8.架空の恐怖と反転する現実
199X年、エジプトで非人道的な儀式を行っているとして、
この時に儀式の核として使われていたとされる黒い宝石が、行方不明になったという。
それから月日が流れ――
イギリスの宝石商であり、アメリカのミスカトニック大学に所属する鉱物学者でもあったリチャード・アルバは、邪教集団の調査研究チームに参加する。
現地での調査は順調に進み、やがて彼らは行方が杳として知れなかった黒い宝石――のちに【宵闇の貴婦人】と名付けられるブラックダイヤモンドを発見したのである。
それが二年前の出来事であり、全ての始まりでもあった。
科学分析の結果、【宵闇の貴婦人】は有機生物の遺灰や遺骨から抽出した炭素で合成されたものだと判明する。
大切な人の形見となる遺骨や遺灰を元に作られる合成ダイヤモンド――通称メモリアルダイアモンドは、現代において別段珍しいものではない。
だが調査が進むに連れ、不可解な事実が浮かび上がる。
信頼できる史料によれば、【宵闇の貴婦人】最古の所有記録は1660年頃。順当に考えれば、製作されたのはそれ以前となる。
だが、遺灰をダイヤモンドに合成する高温高圧合成法が確立されたのは2002年であり、1600年代前後に類似する技術が存在していたとは考えにくい。
さらに、邪教集団が残した資料によれば、【宵闇の貴婦人】の合成元となった遺灰は人間や地球上で確認されている動物のものではなく、『無貌の神』と呼ばれる『顔のないスフィンクス』のものらしい。
加えて拳大ほどの大きさにもなるメモリアルダイヤモンドの合成には、人間一人分の遺灰では到底足りない事実が、少なくとも大型生物の遺灰を利用したことを裏付けた。
一連の謎を解明しようとしたリチャードら調査チームだったが、彼らの周囲で怪奇現象が頻発するようになる。
やがて、調査員の一人がミイラ化した変死体となって発見された。
身の危険を覚えたチームは解散し、【宵闇の貴婦人】の調査研究は中止される。
そんな不気味な経緯もあって【貴婦人】はその存在を持て余し、当事者たちを大いに悩ませた。
結局は調査チームの一員で宝石商であるリチャードに、タダ同然に
「それはまた……大変でしたね」
心底同情する清水。
警察署内でもクロガネ絡みの面倒事をよく押し付けられることもあって、リチャードにある種の親近感を覚えたのだろう。
当のクロガネは、実に複雑な表情を浮かべて沈黙している。
「本当に呪いがあるのかはさておき。何故、そこまで曰く付きの【貴婦人】を展示したのですか?」
「友の仇を取るためだ」
美優の問いに即答するリチャード。
「変死した調査員は、私の親友だった。彼は考古学や民俗学に精通していて、【貴婦人】を所有していた邪教集団について調べていた。そのせいで連中の息が掛かった者に殺されたと私は見ているのだが、明確な証拠や手掛かりはなかったため、警察も捜査を打ち切ってしまった」
「……それでその犯人たちを誘き寄せて捕まえるために、この展示会を開いたと?」
「その通りだ」
クロガネの問いに頷くリチャード。
何とも大胆というか、危険な真似をするものだ。無関係な一般人まで巻き込んでしまったらどうするつもりなのだろう?
「展示会を催すにあたって、鋼和市を選んだのは何故です?」
「世界最先端のセキュリティに、様々な国の技術者や関係者も滞在している。彼らの協力を得れば、友が志半ばで果たせなかった【貴婦人】の謎を解明できるかもしれないし、上手くいけば友を殺した邪教集団に対して多国籍の人間が敵対意識を共有できると考えたからだ」
打算的な考えだが、一理ある。
確かに犯罪組織に立ち向かうためには、味方を多く作った方が良いに違いない。
だが正直なところ、迷惑な話だ。
捉え方によっては、前情報もなしにクロガネ達をその邪教集団と戦わせようとしたのである。
「事前に当局や警察に相談しなかったのは?」
「証拠も不十分で信憑性の怪しいオカルト話をまともに取り扱って貰えると思うか?」
その辺は冷静なリチャード。
友の仇を取るために味方を募ろうにも、実は【宵闇の貴婦人】は怪しい儀式に使われていただの、邪教集団だの、普通の人間は聞く耳を持たないだろう。ましてや、科学の最先端を地で行く鋼和市では尚更だ。
だからこそ、危険を承知で展示会を開き、半ば強引に邪教集団の存在を世間に知らしめようとしたのだろう。
その前に怪盗が【貴婦人】を盗んでしまったが。
「とりあえず、ミスター・アルバは怪盗以外に敵が居たことは解りました。そして【貴婦人】が、その敵にとっても重要な存在であることも」
そうなると、【宵闇の貴婦人】を盗んだ怪盗の身が案じられる。因果応報とはいえ、無関係な人間にまで被害が及ばなければ良いが。
「でも、変ですね」
と、銀子が口を挟んできた。
「怪盗が予告状を出したのは一週間も前。この
素朴だが、中々鋭い質問だ。
言われてみれば、【宵闇の貴婦人】自体は既に各種メディアを通してその存在と展示場所を明示しているのである。
仮にリチャードが言う邪教集団が実在しているのなら、当然彼らの目と耳にもその情報が入っていることだろう。怪盗が盗む前に、何らかのアクションがあってもおかしくない筈なのだ。
「それは『結界』を張っているからだ」
「結界?」
首を傾げる銀子。清水も眉をひそめている。
「もしかして、展示室の床と【貴婦人】の下に描かれていた五芒星のことですか?」
何となく気になっていたことを口にすると、リチャードはどことなく嬉しそうな表情を浮かべた。
「その通りだ、よく気付いたな。『
「エルダー、サイン?」
「邪悪なモノを退ける力があるシンボルだよ。これのお陰で敵が信仰する邪神も、その加護を受けた人間も【貴婦人】に触れることはおろか、近付くことも認識することも出来なかったんだ」
はぁ、生返事をする銀子と清水。
二人は急に始まったオカルト話に付いていけなくなってきたようだ。
その一方で。
「……『旧き印』……『エジプト』……『ネフレン=カ』……」
美優が神妙な顔でリチャードから知り得た情報……単語をぶつぶつと呟いている。
「……『無貌の神』……『顔のないスフィンクス』……その遺灰で作られたダイヤモンドが、儀式の道具……まさか、……ッ!」
何かに気付いた美優が顔を上げた瞬間。
正面玄関の方から悲鳴が上がり、強烈な光が照射された。
それが車のヘッドライトであると気付いたと同時に、迫り来るエンジン音が響く。
「玄関から離れろッ!」
クロガネが周囲に警告するや、美優を庇った――直後。
衝突。轟音。粉砕。
一台の大型トラックが、ガラス張りの正面玄関を突き破って美術館内に侵入してきたのだ。
トラックは横滑りしつつ、頑丈な強化ガラスで覆われた展示品のショーケースにぶつかって急停止。
ファンシーな魚のイラストと共に『桝井漁業組合』と書かれた荷台が嫌でも目に入る。
同時に生臭い腐ったゴミのような悪臭が辺りを漂い、その場に居た全員の鼻腔を貫いた。
「うぇ……ッ」堪らず呻き声を上げる銀子。
「なんつー臭いだ……」
腐った海産物でも積んでいるのだろうか?
だとしたら、クロガネ的には許せないものがある。
新鮮な海の幸や食材を無駄に腐らせるような輩は断じて容認できない。
「何だよもう、事故か? 運転手は無事か?」
清水も悪臭に顔をしかめるも、そこは現役の警察官。
突然の車両事故に動じることなく、運転手の安否を確認しにトラックへ向かおうとする。
内側から歪んだドアを開けて、運転手の男が現れた。
ふらつく足取りでホールに降り立つ。
「大丈夫ですか?」と駆け寄る清水。
男は頭にタオルを巻いて青いツナギを着た、いかにも『トラックの運ちゃん』といった出で立ちだ。
ただ、明らかに様子がおかしい。
頭を強く打ったのか目の焦点が合わず、遠目でも解るほど顔色が真っ青だった。口を半開きにし、まるでゾンビのようにふらついている。
「しっかり! 今、救急車を――」
清水がPIDを取り出そうとしたところで。
「がああああああッ……!」
ホールにケダモノのような咆哮が上がった。
ガラスの破片が散乱した床の上に突然、男が倒れ込んだと思いきや、まるで漁船の甲板に釣り上げられた魚のようにもがき、のたうち回る。
耳元まで裂けた大きな口から、どす黒い体液をゲェゲェと大量に吐き出しながら。
ポン、ポンッ、とポップコーンが弾けるような音と共に、男の眼球が勢いよく外に飛び出した。
続いてぽっかりと空いた眼窩の奥から、緑色の球体が膨らみ出てくる。
大きく、ぶよぶよとした二つのそれが、新しく生まれたゼラチン質の目玉だと理解した者は果たしてどれほど居ただろうか。
「…………」
文字通り、その場に居た者全員が例外なく絶句していた。
その間にも男の身体は歪み、裏返り、溶け出し、見る見る人間の形を失っていく。
そして人間だった名残――身に着けていた衣服やタオル、腕時計などを煩わしそうに千切り、投げ捨て、ゆらりと立ち上がった男は――『魚』だった。
否、魚を思わせるような、穢れた何かである。
指の間に水かきを備えた手足を持ち、人間のように二足歩行できるようだが魚類そのもののような頭部は冗談のように大きく、見るからにバランスが悪い。
胴体には一切の体毛がなく、全身がヌメヌメとした質感の黒光りする鱗でびっしりと覆われている。
そして、だらんと垂れ下げられた腕には、ナイフのような鋭いヒレが生えていた。
「みゃああああああ……ッ!」
産声だろうか。グロテスクな半魚人と化した男が、その分厚い唇を開けて甲高い鳴き声を上げる。
開いた口から、黄ばんだ乱杭歯がずらりと並んでいるのが垣間見えた。
「……な、何よアレ……?」
誰に言うともなく、銀子が青い顔で呆然と呟くと。
「
美優の冷静な返答に、戸惑いの目を向ける。
「は? ディープ?」
銀子の声が、全身が、原始的な恐怖に震えている。
彼女だけではない。清水も、リチャードも、その場に居合わせた人間たちは得体の知れない怪物を目の当たりにして委縮し、まともに動けないでいる。まるで見えない鎖に全身を縛られてしまったかのようだ。
そんな彼らを叱咤するかのように、
「早い話が『人間の敵』です!」
美優は大声で、強くそう断言する。
アレは、邪悪で悪意のある『敵』そのものだと。
そして彼女以外にもう一人。
恐怖の呪縛を振り払い、誰よりも早く行動した者がいた。
「みゃああああああッ!」
半魚人は甲高い鳴き声と涎を撒き散らし、腕に備えた鋭利なヒレを振りかざして近くに居た清水に襲い掛かる――寸前。
「みぎょッ!」
クロガネが放った全力ダッシュからのドロップキックが、グロテスクな顔面にクリーンヒットして吹き飛ばした。
そして、着地するや手にしていた拳銃を両手でしっかり構え、半魚人の頭に銃弾を二発撃ち込む。
「ハッ!」
乾いた銃声が、銀子たちの呪縛を解いた。
「清水さんッ! しっかりしろッ!」
「お、おう!」
我に返った清水も懐から拳銃を抜いて構えた。
他の者も一様に武器を構えて警戒する中、半魚人はゆっくりと立ち上がった。頭にめり込んだ銃弾を鬱陶しそうに払い落とす。
傷口から微量ではあるが、どす黒い血を流していた。
銃が効かないわけではない。
だが、クロガネは自前のキンバー1911を一瞥して舌打ちする。
貫通力よりも衝撃力に優れた45口径ホローポイント弾では、ゴムのような弾力性のある皮膚に阻まれて大したダメージが与えられないのだ。
「それなら……!」
地を蹴ろうとした爪先――親指の付け根付近に二発撃ち込んだ。
「みぎゃッ!?」
半魚人は悲鳴を上げて倒れ込む。
人間が家具の角に足をぶつけて激しく痛がるように、指先は他の部位よりも神経が繊細に通っている。加えて、重心を支える要でもある親指を射抜けば、体勢が崩れるのは当然だ。
咄嗟に踏ん張ろうとした半魚人の逆足に、クロガネはスライディングで足払いを掛けて転倒させる。そして背びれの生えた背中を全体重で押さえ付けてマウントを取り、首筋にあったエラを掴んで強引に大きく開くと、そこに拳銃を突っ込んで残弾を零距離以下で全て叩き込む。
亜音速で立て続けに放たれた三発もの銃弾が、呼吸器官と中枢神経をズタズタに引き裂いた。
半魚人は目と口と鼻から黒い血を流し、遂に息絶えた。
外側が硬くとも、内側は脆い。
万国共通の認識は、未知の怪物にも通用するようだ。
クロガネは素早くリロードを済ませて油断なくその場から離れると、半魚人の全身が泡となって溶け出し、消滅した。
クロガネは残心を解くや、
「うっわ、生臭っ。ああもう最悪……」
顔をしかめて、エラを掴んだ義手をぶんぶんとやや大袈裟に振る。
場を和ませようと狙ってやったのかは定かではないが、その様子を見た周囲からは安堵の息と小さな笑いが零れた。
だが、それも束の間。
――ピー、ガシャンッ!
甲高い電子音と共に、トラックのバックドアが解錠された。
「おいおいおい……」
力なく嘆く清水。
――荷台から新たな半魚人が現れた。
「嘘でしょ……」
呆然と呻く銀子。
――その数、二十体以上。
「おかわりは要らんっ」
強く拒絶するクロガネ。
――『深きものども』という名の半魚人たちは、
「「「みゃあああああああああッ!!」」」
――口々に甲高く、穢れた声を上げて人間たちに襲い掛かった。
***
――鋼和美術館は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
トラックが猛スピードで野次馬たちを次々と撥ね飛ばして館内に侵入し、『深きものども』が現れては次々と人間に襲い掛かっている。
警察官も警備員も応戦しているが、状況は芳しくない。
彼らは初めて目にした未知の怪物に恐れ、怯え、竦み、本能のままに拳銃を乱射しているだけだ。
銃撃をものともせず、半魚人たちは一方的に人間たちを蹂躙していた。
「ああ、来るなッ! 来るなッ! 嘘だろッ……ィギ!?」
「ヒッ! ぁ、あああああああアアアアア!?」
ある警察官は、鋭利なヒレで切り刻まれる。
ある警備員は、手足を食い千切られ、
館内に悲鳴と怒号と銃声と鮮血が飛び交い、飛び散り、血生臭い硝煙が漂う。
一方で屋外の警察官たちは、美術館側から生理的に受け付けられない謎の気配と悪臭、そして銃声と悲鳴に二の足を踏んでいた。
また救援に向かおうにも、トラックに轢かれた負傷者の手当てと搬送、野次馬たちの避難誘導などを優先して既に手一杯であり、こちらはこちらで混乱の極みにあったのだ。
つまり、外部から惨劇の真っ只中にある館内の救援に駆け付ける余裕など、なかったのである。
「こっちだ、魚野郎ッ!」
クロガネは半魚人の大きな眼に銃弾を撃ち込んで怯ませると、弱点である首筋のエラに深々とナイフを突き刺して捻りを加えながら引き抜いた。
致命傷に至る確かな手応えを得るや、即座に別の敵へと向かう。
善戦しているが、恐怖を跳ね除けて果敢に立ち向かえている者はクロガネぐらいだ。
辛うじて動ける者は、リチャードの指示で結界のある特別展示室に負傷者を引き摺って応急処置をする者と、入口を死守する者とに分かれている。
必然的に、囮として最前線で戦っているクロガネの元に半魚人たちが群がっている形だ。明らかな多勢に無勢ではあるが、元暗殺者の面目躍如か、何とか
一方、特別展示室の入口前では。
「やぁあッ!」
美優がパーティション用に設置されていたステンレス製のポールをフルスイングし、半魚人に叩き付けて吹き飛ばした。
成人男性の五倍の出力を引き出せるガイノイドと重さ三キロはある鈍器の組み合わせは、半魚人を倒すに至らなくとも防衛線として充分に機能していた。
美優の左右では銀子と清水の他、辛うじて動ける者達が拳銃で援護している。
「くそッ! 何とか凌いではいるが、ジリ貧だ……!」
銀子にカバーして貰いつつ、清水がリロードしながらそうぼやいた。
迫り来る半魚人に有効な武器もなければ、クロガネのように近接戦を実行する技量と胆力もない。
ふと、銀子が離れた場所で孤軍奮闘中のクロガネを見やる。
「黒沢の方から銃声が聞こえなくなった……まさか、弾切れ?」
クロガネの戦い方が、殴る蹴る投げるといった肉弾戦メインとなっていた。どうやらナイフも失ったようだ。
「あいつの銃は装弾数が元々少ない上に、さっきオートマタをぶっ壊すのにも使ったからな。間違いなく俺達以上にジリ貧だぞ」
「……ッ!」
すぐにでもクロガネの元に駆け付けたい衝動を、美優は必死に抑える。
半魚人を倒せる術がない現状では、駆け付けても彼の助けにはならないばかりか足を引っ張ってしまいかねない。
それに今この場を離れてしまうと、後方に避難している人間を守る防衛線に穴が開いてしまう。
「どうすれば……」
美優が葛藤していた、その時。
「お前達、ちょっと良いか?」
展示室からリチャードが現れた。
彼の右手には避難した警備員から借りたであろう拳銃が、左手には館長から借りたであろう鍵束が握られている。
「奴らに対抗できる武器を取りたい。手伝ってくれ」
どうやら館内にある展示品の中に、半魚人を倒せる武器があるようだ。
押し寄せる不安と絶望の中、一筋の希望が見えた気がした。
「清水さん、お願いします。そして出来ればクロガネさんに」
「解った、渡しておく」
美優の意図を理解した清水は頷くと、リチャードと共に持ち場を離れた。
防衛線が薄くなったのを見計らい、半魚人が迫り来る。
伸ばしてきた異形の手を美優がポールで打ち払うと、返す刀で頭に叩き付けた。堪らずダウンした半魚人の腹を、容赦なく蹴り飛ばす。
「すご……」
思わず感嘆の声を漏らす銀子。
ロボット三原則に基づいたサイボーグ基本法の制約により、普段は対人戦闘に参加できない美優だが、相手が人外の怪物なら話は別である。
「今、私に出来ることを」
今も必死に戦っている想い人の身を案じながら、彼女は戦う。
「くっそ、しぶとい……!」
息が上がりながらも、クロガネはファイティングポーズを構え直す。
ただでさえ装弾数の少ない愛銃は既に弾切れ。
柄にナックルガードが備わったトレンチナイフは、酷使した反動で刀身が根元から折れてしまい、ただのメリケンサックと化している。
現状はナイフの柄と義手による徒手空拳で対抗しているが、明らかに分が悪い。
打撃では半魚人の分厚いゴムのような皮膚に吸収されて大したダメージを与えられず、殴り飛ばして距離を離すのが精一杯だ。
加えて連中から発せられる生臭い悪臭と、拳から伝わるヌメヌメブヨブヨとした嫌な感触に、戦意が削がれていくような錯覚を覚える。
ヒレで切り裂こうと伸ばしてきた半魚人の腕を義手でいなしつつ、鋭い踏み込みから腰の回転を乗せた強烈な右フックを頭に叩き付けた。
振り抜いた勢いのまま背後から迫ろうとした敵の側頭部に回し蹴りを放ち、続けて繰り出した水面蹴りで別の敵を転倒させる。
すぐさま包囲網から抜け出して距離を取り、息を整え、体勢を立て直す。
……先程から同じようなことの繰り返し。
現状を打破できる
ちらりと義手を一瞥する。
対オートマタ用の『
こうも敵が複数いる状況下では、エネルギーのチャージすらまともに出来ない。
「さて、どうしたものかな」
劣勢であることを顔には出さずに嘯く。
――例え窮地に陥ったとしても、余裕を見せる程の冷静さがなければ死を早める。
父親代わりの恩師にそう教わり、実戦で確信した言葉だ。
武器もなく、疲れてはいるが、思考は研ぎ澄まされて身体もまだ動く。
まだ絶望には程遠い。まだ戦える。
「諦めなければ――」
「黒沢ぁッ! 受け取れぇッ!」
清水の叫び声に、不敵な笑みを浮かべた。
「――活路はあるってな!」
振り向き、清水が投擲した一振りの日本刀に手を伸ばして掴み取る。
間違いなく、この美術館に展示されていた貴重な名刀だろう。
だが気にしない。
今を生き延びるために、先人が作りし
起死回生の武器を手に入れたクロガネは鞘を抜き捨て、露わになった美しい刀身が照明の光を受けて鋭い輝きを放った。
二度、三度と振り回して手に馴染ませると、正眼に構える。
直後に飛び掛かってきた半魚人の胴を、擦れ違いざまに一閃。
一切の抵抗もなく、文字通り一刀両断にする。
「覚悟しろよ、お前達」
刀身に付着した黒い血を振り払い、クロガネは半魚人たちに切っ先を向けて声高らかに死の宣告を言い放つ。
「三枚おろし決定だ! 食えないだろうがなぁッ!」
「間に合った……」
安堵する清水の視線の先。
クロガネが妖刀・千子村正を振るい、見ていて気持ちいいと思えるくらいバッタバッタと半魚人を斬り伏せていた。
「黒沢は大丈夫、あとは……」
リチャードを伴って展示室前に駆け戻る清水の手には、一本の槍があった。
「美優ちゃん! こっちに飛ばせ!」
張り上げた声に、美優が半魚人に思い切りポールを叩き付けて清水の方へ吹き飛ばした。
目の前に滑り込んできた半魚人の頭に、
「オラァッ!」
深々と槍を突き刺しては引き抜き、再び腰を入れて突き刺す。
手足をばたつかせてもがいていた半魚人は、やがてぱたりと動きを止めた。死体が泡となって消えるのを待たず、美優と銀子の救援に向かう。
弾切れになった銀子に迫ろうとした半魚人の脇腹に槍を刺して突き飛ばすと、改めて狙いを定め、頭を貫いた。
「……ギリギリだったわよ」
「すまんな」
どっと安堵する銀子に一言詫びると、清水は美優が叩きのめした半魚人の頭を槍で突いた。
「これで、全部か?」
「……どうやら、そのようです」
泡となって消滅する半魚人から視線を切り、一同は周囲を見回して安全を確認した後、警戒を解いた。
全員の表情には、疲労の色が濃い。
「大丈夫か?」
クロガネの方も片付いたようで、鞘に納めた刀を手に駆け寄ってくる。
「何とかな。お前こそ大丈夫か?」
「ああ、さっきはありがとう。刀を寄越してくれて助かったよ」
「礼ならリチャードさんにもな。ケースの鍵を開けてくれなかったからヤバかったぞ」
言われてクロガネはリチャードに一礼する。
「ありがとうございます、ミスター・アルバ。お陰で助かりました」
「いや、こちらこそ」
素直に礼を返すリチャード。共に死線をくぐり抜けたからか、初対面の時より雰囲気が丸くなった気がする。
「……結局、今のは何だったの?」
一息つけたところで、銀子が誰に言うともなく訊ねると。
「『
美優が淀みなくそう答えた。
「HPL?」
聞き慣れない単語に、クロガネを除く一同が首を傾げる。
「常識の外側、世界の闇、それらが関わっていると思しきものに用いる隠語です」
「ホラー映画によくある、心霊現象や妖怪みたいなもの?」
美優の説明を聞いた銀子が、そう例えて言ってみる。
「もっと古く、永く……そして深い存在。
“地球の総ての民族が共通して妖怪談や都市伝説の類を持つのは、その傍証となり得る”……つまりはそういうことです」
「どういうことだ?」と清水。
「……清水さんは『エリア51』って、知ってる?」
クロガネが唐突にそう言った。
「何だよ、藪から棒に。それってアレだろ? イチローとかいう有名な野球選手が、メジャーでそう呼ばれてた」
「いやそっちじゃなくて、アメリカのネバダ州にある空軍基地の方だよ」
「確か、『墜落したUFOを運び込んで宇宙人と共同研究をしている』って風説で有名な所よね? 昔からよく映画や小説のネタにもされてるから、何となく聞いたことがあるわ」
「そう、それ」
模範解答を出した銀子を指差すクロガネ。
「つまりだ、『実はエリア51には本物の宇宙人やUFOが存在している』……それと同じようなことを美優は言ったんだよ」
「……てことは何か? その……HPLでいうところの本物の化け物が、実在しているって?」
「でも、結局はフィクションで都市伝説でしょ……ぁ」
自然に否定しようとした銀子は、不意に言葉を切った。
そして呆然とした表情で、周囲を見渡す。
荒れ果てた館内。
空薬莢と鮮血が残された床。
漂う硝煙と、ゴミのような生臭い悪臭。
怪物を連れて来たトラック。
五感から得られた情報が、現実であることを示す。
「ありえない……アイツらはきっと、どこかのマッドサイエンティストが造った生物兵器か何かでしょ? それもそれでかなりヤバイけど」
力なくそう否定する銀子に、
「おいおい、まさか……」
清水も気付いてしまったようだ。
「……お気付きですか?」
美優は静かに告げる。
告げてしまう。
人間がこれまで長きに渡って積み重ね、紡いできた世界の常識が、崩れ覆されてしまう現実を。
「架空の世界でしか存在しないような怪物が、先程まで私達の世界に存在していたことを」
そして唐突に。
――矮小で愚かな人間たちよ、常識の外側にようこそ――
黒く、ベタ付くような男の声が、その場に居た全員の頭の中に響き渡った。
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