《8月19日夜。リラ荘アンドレの部屋。アンドレ》



 月で蝶が飼育されるようになったのは、今から二十年前。

 恐ろしい死病がまんえんした地球から、人類が命からがら逃げだして、八十年も経ったのちのことだ。


 人類は身一つで月に逃亡してきたため、地球にいた生物のほとんどは置き去りにされた。人類にとって有用な一部の生物だけが、DNA情報や凍結受精卵として月に持ちこまれた。


 まず、食料となる家畜が繁殖され、順次、労働家畜、牧畜などに移っていった。

 植物の栽培に必要な昆虫類。バクテリアにいたるまで、人類の意思で取捨選択された。


 神の宇宙創造に等しい行為が、人の手で行われたのだ。

 ガラス玉のなかに水と水草と魚を閉じこめて、完成された小世界を創りだすように、月は人類にとっての箱庭だった。人類が生きるためにもっとも理想的な世界へと変えられていった。


 それが二十一世紀のノアの方舟。

 人類に有害なもの、無益なものは存在する価値がない。そんな風潮が半世紀以上ものあいだ続いた。


 人類の意識がほんの少し変わったのは、二十二世紀だ。環境も整い、人心地つくと、ようやく人類はただ生きるための境地から脱するゆとりを心にとりもどした。

 数千年も前から人類につきしたがってきた古きよきしもべをなつかしく思い、愛玩用の犬、猫、鳥、ウサギと言ったペットが流行した。


 蝶はそれよりさらに二十年遅い。受粉の助けはミツバチで充分だし、カイコのように糸がとれるわけでもなく、一見、なんの役にも立たない。


 蝶たちは犬や猫が人間のかたわらで愛されているあいだ、醜いイモムシのまま、家畜のエサとしてのみ生存をゆるされていた。


 人類は彼らが本来、美しいということをすっかり忘れ去っていた。クモや鳥など、人間のために働く賢いやつらの食欲を満たすための、青くてモゾモゾするブサイクなやつとしか見ていなかった。


 たまたま、ある化学繊維工場の研究員が、二十一世紀に地球で開発されたというモルフォ蝶カラーの繊維を復刻しようと思いつかなければ、月では蝶の存在は永久に鳥のエサで終わっていた。蝶にとっての奇跡だったのだ。


 二十年前。モルフォ繊維の試作品作りの一環として、羽化されたモルフォ蝶の美しさに、人類は魅せられた。

 あらゆる種類の蝶の復活が大ブームになった。モルフォ蝶、オーロラ蝶、アゲハ蝶、シジミ蝶……。


 それらは月の生態系を乱さないように、研究所の専用の飼育室でのみ繁殖され、一般に公開されている。


 宝石の羽を持つ小さな死骸は、マニアのあいだで高額で取り引きされた。死ねば土壌養分として森林葬にされる人間より、はるかに貴いあつかい。

 ガラスの柩のなかに一体ずつていねいに防腐加工されて展翅てんし。あるいは人工樹脂にぬりこめられて、琥珀こはくに生まれ変わる。

 その美は半永久的に保たれ、時の流れの終わりまでも人々を魅了する。

 手のひらに入る小さな天使だ。


 自室に新しいコレクションを飾り、アンドレは満悦していた。

 今回の天使はボディーラインがたいそう美しい。飛びたつ前のしなやかな動きを、今も彷彿ほうふつとさせる。


(マヌエラ。見えるかい? 君の好きな蝶だ)


 部屋いっぱいの蝶の数々。

 コレクションを始めたのは七年前だ。再生医師のアンドレの収入では難しいことではない。

 だが、いつからだろう?

 それだけでは物足りなくなった。


(マヌエラ。天使を見つけたよ。今度の天使はこれまでのどれより、君に似てる。もうじき手に入る)


 白い天使。黒い天使。

 両方、欲しい。

 必ず手に入れてみせる……。

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