最終話 博士の過去

 ヴォーン博士が研究所で飼育されているコンドルから採取した遺伝子を使い、アナコンダの幼蛇に組み込んでアナコンダとコンドルの合成生物キメラを生み出したは、今から十年以上前のことである。


 ハンナという名前は、妻のものでも娘のものでもない。そもそもヴォーン博士は、その人生においてついぞ伴侶というものを持たなかったのであるから、それはありえない。

 恋人の名前というのも違う。確かに彼は二十の頃、ハンナという名前の女性に一目惚れをした。しかしその慕情は、程なくして嫌悪へと変わった。

 ヴォーンからの求愛を袖にしたハンナは、こともあろうにそのことを周囲に言いふらして笑い者にした。周囲からの嘲笑によってすっかり参ってしまった彼は、一時休学せざるを得なくなった。それほどまでに、この事件は彼の精神に暗い影を落としたのである。

 そのことが、彼を変えた。研究者の道に進んだ後も、その恨みは胸に抱かれ続けた。

 ヴォーンは昔から爬虫類、特にアナコンダやニシキヘビのような太く逞しい大型のヘビが好きであった。対してハンナの方は猛禽類を好んでいたようで、コンドルの絵が描かれた金属ストラップをいつも鞄からぶさらげていた。

 彼がアナコンダとコンドルの合成生物を生み出したのは、単純な興味関心によるものであった。何か実利に基づく動機があったというわけではない。だがそれに「ハンナ」という名前をつけたのは、ハンナという憎むべき者に対する当てつけのような部分があった。

 

 普通のヘビは人に懐かないが、ハンナは違った。コンドルの遺伝子を持つ彼女には、甲斐甲斐しく自分を育ててくれる者への恩を感じるだけの知性が備わっている。

 そんなハンナと接している内に、憎むべき人物の名前をつけたこの生物を深く愛するようになった。博士の中の「ハンナ」という名詞が、かつて自分を嘲った女の名から、だんだんと愛おしい合成生物のものへと塗り替えられていく。

 数年もしない内に、もう合成生物ハンナは彼の人生になくてはならない存在となった。博士にとって、人間など愛するに値しない。合成生物ハンナは彼にとって恋人でも妻でも子でもないが、それらを超えるほどに愛おしい相手であった。


***


 燃え盛る炎に、巨獣の体が包まれている。体にへばりついていた白い粘性の物体は、とうに燃え尽きてなくなってしまった。

 炎をまとったまま、ハンナは少しずつ、博士の亡骸のところへ這っていった。翼は焼け落ち、鱗は焦がされ、顔は焼けただれている。見るも無残な姿になりながら、彼女は育ての親たる博士に抱擁するように、その体をのしかからせた。


 博士に覆いかぶさったまま、彼女は動かなくなった。ばちばちと爆ぜるような音をさせながら、炎は博士にも燃え移り、一人と一匹を焼き焦がしたのであった。

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