水の神に願うこと
けい
1 見知らぬ丘
妙に暖かい空気に、青年――リチャードは違和感を感じて飛び起きた。
秋も中頃、そろそろ長袖でも肌寒く感じる季節のはずが、視界に入った腕は袖に包まれておらず……
「っ!? 腕!?」
お気に入りの白シャツは、肘の少し上で引き千切れたようになっていた。合わせていたグレーのベストは無事だったようだが、どちらも同じくらい財布に打撃を与えていた代物だ。
「……俺の、腕?」
千切れた袖の行方を探そうとして、唐突にあり得ない事実に気が付いた。
丈の短くなったシャツから伸びる腕。最初は自分の座っている地面――どうやら芝生の上で転がっていたらしい――と見間違えたと思っていたが違った。自分の腕が薄い緑の毛に被われている。
「な、なんだ!?」
慌てて左の腕の毛を右手で払おうとして、更にリチャードは驚愕する。
手がまるで獣のもののようになっていた。薄い毛が生えた手は、形こそは以前からの自分の手そのものだったが、その指先には女子のネイルなどとは段違いの、肉食動物のような鋭い爪が並んでいる。
思考が止まり、心臓が早まるような感覚を覚えて、リチャードは思わず目を瞑った。
昔見たアニメの猫人間のキャラクターが脳裏を掠め、更に最近まで自分が演じていた劇の猫の衣装も浮かんだ。文化祭の出し物で、自分は主役を演じた劇だった。
暗闇に、優しい風が吹き抜ける。足元がやけにすーすーと涼しい。
「……猫? っ!?」
回転を始めているようでいて、しかしまだ混乱する頭に浮かんだ言葉を吐き出しながら、リチャードは妙に涼しい原因を求めて視線を足元に向ける。
寝転んだ状態から起き上がっただけの姿勢で、シャツと同じ運命を遂げたジーンズと靴を確認。見事に踝の少し上の辺りから下がなくなっている。
足元に千切れた繊維は発見出来たが、これではどうやっても修復不可能。何より包むべきはずの足もまた、手と同じように獣のようになっていた。この爪ではバスケットボールで痛みの激しかった靴は、絶対に耐えられなかっただろう。
「……」
不可思議なことがおこっている。それはもう確実だった。
リチャードはようやく周りを見渡してみることにした。先程から視界に入る自分の身体だけでも対処に困るのに、正直見渡したくはない。
だが、少し冷静になりつつある頭が、生物の本能が警戒心を働かせた。
ここは小高い丘のようだった。目の前には丘陵地帯が続き、その先に街のようなグレーの塊が見える。その少し右手に街道のようなものがあった。そこを通れば一本道でグレーの塊には向かえそうだが、かなり距離があるように見える。
空を見上げると薄い紫の雲が広がっている。だが雨――この雲の色合いは見たことがないので、雨と言えるものかはわからないが――が降るようには見えない。
外国の空気は味が違うと言うが、先程から感じる違和感の正体は、どうやらこの空気感のようだった。なんとも言い難いが、少し甘いような独特な空気。
「……異世界?」
リチャードは思わず呟いた。だがすぐにその言葉を、頭を振って文字通り振り払った。
ファンタジーのゲームは友達がよくやっているが、現実には……
そう思いながら自分の身体を見る。獣のような毛に被われた四肢に、突き出る爪。裸足のはずなのに妙に馴染む両足。
その時、背後から気配が近付いて来た。
慌てて振り返ると、小さな頭に視線が一瞬合わなかった。思わず一歩後ずさる。驚く程お互いに足音がしない。
「……リチャード?」
驚いたような顔をしているレイル――と判断出来た自分を褒めたい。
彼女もまたリチャードと同じく、獣――この場合は獣人や亜人というのが正しいのだろうか?――の姿になっていた。ただし彼女の場合は、四肢を包む毛が燃えるような赤色だった。
衣服で隠れていない部分である肩辺りから下は、見慣れた肌の色合いをしているが、やはり過度なダメージにより露出した手足は獣のそれ。しかも元からの派手な赤毛からはなんの違和感もなく、人間のものではなくなった猫耳が天に向かって突きだしている。
「レイル……ワイルドになったな?」
知っている人間――それが愛しい彼女なら尚更だ――の顔が見れて、リチャードは安心から笑みが溢れた。
獣のような毛に手足が包まれてはいるが、彼女が本来から持つ美しさはそのままだ。顔や首もとといった皮膚の薄いところは元からの肌のままらしく、色白な色合いがウェーブがかったセミロングの髪に映える。
彼女は本当に、どんな時でも“美人”だ。同じクラスメートの時も、劇での相手役――ヒロイン役をやらせても。
そこに“人間”らしさを感じれば尚更。もしかしたら、異世界なんかではないかもしれない。と、期待させてくれる。
「リチャードこそ。髪の毛、いつの間に染めたの? 猫耳も、劇の時から思ってたけど似合ってる」
レイルも笑って返してくれたが、彼女の言葉にリチャードは驚いた。
だが自分の姿を確認する手段がない。今気付いたが二人共、荷物の類いは持っていなかったからだ。
おそらくレイルの姿を考えると、今の自分の髪の毛は緑になっているのだろう。短髪のため自分では全くわからないが。バスケの邪魔にならないように、短く切り揃えているからだ。
「俺の格好、おかしい?確かに服は酷いことになってるが、頭とかは確認出来なくて」
「イケメンは何したってカッコいいから大丈夫」
少し不安の残る返しだったが、リチャードは諦めることにした。
首周りのざっくり開いたデザインの白のサマーニットと、シンプルな黒のソックスが犠牲になってはいるが、それがまるで元からの個性のように着こなしている彼女と比べたら、誰も太刀打ちは出来ないだろう。
「ねぇ、リチャード?」
彼女は少し考えるようにしながら、次の言葉を選んでいる。
「なんだい?」
そこに同じ答えを見つけたくなくて、それ故に優しく答えていた。
「私達、どこに来たんだろうね?」
その『どこ』が自分の知る国や星ではないことは、どこかで諦めていた自分がいた。
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