第2話 糸を伝う気持ち
休み時間や放課後に押し寄せる人の波も、ようやく落ち着き始めた。
最初はガチガチに緊張していた私も、最近になってようやく自分から話が出来るようになった。
「鈴木君、先生が課題のプリントを提出しろってさっき言ってたよ」
「あぁ、ありがとう。実は僕、理科が苦手で……」
「えっ、本当に?」
「うん。上野さんは勉強得意だもんね、凄いよ」
「そんな事ないよ。私は転校が多いから、いつも必死なんだ」
彼は私の話を聞きながら、課題のプリントを必死に埋めている。すると、はっと何かに気づいた様な顔をして、こちらへ振り向いた。
「そうだ、今度うちで勉強を教えてよ。ほら、家も近所だって分かったしさ」
そう言って彼は無邪気に微笑んだ。
「それじゃあ、暇な時に教えてあげる」
私はちょっと偉そうに、いたずらっぽくそう答えた。
あの日の事を彼は覚えていてくれた。桜が散る前に、並木道を散歩していたらしい。
私は両親に連れられて、引越し先の下見をしていただけなので、彼を見かけたのは本当に偶然だった。
その時の話をしているうちに、お互いの家が近くにあると分かった。
きっかけさえあれば、会話はどんどんと弾んでいく。
彼の言葉は心地よく私の中へと溶け込んでいき、満たされた私の心は益々彼に惹かれていった。
それから私は、定期的に彼の家へと勉強を教えに来ている。
彼は庭のある一軒家に、両親と三人で暮らしていた。
普段は食事をする所だと言っていたが、縁側から吹き込む風が心地良いので、和室のちゃぶ台を使って勉強をしている。
「……というわけで、波っていうのは、何かの振動がまわりに伝わっていく現象の事を言うの」
梅雨に入りジメジメとした日が続く中、近づくテストの足音に怯えた彼は、苦手な理科を克服すべく頑張っている。
「実際に目に見えないものを理解するのって大変だよね。僕はイメージがうまく出来なくてさ」
「でも水面に伝わる波はイメージしやすいでしょ? それに、音だって空気の振動が伝わっているから聞こえるんだよ」
「それは分かるけどさ……」
彼の家を初めて訪れた時は、それはもうお互い緊張したものだが、今ではとても自然に会話が成り立つようになった。
「鈴木君はそう言うと思ったから、今日はこれを用意してきたの」
私はバッグから秘密兵器を取り出して、ちゃぶ台に置いた。
「これは――糸電話?」
「うん。紙コップには、桜の花びらを書いておいたよ。私の手作りなんだから、大事にしてよね」
そう言って私が笑いかけると、彼は短い髪を触りながら、爽やかな笑顔を返してくれた。
「それじゃあ、さっそく使ってみよう」
彼はそう言うと、糸で結ばれた紙コップを片方持ったまま、縁側から庭へと出て行った。
風鈴の音が涼しげに響く中で、私は何だか急にドキドキしてきた。
この紙コップを耳に当てると、彼の声が届くのだ。
「いくよっ」
彼の声に頷き返した私は、ちゃぶ台の木目を目でなぞりつつ、左手で胸を押さえながら、そっと紙コップを右耳へと添えた。
――もしもし、聞こえますか。
その瞬間、私の心臓は確かに一瞬で鷲掴みされた。胸を押さえている左手に、ぎゅっと力が入る。
普段とは違って、耳元で囁かれるような感触は、こそばゆくて面映ゆい。
――聞こえたら、返事をして下さい。
体中の血液が顔の周りに集まって、ブクブクと沸騰しているみたいだ。
彼の方をちらりと見ると、既に耳へと紙コップを添えている。
私は高鳴る気持ちを何とか抑えながら、少し震える息を整えて、紙コップを口に当てると、彼に言葉を投げかけた。
――とても良く聞こえます。
彼は下を向いて庭を見つめたまま、全く動かない。
なので私は、もう少し言葉を続けた。
――何か、ちょっとドキドキするね。
溢れた想いが口から零れ落ち、糸を伝って彼に届いたはずだ。
彼もまた、私と同じ様な気持ちになってくれただろうか。
この気持ちは、しっかりと届いているだろうか。
彼の反応が無いので私は少し不安になって、誤魔化す様にして語りかけた。
――少し休憩して、散歩に出かけませんか。
何とかそれだけ言い終えると、私は紙コップを耳に当て直した。
ふぅ、と大きく息を吐き出し、左手をあおぐ様に動かしながら、火照った顔に風を送る。
彼はその場にしゃがみ続けていたが、やがてはっと気づいた様に、口へ紙コップを当てた。
――そ、そうしましょう。
こちらへ戻って来る彼の表情を見た時に、私はしっかりと気持ちが伝わっている事を確信した。
二人でちゃぶ台を見つめながら、畳に正座をしている。
湿った生温い風が、乾いた風鈴の音を運んでいた。
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