過去
わたしは昔から「コンプレックスがないことがコンプレックス」な女だった。父親は某通信企業の支社長、母親は専業主婦で趣味は美術館巡りと料理と裁縫。上には兄がふたりいて、娘はわたしひとりだけ。自分でいうのもなんだが、蝶よ花よと育てられた。父からも母からも声を荒らげて叱られたことなど一度もない。上の兄はそれほどでもないが、下の兄は大変に過保護で、わたしの進学先の高校は絶対に女子校にすべきだと主張し、実際その通りになった。お小遣いにも困ったことがないので、アルバイトをしたことも一度もない。
幼稚園、小学校、中学校、高校。どこでもそれなりに友だちはできた。あ、あと、幼馴染もいる。彼女は弁護士の娘で、父親同士が親友ということもあって物心付く前からの付き合いだ。わたしが出会う友人たちは、皆多かれ少なかれコンプレックスを抱えていた。生まれ育ちのこと、外見のこと、心の病、恋人とうまくいかない、好きな人に好きな人がいる、種類はたくさんあったけど、とにかくそれらは「コンプレックス」だ。わたしはその感情を感じたことがなかった。なぜならわたしは完璧だったから。わたしはとっても可愛いし、それなりに頭も良くて、でもちょっと抜けた面もあって、人生に於いて本当に困ったことなんて一度もなくって、だから、わたしには友人たちの気持ちが分からなかった。
知りたかった。彼女たち(わたしの友だちはほとんど全部女性だった)の感じる劣等感の正体を。
芸術学部がある大学に進学したのは、そういう感情が強くなり始めた時だった。下の兄はもちろん反対したけれど、こればかりは譲れなかった。国立大学にストレートで入学したわたしは、学内に数多ある映画サークルに目を付けた。映画を見るのはもともと好きだった。サークルの活動はそれぞれ異なり、定期的に集まって国内外の旧作映画(昭和以前のものが多かった)を見て感想を言い合うとか、新作映画の公開初日にみんなで集まって映画館で鑑賞したあとに飲み会をするとか、実際に自主映画を作るとか、とにかく皆色々なことをしていた。わたしは同じ年に入学してすぐに仲良くなった友人たちとサークルを見て周り、いちばん気楽に活動できそうなところに籍を置いた。飲み会をメインとしているサークルだ。男女比は7:3といったところ。女の子はみんないかにも映画オタクって感じで、まあどこからどう見てもわたしがいちばん可愛かった。それも、このサークルに籍を置いた理由だ。
ところで、同期の中に
変な子、と思った。見た目も変わった子だった。小柄な体をいつも黒一色に包んで、丸眼鏡に小さなリュックサック。薄化粧はしてるのかしてないのかが分かんないレベルだったし、髪も短く刈られていて洒落っ気がないにもほどがある。レイジを女扱いする男は、わたしの知る範囲にはいなかった。変人扱いはされていたけど。
しかしレイジは決して人間関係をすべて絶っているわけではなかった。わたしたちのサークルが映画を見に行く日、一緒に行く? と尋ねたら嬉しそうに目を輝かせて飲み会にまで付いてきた。作品はお気に召したらしく、部長と終電まで話し込んでいた姿が今でも記憶に残っている。
「一色さんておうちどこ? 何線?」
終電を超えてもまだ飲もうとしている部長やほかのサークルメンバーに丁重に挨拶をして去ろうとするレイジを捕まえて、尋ねた。彼女は一瞬戸惑ったような表情を浮かべ、それから、大学からはだいぶ遠い場所にある下町の駅の名を告げた。この飲み屋からもめちゃくちゃ遠い。
「え、実家?」
「ううん、下宿。地元はね、関西」
「そうなんだ……大変だね」
具体的に関西のどこなのかとか家は駅から遠いのかとか、ここから徒歩圏内で帰れるわたしの家に泊めてあげようか? とか言えることはたくさんあったが面倒臭くなってやめた。一色レイジには深く関わっても意味がない、とわたしの直感が告げていた。だが。
「LINE交換しない? 今度また遊ぼうよ」
一色レイジは社交的なタイプではない。学内では変人のレッテルを貼られている。わたしの知りたい『コンプレックス』の正体を、彼女なら教えてくれるかもしれない。そんな期待が俄かに降って湧いた。
一色レイジとの適当な付き合いの合間に、わたしはサークルの中で着実に地位を築き上げつつあった。もちろん学生生活もきちんとこなしているが、サークルはサークルで大切だ。去年卒業した彼女に卒業式の日に振られたという話を持ちネタにしている部長のセージさんは特にわたしがお気に入りだった。前の彼女と全然タイプが違って良かったらしい。セージさんの同期が教えてくれた。前の彼女は映画に対して誠実で、真摯で、サークル活動で見た映画についても強い言葉で語り合うことを求めた。セージさんの映画への感情はそこまでではなかった。だから振られてしまった、らしいが、本当かな? ほかにも理由があるように思えたけれど。
とにかくわたしは一年生にして学内最古の映画サークルの部長のお気に入りとして名を馳せるようになった。まあもともと顔が可愛い一年生として有名ではあったんだけど。
一色レイジは大学の卒業生であり今は映画監督として活動する初老の客員教授と仲良くなり、脚本を読んでもらったりしているらしかった。「一色って老け専なんかな」とセージさんが言った。そうかもですねとわたしは笑い、周りも笑った。白髪の客員教授の背中にくっついて歩くレイジを見かけるたびに、皆が笑った。レイジはそうやって、笑って消費してもいい人間ということになってた。
秋のある日のことだった。いつも通りサークルに顔を出したら、セージさんを含めた何人かがお酒を持ち込んで宴会をしていた。別に珍しいことじゃない。誰かが個人輸入で珍しい新作映画のソフトを手に入れでもしたのだろう。
「
先輩たちのうちのひとりが言った。その日、女子部員はわたししかいなかった。
「ここおいで、ここ」
セージさんが自分の膝を叩く。部員たちがどっと湧く。わたしはにっこりと笑い、辛子色のマキシスカートを摘み上げてセージさんの膝の上に腰を下ろした。わたしの脚を包む、黒いストッキングがちらりと見えた。
「明日花ちゃん」
セージさんが言った。安いお酒の匂いがする声で。
「ストッキング破らせて」
「え?」
なに言ってんだこいつ、と思った。が。
「お願い、お金払うから。俺、好みの女の子の黒ストッキング破るの、性癖なんだけどやったことなくて……」
周りもちょっと引いていた。みんな酔っ払ってるくせに急に冷静になるなよ。
わたしの結論は、すぐに出た。
「ちゃんとお金払ってくださいよぉ、結構高いんですから、このストッキング」
セージさんと、セックスする関係にはならなかった。ただ時々部室でストッキングを破らせてあげる、そういう関係になった。これがこの人のコンプレックスなのかなと思った。劣等感? 良く分からない。その日その場にいた何人かの男性部員全員が、セージさんがわたしのストッキングを破る現場を見た。そしてそれは彼らが共有する秘密となった。
大学を卒業してからも、サークルの先輩後輩同輩との交流は続いた。でもわたしはセージさんにお金をもらってストッキングを破らせてあげたことを誰にも言わなかった。
一色レイジを除いては。
「は。なにそれ」
わたしたちの卒業式から半年ほど経った頃、お茶でもしようとレイジを呼び出してストッキングの話をした。彼女は今印刷会社に勤めている。映画と全然関係ない。
「うけるでしょ、やばくない?」
「うけるっていうか……」
彼女は露骨に困惑していた。それを見てわたしは本当に愉快な気持ちになった。
レイジにこういう話をするのは初めてではない。映画を作る側のサークルでいちばんハンサムと話題だった後輩の岸くんとセックスした時も、レイジにはいの一番に報告した。件の客員教授(その時期には既に教授職を辞して、一介の映画監督に戻っていた)の仕事場と大学、そしてバイト先の映画館を行き来するだけの生活を送っているレイジには刺激が強すぎたのだろう。彼女は目を白黒させていた。岸くんは北関東の出身で、高校生の時にはサッカー部で全国大会にまで行ったというストイックなハンサムだった。でもわたしの体には簡単に落ちた。女の子とセックスしたことがない、というのが岸くんのコンプレックスだった。わたしで童貞を捨てたあと、岸くんは立派なヤリチンになった。でも初体験のことはトップシークレットだ。レイジは、何もかもすべてを知っているけど。岸くんがどんなふうにキスするのか、わたしの体を弄ったのか、それらすべてをレイジだけは知っている。
レイジにはなにを言ってもいいと思っていた。彼女の口から他所に話が漏れることは絶対にないし、こんな愉快な話をひとりで抱え込んでおけるほどわたしの容量は広くない。家に帰れば両親も兄たちもわたしのことをまだピュアピュアな処女だと思っているわけだし。
「あとねあとね」
「まだあんの」
レイジと元客員教授の縁はもう切れていた。別に喧嘩別れをしたとかではなく、彼のもとでは作りたい映画を作れないと思ったから、とレイジは説明したが、本当のところはどうなのか分からない。でも、わたしにとっては正直どうでも良かった。レイジはわたしの秘密の話を黙って聞いてくれる、それだけの人だから。
「こないだね、ハプバーに行ったの」
「ハプ……?」
「ハプニングバー!」
大学を卒業する少し前から、わたしはサークル関係者の紹介で大学からも実家からも少し離れた繁華街にあるバーでアルバイトをするようになっていた。バーテンダーとしてではなく、看板娘として。大学で知り合った以上にパンチの強い人間たちが出入りするバーで、わたしは大勢の男と肉体関係を持った。楽しくて仕方がなかった。よっぽど危険なこと以外はなんでも受け入れた。それが彼らのコンプレックスだから。彼らの欲望を食って、自分がどんどん綺麗になっていくような気がした。
でも、こんなこと、レイジにしか吐き出せない。
手元のスマホで『ハプニングバー』を検索したレイジはちいさく顔を顰め、せいびょう、と呟いた。
「気をつけなよ」
「そんなの当たり前じゃん! でもほんと、すっごい面白かった。みんながわたしとセックスしたいって言うんだよ。最高すぎ」
レイジはわたしの秘密をすべて知っている、この世で唯一の人間だった。そしてわたしもレイジの秘密を知っていた。彼女はもう映画を諦めている。だから、正社員として印刷会社の事務員をやっている。
どいつもこいつもみんな自由になれないで苦しんでる。わたし以外はみんな。
わたしの話を聞く時のレイジの顰めっ面が好きだった。たとえばわたしがレイジの友人だったら、彼女はわたしを止めただろう。でも残念ながらわたしとレイジは友人関係ではない。レイジはわたしのゴミ箱だ。
それからまた何年かが経ち、わたしは父親が持ち込んだ見合い話を受け入れ、父親の会社の若手社員と結婚した。双子の息子が既にお腹にいることは秘密のままで。
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