夢幻泡影

秋山太郎

第1話 夢の始まり


 沈みゆく夕日を背景に、満開の桜が咲き誇っている。

 はらはらと上品に散る花弁は茜色に縁取られており、舞い落ちる度に、やがて私の心へと幸せを積み重ねていくだろう。

 そんな桜並木の道を歩きながら、私は一人の男の子と目が合った。

 吹き抜ける風はまだ少し冷たくて、撫でられた肌がじんわりと熱を帯びているのを感じる。

 去りゆく男の子の後姿は、やはり茜色に縁取られており、私の焦燥感を否応なしに駆り立てた。

 それでもこの美しい風景に手を加える勇気が持てなくて、私はその後姿をただひたすら眺め続けていた。






「転校生の紹介をするぞ」


 そう言いながら先生が教室の中へ入っていくと、クラス中が一斉に盛り上がった。興奮の波は廊下に佇む私にまで届き、肌をピリピリと刺激する。


「それじゃあ、入ってきて」


 私はドキドキしながら教室の中へと歩み入り、気持ちを落ち着けるように後ろを向いて、そっと扉を閉める。

 そして先生の横まで歩いていくと、ゆっくりと正面を向いて、教室の中を見回した。

 幾重にも重なった視線が私を貫き、様々な想いが伝わってくる。何度経験しても慣れない瞬間だ。

 私は思わず下を向き、目を瞑ってしまった。

 先生が黒板に私の名前を書いているのだろう。チョークが奏でる小気味の良い音は、私の昂ぶった気持ちをいくらか抑えてくれた。


「自己紹介、出来るかな」


 私が顔を上げてそちらへ視線を向けると、先生は手に付いたチョークを払いながら、笑顔で頷いている。私も頷き返して、正面を向いた。

 

「上野さくらです。今月、こちらに引っ越して来ました。まだ分からない事ばかりですが、よろしくお願いします」


 そう言って頭を深く下げた後、つっかえずに自己紹介の出来た自分を褒めながら、私は頭を上げた。


 そして教室中を改めて見回した時に、心臓が大きく跳ね上がった。

 こちらに向いている視線の一つが、私の心を奪っていく。

 彼は私の事を覚えているだろうか。


「……くら、おーい、さくら」

「あ、は、はい」


 上の空だった私の意識は、先生の声で呼び戻された。


「五月の連休が終わったばかりだからな。ぼーっとしてしまうのも分かる。先生も同じ気持ちだ」


 クラス中が暖かい笑いに包まれている。

 私は顔が真っ赤に茹で上がるような気持ちだった。


「それじゃあ席は――ああ、寛太の隣が空いてるな」


 そう言って先生は、窓際の一番後ろを指差した。

 私はゆっくりとそちらへ歩いていく。

 もはや鼓動は抑え切れないほど激しく高鳴っていた。


「鈴木寛太です。よろしくね、上野さん」


 彼は優しい笑顔を向けてくれた。

 あの日見た男の子で間違いない。


「よ、よろしくね」


 私は挨拶と一緒に、口から心臓が零れ落ちてしまうかと思った。



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