《同日、夕刻。ハイドパーク。ユーベル》



 猫を探しているうちに日が暮れてきた。いつもなら、やらないようなヘマだ。ペット探しなんて一、二時間もあればできる仕事なのに。


(どうしたんだろう? 今日のぼく、変だ)


 原因はわかっている。

 昼前にリラ荘のホールで会ったお婆さんのせいだ。


 二十一世紀にテロメア修復薬が開発されてから、誰でも気軽に若返ることができるようになったので、昼の老婆のように老化の激しい外見の人はめったにいない。


 テロメア薬は生涯で三度しか使えない規制がある。しかし、うまくタイミングをあわせれば、百五十年の寿命を一生通じて五十代までの肉体ですごすことができる。


 あの老婆はものすごい高齢であるか、テロメア薬の配分に失敗したかだろう。髪は真っ白で背も縮み、しわだらけだった。


 まあ、外見はいいのだ。

 気になるのは、あの人がタクミを見たときの反応だ。


 タクミは気づかなかったのだろうか?


 あの瞬間、場の空気が鉛と化したかのような圧倒的な感情のかたまりが、老婆から押しよせてきた。あまりに深く激しいので、それがどんな感情であるとも判別できないほどの。

 激烈な憎悪のようでもあったし、天国の門まであと一歩というところで、ガラスの階段がくずれおちた絶望のようでもあり、あるいは夢のなかで犯したと思っていた殺人が現実のことだと悟ったときの戦慄と恐怖——


 とにかく、ふつうの反応ではなかった。

 たぶん、あのとき受けた感情の重圧が、ユーベルの精神を虚脱させているのだ。猫探しに身が入らない。


 タクミがアレに気づかなかったのはAランクだからだろう。

 ユーベルは……というより、じっさいには


 世界中でただ一人のトリプルAランク者は、公的には一人だ。それはユーベルではない。


 ユーベルはセラピスト協会に保護されたときの事故の被害が甚大だったため、世間にその正体をを伏せられている。命を狙われる危険性も少なくないからだ。知っているのはディアナの市長とタクミだけ。世間をあざむくため、セラピスト協会にはBランクとして登録してある。


 じっさいにはエンパシー、テレパシー、サイコメトリーなどの精神感応力と、物体を思念で動かす念動力の二つの能力で、最高ランクのトリプルAを有している。

 コントロールが未熟なので、他者の激しい感情にふれると、強すぎる力が過敏に感応する。


 ぼんやりしていると、次々と灯のともる街灯を見て、タクミがぼやいた。


「まいったなぁ。暗くなってきちゃった。苦手な依頼人なのに。どっか、この近くにいることはわかってるんだけどなぁ」

「ごめん。おれが、ぼうっとしてたから」

「ユーベルのせいじゃないよ。明日の午前中までに見つければ一日料金ですむし。朝になったら、また来よう。猫は夜のほうが活発だから、手に負えないよ」


 ところがそんなことを話していたやさき、小さいアーモンド形の双眸が二人の前をよぎっていった。柵をすりぬけて車道のほうへ出ていく。


「ああッ。リリー、待って!」


 ユーベルたちも柵をとびこえて、あとを追う。

 そのさい、ぼくたちは敵じゃないよ、友達だよ、飼い主の家へつれ帰ってあげる、エサをあげる——とエンパシーを送るのに、リリーは喜んで走っていく。こっちを怖がっているわけではない。ときどき立ちどまって、塀の上や道路脇から、ユーベルたちをふりかえっている。


「なんか白い猫のイメージがチラチラするなぁ」と、タクミがつぶやく。

「リリーの母猫だよ。リリーはお母さんに会いたいんだ」

「母猫をたずねて三千里か。泣かせるなぁ。日曜名作劇場」


 追っていくうちに、リリーは細い通りにまぎれこんでしまった。なにしろ小さくても猫だから、人間と違って立体的に移動していく。塀をとびこえて人家に入っていかれたら、追いかけようがない。


 街灯の少ない薄暗い路地が交錯する住宅地で、リリーを見失ってしまった。住宅地と言っても、東区の高級住宅街にくらべて、小ぶりな家や安っぽい単身者用のアパルトマンが多い。少し離れて繁華街があるため、煩雑な観がある。土地勘のない人間は迷いやすい。


『リリー。待ってよ。お母さんに会わせてあげるから。いっしょに行こうよ』


 どこかそう遠くないところから、リリーの感情が届いてくる。リリーはエンパシストなわけじゃないから、なんとなく嬉しがっていることしかわからない。


「このへんなのは、たしかなんだけどな」


 タクミはパソコンで周辺の地図を調べながら指さした。

「この家のまわりが怪しいよ。ちょっと、ここで待っててくれる? ひとまわりしてくるから」


 タクミが路地裏へ走りだしていってまもなく、ユーベルの頭の上に、ぽてんと何かが落ちてきた。ニャアンと可愛い声で鳴いて、肩へおりてくる。


「リリー。おまえね。人の頭を踏み台にして」

「ニャアン」

「わかった。わかった。お母さんに会いたいんだろ。ちょっと待って。つれてってやるから」

「ニャッ。ニャッ」


 リリーをキャリーバッグに押しこんで、タクミをテレパシーで呼びよせようとしたときだ。

 街灯のかげにしゃがんでいたユーベルの前に、ふいに人影がとびだしてきた。横手の路地から駆けだして、まっすぐ前をつっきっていく。街灯の光に一瞬、ひきつった少年の顔が浮かんだ。


 ——殺されるッ!


 強風のように思念が吹きつけてきて、ユーベルはすくんだ。


 少年は恐怖のあまり声も出ないようだ。街路の闇のなかへ消える背中を見送っているうちに、少年の出てきた路地から足音がした。

 しかし、あわててそっちをかえりみるより早く、相手のほうがユーベルに気づいた。路地の手前で反転し、走り去っていく。


(何? 今の……)


 暴漢に少年が追われていた。ただのひったくりなどではない。もっと切迫した空気が漂っていた。

 ユーベルは自分の過去に起きた苛酷な記憶の数々に襲われて、うずくまった。


(怖いよ。タクミ。助けて)


 ふるえていると、正義のヒーローみたいにタクミがやってきた。ユーベルの肩を抱いて立ちあがらせる。


「どうしたの? 何かあった?」


 ユーベルはタクミにしがみついた。すると、どこか遠くで悲鳴が響く。道路工事のドリルみたいな、ものすごい音だ。


「ユーベル。走れる?」

「やだよ。行かないで」

「大丈夫だよ。君のことは僕が守るから。僕が強いことは知ってるだろ?」


 タクミはたしかに強い。柔道やら剣道やら空手やらで、集めるのが趣味みたいに段位をとっている。だが、タクミは優しすぎるのだ。その優しさが、ときとして、タクミ自身を危地に招くことがある。


(タクミのことは僕が守らなくちゃ)


 恐怖をふりはらって、タクミについていった。悲鳴の聞こえたほうへ走っていくと、袋小路になった暗がりのなかに、少年が倒れていた。さっき追われていた少年だ。血だまりのなかで、こときれている。


「タクミ。おれ、見たよ。犯人……」


 すでに犯人の姿はあたりになかった。

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