《8月21日朝。サファリランドホテル203号室。タクミ》その三


 一つの恋が過去に変わるには、充分な時間だったらしい。


 タクミの初恋の相手。

 血のつながらない妹。

 でも、妹にはタクミはあくまで兄でしかなく、ずっと想いは秘めたままだった。結が結婚すると言ったときも、兄らしい態度しかとることができなかった。


 結はタクミたち四人の兄と、実の兄妹ではないということを知らない。最初から実るはずのない恋だった。


 タクミの気持ちをたぶん三人の兄たちは知っていただろうと思うが、妹は最後まで気づかなかった。

 それでいいのだ。

 今、結が幸せなら。


 あのころはもう恋なんてできないと思っていたのに、ディアナに来て、タクミは別の恋をした。その恋もなくしたけど、もうほかの人を好きになれるんだとわかったことは嬉しい。


(そうだ。また恋をしてもいい。たまにつらいこともあるけど、ふわふわして楽しい気持ちになることだってあるんだし)


 結の名前を聞いたせいか、タクミは気もそぞろだった。


「タクミ。そわそわしてるね。なんか変だよ」


 ユーベルに言われて、これではいけないと心を入れかえる。意識を大会に集中したつもりだったのだが、やはり、どこか上の空だったのだろう。


 やがて大会が始まり、エントリーナンバー順にステージへあがる。


 ミシェルたちがステージで見事な変身をキメるのをながめた。舞台袖からだと、カーテンのなかでヘアスタイルなどなおしたりするのが丸見えなのがご愛嬌だったが、三十秒ほどで制服から戦う美少女に変身したのは素晴らしかった。文句なく高得点を出したはずだ。


 そのあとはタクミたちの番だ。打ちあわせどおり、新メンバーのユーベルを紹介する。


「僕らの新しいメンバーです。アモロ・ルイこと、ユーベル・ラ=デュランヴィリエ。どうぞ、よろしく」


 持ち時間が少ないので、簡潔に紹介して、予定どおりコミカルな寸劇を演じようとしたときだ。

 いきなり、ユーベルが悲鳴をあげた。手をあげて何かを防ぐそぶりをしている。


 タチの悪いイタズラだった。

 いつものタクミなら、こんなことになる前に気づいたはずなのに。

 観客席から人ごみにまぎれて、誰かがユーベルに水鉄砲をあびせているのだ。ユーベルの着ている連邦軍の青い制服は、ぐっしょり水にぬれていた。


 タクミはユーベルを床にひきたおして、水鉄炮の攻撃から隠した。ステージ上から水の飛んでくる方角を確認する。


「あいつだ!」


 ダークインベーダーの扮装をした人物がオモチャの銃を手に立っている。


(あいつ、ノーマをつきおとしたやつだ!)


 客席は人でいっぱい。

 タクミがステージをとびおりて捕まえようとしたときには、ダークインベーダーはきびすをかえして走りだしていた。ふだんなら捕まえられたはずだが、このときはタイミングが悪かった。観客はこれも演出だと思い、キャアキャア言いながら抱きついてくる。またたくまに、ダークインベーダーは遠くなっていった。


「すいません。離してください。あいつを捕まえないと——」

「キャアッ、タクミ、可愛い!」

「タクミーッ、こっちむいて!」

「行かないでぇー! タクミ」


 とんだアイドルだ。

 四苦八苦していると、ステージからマイクを通した声が響いた。


「タクミ! これ、水じゃない。古い溶解液だ!」


 ジャンの声が場内に響きわたった。


「みなさん、今のは演出ではありません! 仲間が毒をかけられました。大至急、救急車をお願いします。それと、どなたかグラスファイバー繊維の中和剤をお持ちじゃありませんか?」


 タクミもあわててステージに帰る。今度は誰もひきとめない。


 今は使用が禁止された古いタイプの溶解液。グラスファイバー繊維と融合して毒の成分を発する。大量に皮膚に付着すると、呼吸器系統が麻痺し、死にいたることもある猛毒だ。中和剤が市販されているが、そんなものを持ち歩いている者はまずいない。

 客席から泣き声や恐怖に満ちたざわめきが起こった。


「とにかく袖に運ぼう。ユーベル、大丈夫?」


 ユーベルは青ざめ、呼吸が荒くなっていた。が、意識はハッキリしている。何度も恐ろしい思いをし、殺されそうになったことも度々ある少年は、こういう事態に悲しいほどなれている。


「自分で歩けるよ。タクミたちの服もグラスファイバー繊維でしょ? 今のおれにさわったらマズイんじゃない?」


 たしかに、ユーベルの服から溶解液がにじむと、タクミたちも毒に侵される。


「……苦しくない?」

「まだ、それほどは。走ったあとくらいの感じ」


 だが時間が経つほど多くの毒を吸収してしまう。一刻も早く病院へつれて行く必要があった。


 そのころになって、やっと医療スタッフがやってきた。応急処置をしているところに救急車が到着する。


「すぐ病院に行って洗浄してもらえるからね。心配いらないよ」


 ユーベルは救急隊員につれられて、おとなしく救急車に乗せられた。保護者としてタクミも同乗する。


「ごめんよ。タクミ。昨日から、おれのせいでさんざんだね」


 ユーベルが言うので、タクミはそのいじらしさに涙が出そうになる。


「そんなこと気にするなよ。君のせいじゃないんだから」


 守ってあげられなかった自分が不甲斐ない。

 タクミは悔しくてしかたなかった。


(あいつ、いったい誰なんだ。あのダークインベーダー。次に会ったら絶対、捕まえる)


 やつはノーマを階段からつきおとし、殺そうとした。

 そして今度は、ユーベルまで。

 誰かがタクミたちのまわりをうろつき、つけ狙っている……。

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