2 街道


 結論から言うとレイルは、リチャードよりも冷静にこの事態を受け入れていた。

「とにかく、ここにいても始まらないから、あの街みたいなとこに行ってみよう。誰か人がいるだろうし」

 そう言った彼女の表情は、困惑すらしているものの暗いものではない。彼女の動きに合わせて猫耳もぴこぴこと動く。

 あれから手早く自分達の状態を確認したが、身体が獣人のようになっている以外、ケガ等はしていない。

 服も、手や足は露出してしまっているが、爪が生えたために発達したからだろうか、靴がなくても歩きにくいということはなかったし、肉球でもあるかのように足音ひとつ立てずに歩くことが出来た。これではまるで、こちらの方が自然なようだ。

「こんな身体になってるのは凄く疑問だけど、出来れば明るいうちに動きたいから、急ごう?」

「そうだな」

 レイルが焦れたように言ったので、リチャードも了承する。空を見上げ、いつもと違う日の光に目を細めた。

 優しいと言えば聞こえは良いが、今のリチャードからすれば頼りない光に思えた。

 昼夜の概念があるとすれば、おそらくまだ昼間だ。すぐに暗くなるようには見えないが、知らない場所で夜を過ごすのは非常に危険なことである。

 街中が完全に安全とはとても思えないが、今はあの人工物の香りに居心地の良さを見出だしていたかった。




 街道――らしき石造りの道――に沿って歩き始めた二人だが、どうやら街との距離感を計り間違えたことに気付いた。おそらく今夜中には辿り着けそうにない。

「多分、夜には着かないな」

「……ご飯は確か、何日かは食べなくて大丈夫だったよね?」

「問題は水だな……」

 先週たまたまテレビでやっていた、サバイバルの番組を思い出しながら話すリチャードだったが、レイルは「水なら……」と、デニムのホットパンツ――犠牲になったソックスの上に穿いていた――のポケットから小さなゼリー飲料の袋を取り出した。

「鞄とかはなかったけど、ポケットの中にあったこれだけは持って来てたみたい」

 大きめのポケットとはいえホットパンツに突っ込まれていたので、ぐしゃっと潰れてはいたが、中身は未開封のため無事そうだった。

「これ二人で分けたら、街に着くまではなんとかなりそうじゃない?」

 節約しながらならなんとかなりそうだな、とリチャードも頷く。

 すると彼女は嬉しそうに笑った。笑顔の彼女の胸元で、雫の形のペンダントが揺れる。

 リチャードが付き合った記念にプレゼントしたそのペンダントを、彼女は毎日つけてくれていた。自分も同じものをお揃いで首から下げている。照れくさいので服の下に隠してはいるが。

「……ちょっと安心しちゃったからかな……」

 隣で、やけに控えめな口調でレイルが呟いた。

「どうした?」

「あー、えーっと、トイレに行きたい……かな」

 しまったと思った時にはもう遅く、彼女は顔を赤らめながら白状してくれた。

「悪いっ、察せれなくて……そう言われると、俺も行きたいから……」

 そう言いながら辺りを見渡すが、周りは一面の草原。遠く彼方には森が見えるが、この辺りに視界を遮ってくれそうなものは何もない。

「俺は絶対そっちを見ないから、草むらの中でするしかない、な」

 仕方なく茂みになっている部分を指差し、身体ごと反対側を向いた。背後で聞こえる布の擦れる音がやけに大きく聞こえる気がしたが、それには気が付かないふりをした。

「尻尾はないんだ……ふーん」

 レイルの独り言にしては大きな感想も、一緒に流すことにする。






 結局二人は、夜までに街に到着することは出来なかった。夜営の道具等何もない二人は、仕方なく休憩しながら夜を明かすことにした。

 夜空には月のような輝きがあるが、何故か青い色味を帯びており、星の姿は確認出来ない。いよいよ異世界の空気が濃厚になりつつある。

「街道沿いなのに、全然人が通らないね」

 レイルが呟いたので、視線を彼女に落とす。

 二人は今は、街道の端に座り込んでいた。座ってはいても、普段の二人の身長差は三十センチ以上あるので開きが凄まじい。小柄なレイルと比べたら仕方のないことだが、これでも部活には自分より背の高い人間はゴロゴロいた。

 周りは見渡しの良い草原が広がっているが、人はおろか野生の生物の姿も見えない。どうやら猫科と同じく夜目がきくようになっているらしい。夜行性の野生動物と遭遇することを危惧していたが、今のところ問題はなさそうだ。

 ふかふかと柔らかい草の感触を足の先で確認しているレイルが、小さく欠伸を洩らした。口元に片手を添えて、細まる目元が少しだけ潤む。

 本当に愛しく、可愛らしい“女の子の仕草”に、リチャードは一瞬自分の置かれた現実が吹き飛びそうになった。

「……寝て起きたら、元通りだったら良いのに……」

 続けて呟かれた言葉に衝き動かされるように、リチャードは彼女を抱き締めていた。

 抱き締めて改めて気付く、小さな肩。並んで歩いていた時から――いや、付き合う前から彼女の、この小さな身体が愛しかった。強く抱いたら壊れてしまいそうな程か細く、守らなければいけない存在だと自覚する。

 学校で彼女にまつわる噂は沢山聞いたが、悪い仲間と付き合うような女には思えなかった。とにかく目立ち、モテる彼女。悪い噂なんて嫉妬か何かだと、そう、思うことにしていた。

 彼女は腕の中で、抵抗するようなことはしなかった。頭を動かす気配を感じ、リチャードが少し身体を離してレイルを見ると、彼女もまたこちらを見上げてくる。

 彼女の瞳が不安げに揺れているように見えた時には、口付けを仕掛けていた。彼女もそれを受け入れる。何も考えたくなくて、考えられなかった。

 腕の中にあるこの存在だけが、唯一の真実に感じる。そして――口の中に牙の違和感を認め、改めて身体の変化を実感する。

 一瞬だが、永遠のような錯覚を覚えた。唇をそっと離し、もう一度抱き締めると、彼女の身体は少し震えていた。青い夜空の輝きからは、もう寒々しさは感じない。

「……夢なら良かったけど、俺はレイルとこうしていられるのは幸せだ。だから夢じゃなくても良い」

 抱き締め返す彼女の手に少し力が入った。思えば彼女とはまだ付き合って日が浅い。一緒に帰ったこともなければ、デートらしいデートもしたことがない。

 悔しい、寂しいとは、伝えてすらいなかった。付き合えた事実に浮かれていたし、何より彼女が離れてしまうのが怖かった。

「……私も、リチャードがいてくれて幸せ。ありがとう」

 腕の中でそう聞こえ、自然と笑みが溢れてしまった。頭をぽんぽんと撫でてやると、耳がぺたんと折れる。痛くはなさそうだ。

 本当に、守るべき可愛い恋人。彼女の肯定が、自分の勇気になる気がした。

「俺が見張ってるから、少し寝たらどうだ?」

 リチャードの提案に、レイルは少し考えながらこちらを見上げてきた。

「んー……大丈夫。可愛いリチャードの顔、しっかり見たら元気出た」

 そう言ってにっこり笑う彼女に、もう一度口付けを落とす。自然と顔が綻ぶのを我慢するのは無理だった。

 夢みたいなことが起こって、夢見ていたことをしている。

 リチャードは不安と幸せがごちゃ混ぜになった心を、レイルごと抱き締めた。流れるように揺れる髪に指を通しながら、指先に走る爪の感触だけが、やけにリアルに感じられた。

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