宝石の春、歌う鯨

水瀬

僕らの頭上に流星は降らない

 カラコロ通りを抜けて駄菓子屋の右へ。

 日に焼けて読めなくなった英会話教室のポスターを尻目に少し歩けば、焼鳥屋の排気口から吐き出された香ばしい醤油の匂いが鼻先をくすぐる。

 三台しか入らないコインパーキングの隣、ひしゃげた看板を掲げた居酒屋の裏には、何年も前から所構わずステッカーが貼られ続けてド派手になってしまった異様な扉があって、そいつを開いて地下へ続く階段を降りると、ヤニ臭い入り口に辿り着く。

 通い慣れたスタジオの、見慣れたロビーだ。

「やあ、倫太郎くん。今日は早いねえ」

 入ってすぐ目に入るカウンターの向こうから目ざとく声をかけてきた店長に軽く会釈すると、用件を聞くまでもないとばかりに彼は続ける。

「あくりちゃん、今日は荒れてるよお。なんかあったの?」

「やー、いつものことでしょ」

 違いないと苦笑する店長に手を振って、最奥のスタジオへ向かう。細い通路を進んだ先にある真っ赤なドアの部屋。あくりちゃんはいつも決まってその部屋を借りるのだ。

 何の躊躇もなく重い防音扉を開くと、室内は思ったよりも静かだった。

「あくりちゃん元気?」

 まず目についたのは床に放り出された擦り傷だらけのテレキャスター。そのボディから伸びるシールドはのたうちながら部屋中を這い回り、エフェクターボードにたどり着く前に同じく床に捨て置かれたジャガーに踏み潰されている。中央で倒れたマイクスタンドを挟んで弦の切れた薄っペらなサイレントギターが横たわり、一番奥に置かれたドラムセットの足元。

 雛目あくりは、堂々たる大の字で地べたに転がっていた。

「……音楽、ぜんぜんわかんないな」

 数年前、ごくごく狭い業界の片隅をほんの少しだけ騒がせた天才美少女ギタリストの、なれの果てだった。



 かつて、ビビッド・ドット・バースデイという名前のロックバンドがあった。

 地元のライブハウスを中心に活動を重ね、一時はインディーズレーベルからデビューするという噂すら流れた、知る人ぞ知る、知らない人は全く知らない、そういうどこにでもあるアマチュアバンドのひとつだ。

 彼らのことを知る人々は、その長ったらしいバンド名を略して単にビビッドと呼んでいた。それは所属しているメンバーにも共通していて、だからはビビッドと自称することが多かった。

 その全ては過去形だ。

 結局のところ、僕たちは天才でもなければプロになれる器でもなかった。

 あの頃、僕たちビビッドをまがりなりにも『知る人ぞ知る注目株』たらしめた理由はたった一つ、雛目あくりというフロントマンの存在で、僕たちビビッドのメンバーは天才でも何でもなかったけれど、あくりちゃんだけは違っていたと、僕は今でもそう思う。

 彼女はまさしく伝説的な存在だった。天才的な音楽性と技巧、そしてルックスを兼ね備えたカリスマ。間違いなくプロの第一線でも活躍できると期待され、そうした声の全てを無視して片田舎のアマチュアバンドの顔であり続けた十七歳。

 まるでガラス玉の山の中にたった一つ紛れ込んだダイヤモンドを見ているような違和感に溺れながら、ガラス玉であるところの僕は、それでも彼女と同じ舞台に立てることを何よりも楽しんでいた。

 彼女の音楽に触れる時、僕が見る空はいつだってきらめくダイヤモンドの色だったのだ。


 繰り返そう、その全ては過去形だ。

 ビビッドは流星のように現れ、流星のように消えていった。

 かつて天才美少女ギタリストと呼ばれたあくりちゃんは毎日のように行きつけのスタジオで暴れまわっては居酒屋で飲んだくれる職業フリーターになり、その隣に立っていた影の薄いベーシスト、僕こと瀬名倫太郎は親のスネをかじりながら留年を繰り返す最低な大学生になった。

 僕たちは夢を叶えることができなかった。

 あの頃の自分に夢と呼べるような具体的な将来像があったわけではないけれど、一度は見えたデビューへの道筋が不意打ちのように奪われてしまったあの日、僕たちは半ば自動的に敗者の側にカテゴライズされ、その結果をもってビビッドというロックバンドは死を迎えた。

 その日は嫌になるほどの快晴で、僕たちが見上げた空はどこまでもどす黒い色をしていた。



 あくりちゃんを叩き起こしてスタジオを片付け、ギターケースを担いで外に出た。

 ちょうど鳴り響いた町内放送のチャイムが十七時を告げ、吐いた息が白い靄になって風に流されていく。

 そういうことに何故か少しだけ寂しさを覚える。いつの間にかそんな季節になってしまった。

「お倫、昼飯食った?」

「今何時だと思ってんの」

 のそのそとした足取りで追ってきたあくりちゃんは日が落ちて薄暗くなった空を見上げ、

「じゃあ飲み行こう」

 と、即決したのだった。


 僕たちが酒を酌み交わすのはスタジオの裏にある安居酒屋と相場が決まっていて、あまりに通い詰めるものだから、随分前からテーブルにつくだけで自動的にレモンサワーが二つ運ばれてくるようになった。

 ひっくり返したビールケースに座布団を敷いただけの簡素な椅子は最悪の座り心地だったけれど、スタジオから近くて安くて流行っていないこの店を、僕とあくりちゃんはそれなりに気に入っている。

「お倫はさあ」

 あくりちゃんは、いつも彼女以外誰も使わないニックネームで僕を呼ぶ。

「まだあの営業っぽいの、続けてるの?」

「うん、まあ。時間だけは売るほどあるしさ」

「じゃあ売っちまえよもう」

 レモンサワーの氷を揺らしながら、あくりちゃんはケラケラと笑う。

 営業っぽいの、とは言葉通りの営業活動だった。

 ビビッドが解散してから四年と少し、あくりちゃん以外のメンバーはとっくに音楽活動から遠のいてしまったけれど、形はどうあれあくりちゃんだけは未だそれを続けていて、燻っているように見えてもその才能は一片足りとも失われていない。

 少なくとも僕はそう信じていて、だから時折デモ音源を作ってオーディションに応募したり、知り合いのツテを辿ってイベントに出られないか相談したりしている。

 雛目あくりという天才を、僕はどうしても諦めることができないのだ。

「俺はあくりちゃんを売りたいんだよ」

 僕がそう言うと、彼女はほんの少しだけ目を細めてから頬杖をついた。

「たぶん、お倫が思ってるよりもっと普通の人だよ、わたしはさ」

 長い髪をガシガシと掻きながら「まぁ嬉しいけどね」と続けるあくりちゃんの視線は、どこかずっと遠いところを見ているようだった。

「お遊びだって言われたの、まだ根に持ってんだよ。毎日毎日スタジオでどんだけ暴れても変わんないんだ」

 彼女が見ているのはきっと過去の情景だ。

 僕もまた、時々その日の出来事を思い返すことがある。

 あの日の空の色。僕らのバンドが致命傷を負った日のこと。


「あの日からさあ、空が真っ赤なんだよ、ずーっとさ」


 そう、あくりちゃんはぽつりと呟いた。

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