃないもんねえ!」

「綺麗なお声なのにね。もったいないことさ」


 豆の鞘の殻が降ってくるのを避けながら、彼はあの娘の声を小鳥のようだと思ったのが彼だけではないと知って少し安心した。そうだ、人も歌うことはあるけれど、だいたい調べに言葉を乗せるものだろうに。囀りのような歌だけ聞けば、人間だって不審に思うのだ。さほどものを知らないであろう、幼女も首を傾げている。


「都の流行りがそういうのとか?」

「さあ、そんな流行りがあるものなのか……詞を覚えるおつむがないだけじゃないかねえ」


 鼠の長い尾は、毛皮に纏わりつく屑を掃うのに便利だった。髭を前脚で捻りつつ、彼は人間たちが交わす単語を頭に留める。あの娘──空鳴き姫は都から来たのか。そして、あの奇妙な言動は村の者たちにも伝わっているのかもしれない。


「まともじゃなくても、綺麗な御方で尊い御方だ。余所でそんなことを言っちゃいけないよ」


 と、母親は何気なく呟いた後で、慌てた様子で娘に言い聞かせている。空鳴き姫とやらは、その名に違わず高貴な生まれでもあるらしい。

 もう良いだろう、と判断して彼は鼠の小さな四肢で草むらへと駆けた。近くで寝ていた黒猫が、微かな足音を聞きつけて身を起こす──が、彼と目が合うなり不機嫌そうに唸ってまた伏せの姿勢に戻る。彼は獲物にならないのにすぐに気付いたのだろう。あの空鳴き姫もそうだったが、ひと目で彼が見た目通りの者でないと気付かないのは、人間くらいのものなのだ。




 白い蝶になった彼を、その猟師はうるさそうに手で払った。同じ村の別の場所では、男たちが猟の道具の手入れをしている。空鳴き姫の歌声は、ここにも風に乗って微かに聞こえてきていた。


「空鳴き姫なんてとんでもない、あれはとんだ『空言そらごと姫』だな」


 どこで聞いても変わらぬ美しい声に、けれど若い猟師は顔を顰めた。空言──嘘の姫とはどういうことか。蝶の脆く弱いはねで風に抗って宙を舞いながら、彼はまた耳を澄ませる。


「へえ、姫様にお目にかかったのかい」

「羨ましいなあ」

「いや、それが──」


 あの娘が姫だというのが本当なら、猟師風情には高嶺の花だ。興味津々の体で身を乗り出した仲間たちに、けれど若者はやはり眉を寄せたままで宙を睨む。その視線の先は緑深い山の奥、空鳴き姫の歌声が響く、その源だろうか。あの娘の容姿は、人間の目には好ましく映りそうなものだったのだが。


「この前の狩りで、狐を見失っちまってさあ──」


 息を弾ませて森の中を駆けていた若者の耳には、空鳴き姫の歌声も届かなかった。だから、彼は気付かぬうちに例の空き地に行き当たり、姫の姿に目を瞠ったのだという。やはり、あの娘は人の世では美しいのだ。

 姫の美貌と、それに華やかな装いも、しがない猟師を怯ませて畏まらせた。それでも、彼も暮らしが懸かっていた。だから、高貴な身分を憚って跪き、恐る恐る狐を見なかったか、と尋ねると──



 意外にも気安い言葉に安堵して、若者は姫が指さす方に再び駆けた。無事に獲物を仕留められそうだという希望は、けれど兵の鋭い誰何の声によって打ち砕かれた。空鳴き姫、、あるいは空言姫が示した方角には、彼女の住まいらしい館があったのだ。貴人の住まいに相応しく、館は警護の兵に厳しく見張られていて、若い猟師は手ひどく叱責されたということだった。


「悪戯で、軽い気持ちで言ったのかもしれないが迷惑な話だよ」


 若者の話が終わるころには、彼は手近な花に留まって翅を揺らめかせていた。話に出てくる館は、そういえば覚えがある。二百年ほども前だったか、彼を退治しようというもの好きが建てさせた山中の拠点で、館というか城塞めいた堅固さの建物のはずだった。別に何の害もないから放っておいたし忘れていたが、いつの間にか人が入っていたようだ。


 年かさの猟師たちは、後輩の愚痴めいた言葉を笑い飛ばした。


「狩場の森のことだろう。何も知らないお姫様に聞こうって方が図々しい」

「そうそう、分からないというのも悪いと思ってくださったんだろう」

「そうかなあ」


 腑に落ちないとでも言いたげに、不服げに唇を尖らせる若者の背を、年かさの男が勢いよく叩いた。厚い掌が立てる音と、若者が噎せる音──それらに紛れさせるように、顰めた声がそっと囁かれる。


「それに……大きな声じゃ言えないが、少し方なんじゃないのか。だからこんな山奥に──」


 意味もなく辺りを見渡した彼らの、後ろめたさだか何だかの感情は、先ほどの女と同じものだった。不穏に落ちた静寂を恐れるかのように、誰かが笑う。


「ま、空鳴き姫だろうと空言姫だろうと、近寄らないのが良いってことだな」


 一同が口々に同意するのを聞きながら、彼はふわりと宙に飛び立った。同時に、また白い鴉に姿を転じる。これだけ聞けばもう十分、あとは件の館で確かめるのが良いだろう。

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