第二章 紅い災厄
目の前では天まで伸びようかという炎がまるで生き物のように揺らめいている。地面に座り込んで急に出現した炎の壁をじっと見つめる。
ほんの少し前までいつもの日常があって、父さんがいて、母さんがいて、兄さんがいた。休日に家族でピクニックに出かけ、多くの家族で賑わう公園にはたくさんの笑い声と笑顔で溢れていた。なのに今は……。
世界は紅く染まり、いたるところで炎が踊っている。父さんと母さんは急に出現した炎に飲み込まれてしまい、兄さんの姿は見えない。
炎が踊り、肉が焦げる臭いが充満している。悲鳴、鳴き声がこだまする地獄のような世界でただ目の前の炎に魅入られていた。今まで僕が知っていた青い世界が偽物で、今目の前に広がる赤い世界こそが本物であるかのような圧倒的な質感にただただ魅入られていた。
「ーーーー!」
背後から誰かの叫ぶ声が聞こえる。誰に何を言っているんだろう?それ以上は気にはならずに炎を、本物の炎を見つめ続ける。叫び声は段々と大きくなっていって足音がこちらへと近づいてくる。それでも構わずに炎を見つめ続ける。足音はすぐ近くで止まり、肩をぐいと掴まれて振り向かされる。
銀髪の女性がしゃがみ込んでこちらを見つめている、と認識した次の瞬間には抱きしめられていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
耳元で女性が優しく囁く。
女性の背後で地面に赤い線が走り、噴き出た炎が僕と女性を飲み込もうとこちらへ突進してくる。危ない!と思った時には何故か炎はその存在を消していた。
女性の手に力が込められる。
「大丈夫。絶対に大丈夫だから」
赤く染まった世界で、彼女の体温だけが僕をこの世界につなぎ止めてくれる。そんな気がした。
「どうぞ」
目の前のテーブルにコーヒーが差し出される。軽く会釈してそれに口をつける。白い床、白い壁、白い天井ーーーー白一色の一室で二人の大人、一人は金髪をオールバックにして両目の色が異なる白衣を着た男性、もう一人は大災厄の日に会った女性と向かい合って座っている。
「あの日から」金髪の男性が口を開く。「一週間が経ったわけだけどどうかな?難しいことだとは思うけど、少しは落ち着けたかな?」
あの日、世界は赤一色に染まって両親は炎に飲み込まれ、兄さんの安否は分からない。この広い恐ろしい世界で僕は一人になった。チラと銀髪の女性に目をやる。こちらの視線に気づくと優しい笑顔を返してくれる。
『私はエリザベス。エリーと呼んでくれていいから』
『何か困ったことがあったら何でも私に言ってね』
彼女に抱きしめられ、言葉をかけられ、笑顔を見せてくれて。黒い暗い闇に光が差した。エリーがいれくれたからこそ、変わってしまった世界でも何とか自分を保つことが出来た。
「はい。その、エリーさんのおかげで少しは落ち着けました」
僕の言葉に二人が笑顔を見せる。
「それはよかった」
「あの……」
「ん?」
「僕には兄がいて、兄もあの場にいたんですが……。兄が無事かどうか分かりませんか?」
男性があごをさすりながら、少しの間を置いた後に口を開く。
「残念だけど、君のお兄さんの安否は分かっていない。あの災厄では消えてしまった人も多いからハッキリとしたことが分かることはないかもしれない」
「そう、ですか」
心のどこかで予期していたことではあったけど、他の人の口から改めて事実を突きつけられると、その”事実”は辛いものがあった。顔を伏せて歯を食いしばる。
「大丈夫!」しんと静まり返った一室にエリーさんの明るい声が響き渡る。「分からないってことは無事だという”可能性”があるっていうこと。その可能性が望ましいものであるなら、その可能性が事実であると信じて待てばよい」
エリーさんが、僕を救ってくれた人がそう言うならばそれが僕にとっての”事実”だった。
「そうですね」顔を上げて二人を真っ直ぐに見据える。「兄さんともいつかまた会える。そう信じて待とうと思います」
「人はパンのみに生きるにあらず。希望があるからこそ生きていける。希望は意志になり、意志は行動へと繋がり、行動が、行動こそが世界を変える。実は今日君をここに呼んだのはお願いがあるからなんです」
「お願い、ですか」
「はい」大きく頷く。「自己紹介がまだでしたね。私はホセ・ルイス・オルティス。国の調査機関であるブルー・アラスで科学者をやってします。それで彼女はエリザベス・メアリー。私の助手をしてもらっています。私たちはキミが遭遇したあの大災厄の原因を調査しています」
その一言で鼓動が一気に高鳴る。大災厄の原因?
「あの、大災厄は何なんですか?」
「正直に言いますと正確なことはまだ何も分かっていません。でも、いくつか手掛かりはあります。お願いというのはその原因調査のことで君には是非私たちの調査を手伝って欲しいと思っています」
「僕に、ですか?」
「そう。君に、です」
「僕に出来ることなんて何もないですよ」
僕はその時何も出来ずにただ佇むことしか出来なかった無力な少年でしかない。
「そんなことはありません。君になら出来る、君にしか出来ないことがあります。論より証拠、口で言うよりも実際に見てもらった方がいいでしょう。エリザベス君」
「ハイ」
オルティス博士に声をかけられたエリーさんは席を立って部屋の隅へと移動する。博士はそれを確認すると足元から一枚の皿とローソクを取り出して皿の上にローソクを立てる。
「このローソクをよく見ていてください」
マッチを擦ってローソクに火を点ける。
「何か感じましたか?」
何か?何の変哲もないローソクが火を灯しているだけだ。博士が何を期待しているのか全く分からずに黙って首を振る。
「そうですか。ではこれはどうですか、エリザベス君」
博士の声を合図にエリーさんがローソクへと手を向ける。ざわと急な違和感に鳥肌が立つ。見るとローソクの炎は消えていた。違和感の正体が分からずに博士を見るとにやりと笑っていた。
「今度は感じたみたいですね」
「何ですか今のは?」
「君が感じたことをそのまま教えてくれませんか」
「エリーさんがローソクに手を向けたら、何か」言葉がうまくまとまらない。「そう、ローソクからエリーさんへと何かが移動して、そしたらローソクが消えてて」
こちらの答えが満足のいくものだったのか大きく頷く。
「炎、水、風。君はなぜそれらが起こるのか考えてみたことがありますか?」
「いえ、特には」
僕にとっては当たり前にあるものでしかなく、何故なんて考えてみたこともなかった。
「私たちは炎、水、風などの源となっているものがあるんじゃないかと考えていまして、その源のことを”ドラグーン”と呼んでいます。ドラグーンはマッチをするなどの行為によって炎などの具体的な形に変える。ドラグーンはいたるところに漂っています。目に見えないだけでね」
手で宙を切ってみる。何も感じるものはなかったけど、僕の手はドラグーンに触れたんだろうか?
「普通の人はドラグーンを感じることは出来ません。でもごく稀にドラグーンを感じることが出来る人間がいることが分かりました。それがエリザベス君であり、君です。君は特別な力を持った、選ばれた人間なんです」
僕が特別な人間。ただ佇むしかなかった僕が?
「私たちはドラグーンを感じることが出来る人間をセレクシオンと呼んでいるの」
エリーさんが再び博士の横に腰を下ろす。
「あの大災厄にはドラグーンが深く関係していると私たちは考えていまして、ドラグーンを感じることの出来るセレクシオンの力が必要なんです。ぜひ君の力を私たちに貸してほしい」
唇をなめる。あの悲劇を二度と起こさないことに力を貸すことが出来るならそれは素晴らしいことだろう。でも……。
「調査に協力するってことは、またあの災厄に遭遇する可能性もあるってことですよね?」
そう思うだけで手は震えてひどい息苦しさを覚える。
「そうですね」大きく息を吐いて背もたれへと体を預ける。「何故あの大災厄が起こるのかは分かっていない以上その可能性が低いと言うことは出来ません。調査に協力するようになれば、普通に暮らすよりも大災厄に遭遇する可能性は高くなるでしょう。勿論普通に暮らしたからといって二度と遭遇することはないと言うことも出来ませんけどね」
この世界には裏の顔がある。それを知ってしまった以上、調査に協力しようがしまいがその”事実”は二度と頭の中から消えることはないだろう。だったら……。そう思っても手の震えは消えてはくれなかった。
「いやですと言ったら僕はどうなるんですか?」
「君を引き取ってくれる里親を探して、その里親の家で暮らしてもらうことになります」
「返事は今すぐしないとダメですか?」
「そんなことはありません。この返答は君のこれからの人生を左右する大事なものになるでしょう。『ハイ、今すぐ返事して早く、グズグズしないで早く』なんて言うつもりはありません」
「少し、時間をください」
「分かりました。では、話はこれで終わりですから部屋に戻ってゆっくり休んでください」
「ハイ」
「期限は特に設けませんからしっかり考えて返事を聞かせてください。君自身が納得できる答えを」
「ありがとう御座います」
二人に一礼して白い部屋をでる。
母さんは言った。『内なる声は本当になりたいことが何か知っている』と。でも、僕の心はこの問題に対して何も声をあげてはくれなかった。
博士の話から一週間が経った。調査に協力するか否か?その答えはまだ出なかった。ドラグーンを感じることの出来る特別な存在、セレクシオンとしてあの災厄を二度と起こさないように協力したいという気持ちは確かにある。でもそれと同じ位あの災厄に遭遇する可能性を少しでも低くしたいという気持ちもあった。
気持ちはその二つの間で揺れ動いた。ある時は協力したいと思い、少し時間が経てばいや、やっぱり協力したくないと思う。納得できる答えとはほど遠かった。
ベッドに横たわって天井を眺めているとノックの音が響いて慌てて飛び起きる。
「ハイ」
「私だけど今起きてる?」
「ハイ、起きてます。今開けますからちょっと待っててください」
ドアを開けると長い銀髪を後ろで一つに束ねたエリーさんが立っていた。
「ちょっとお話したくて。今、大丈夫?」
「あっ、大丈夫です。どうぞ」
部屋の中へと招いて椅子を勧めてベッドへと腰を下ろす。
「どう?一週間経ったけど返事は決まった?」
力なく首を横に振る。
「答えがコロコロ変わって納得とは程遠い状況です」
「そっか、そうだよね。難しい問題だもんね。どうしたらいいんだろうねー」腕を組んでしばらく視線を宙に彷徨わせる。「そうだ!ねえ、今の気持ちをアタシに話してみない?」
「エリーさんにですか?」
「そう。人に自分の気持ちを話してみることによって気持ちを整理できることってよくあるのよ。何を想って、何を考えて、何で迷っているのか。それを正直に話してみたら今まで気付けなかったことに気付けるかもしれないよ」
「いいんですか?」
「勿論」
言葉と笑顔に背中を押されてぽつぽつと話し始める。
「あの災厄に遭遇してエリーさんに助けてもらって僕は色々なことを思いました。この世界には僕の知らない、恐ろしい裏の顔があること。両親は炎に飲み込まれ、兄さんの安否は分からずに一人ぼっちになってしまったこと。あの時、何も出来ずに佇むことしか出来なかった無力な少年でしかないこと。どれも思ったこともないことばかりでした」
「うん」
「博士に特別な存在だと、エリーさんと同じセレクシオンだと言われた時は素直に嬉しかったんです。僕は今まで自分が他の人より優れたところがあるなんて思えたことがなかったから。僕に与えられた特別なチカラをあの災厄を防ぐために使う。それは素晴らしいことのはずなんです。それなのに……」
顔を伏せて手を握りしめる。怖かった。あの災厄にまた遭遇するかもしれない。その可能性を少し考えるだけでも体は拒否反応を示してしまう。エリーさんは何も言わずに僕の気持ちが落ち着くのを待っていてくれる。深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。
「すいません」
「気にしないで」
「僕は怖いんです。あの災厄がどうしようもなく怖い」
エリーさんがあの時に抱きしめてくれなかったら、エリーさんの体温を感じることが出来なかったら僕は僕で居続けることが出来なかったかもしれない。
「そうだよね。あれだけ怖い想いをしたんだから」
「エリーさんはあの日、あそこで調査してたんですか?」
「アタシ?アタシはあの日お休みでたまたま近くにいたの。で、異変に気付いて慌てて駆け付けたってわけ」
「怖くないんですか?あの災厄が」
「うーん、怖くないと言ったら嘘になるかな。最悪命を落とす可能性だってあるしーーー」
「じゃあ」エリーさんの言葉をさえぎってこの一週間ずっと聞きたかった質問をぶつける。「じゃあ、何でエリーさんは危険があると知りながらあの災厄を調査しようとしてるんですか?」
僕を真っ直ぐに見つめてゆっくりと口を開く。
「ねえ、覚えてる?アタシが言った可能性の話」
「勿論、覚えています。『その可能性が望ましいものであるならその可能性が事実であると信じて待てばいい』って、エリーさんは言ってくれました」
「そう。博士からアタシはエレクシオンだと聞かされた時からずっと考えてきたことがあるの。何故アタシはドラグーンを感じることが出来るのか、この力で何が出来るのか、アタシにはどんな可能性があるのか、アタシにとって望ましい可能性とは何なのか?それをずっと考えてきた」
「答えは、出たんですか?」
「うん」大きく、しっかりと頷く。「アタシにとって最も望ましい可能性。それは誰もが理不尽に命を奪われることがない世界。つまりあのような災厄が起きない世界。アタシに与えられた力はその可能性のために。アタシはその可能性を実現できると信じた。信じたなら後はそれを実行するだけ」
博士の言葉が蘇ってくる。
『希望は意志になり、意志は行動へと繋がり、行動こそが世界を変える』と。ハッキリと自らの意志を語る彼女はとてもカッコよく輝いて見えた。
同じ力を持つ彼女は自らの意志を示した。お前はどうするんだ。同じ力を持つお前はどんな可能性を望むんだ?心が、声を上げた。
「ありがとう、御座います」
「ん」
「エリーさんの話のおかげてもう少しで答えが出そうな気がします。納得できる答えが」
「そっか」腰を上げる。「じゃあ待ってるね。君の納得できた答えを聞かせてくれるのを」
「ハイ」
扉の前に立つ。大きく深呼吸をして覚悟を決める。ノックするとすぐ「どうぞ」とエリーさんの声が返ってくる。
「失礼します」
部屋に入ると博士とエリーさんがテーブルを挟んで座っていた。
「返事が決まったみたいですね」
「はい」
博士の問いかけに大きく頷く。
「ここ座って」
一つ横にずれて今まで座っていた席を薦めてくれる。腰を下ろして博士と向かい合う。
「じゃあ、早速だけど返事を聞かせてもらえませんか」
「ハイ」唇をなめ手を強く握りしめる。「僕に、あの災厄の調査を手伝わせてください」
隣で小さく息をのむ音がする。博士を何も言わずにじっと僕を見つめている。博士に見つめられると心の奥底まで見透かされているかのような気持ちになって視線を反らしたくなるが必死にこらえて真っ直ぐに見つめ返す。
永遠にも思えるような時間が流れる。
「理由を」博士が口を開く。「聞かせてもらえませんか。最初にお願いした時に君も気にしてましたけど、身の安全は保証出来ません。だからこそ、こちらからお願いしたにも関わらずこんなことを言うのは失礼だとは思いますが何故その決断に至ったのか理由を聞かせてください」
この一週間繰り返した自問自答を頭の中で反芻して言葉を紡いでいく。
「あの災厄が怖いという気持ちに変わりはありません。関わらずに生きていたいというのが正直な気持ちです。でも、あの災厄はまた起きるかもしれなくて、調査に協力するしないに関わらず遭遇するかもしれない。だったら、というのが……」
「その理由だけでやっていけるのかな、というのが正直な感想ですね」
博士はだけの部分を強調して言った。
「もう一つあります。母さんが言っていたことがあるんです。『自分の内なる声は自分が本当にしたいことが何か、ずっと知っている。だから雑音に紛らわされずに心の声にしっかり耳を傾ければ答えはでる』って。
この一週間ずっと自問自答を繰り返して初めて、生まれて初めて心の声を聞いたんです」
「君の心の声は何て言いました?」
「『お前は災厄がある世界と災厄がない世界、どっちを望むんだ?災厄がない世界だろ?そして、お前には力がある。お前には災厄のない世界を実現する可能性がある。だったら、答えは出てるだろ』と」
そう。僕には僕が望む世界を実現するための力がある。だったらやるだけだろ!
博士をしっかりと見据えて宣言する。
「博士は僕に言ってくれました。『希望は意志になり、意志は行動へと繋がり、行動こそが世界を変える』と。
僕はドラグーンを感じることが出来る、エレクシオンだという希望は災厄のない世界を実現するという意志になりました。だったら後は行動に移すだけです。世界を変えるために!」
博士が立ち上がり、笑顔で手を差し出してくれる。
「ようこそブルー・アラスへ」
僕はその手を力強く握り返した。
セルピエンテの日ーーー六年前の大災厄は博士によってそう命名されていた。六年前には緑豊かだったその場所は中央に慰霊碑があるだけの焼け野原へと変わり果てていた。
ブルー・アラスの調査で何回か来ていたが、未だに心が重くなる。
「大丈夫?」
こちらの様子を不審に思ったのかエリーが声をかけてくる。
「大丈夫」
「ならいいけど……。どう、何か感じる?」
目を閉じて意識を集中させる。意識を集中させると周りに漂っている”見せないもの”がはっきりと感じられる。
「この前よりドラグーンが濃くなってる気がする」
「やっぱりそうよね」
あごに手を当てて―考える時の癖だった―視線を宙へと投げる。
「前兆」声は自然と掠れていた。「だったりするのかな?」
「ハッキリしたことは言えないけど、いい兆候だとは思えないのよね」
宙を見つめたまま呟きのような返答。エリーの考えがまとまるまで黙って待つ。ぼんやりと辺りに視線を巡らせていると地面に何かが落ちていることに気付く。屈んでよく見てみると金属製の髪止めだった。
六年ーーー言葉で表せば短いが生きてみると長い長い時間だった。大災厄で両親を失い、博士とエリーに出会い、ブルー・アラスの一員としてセルピエンテの日の原因究明にあたっている。
二度とセルピエンテの日のような大災厄を起こさせない。この髪留めの少女を、僕のような両親を亡くす少年を出させないために。六年前に決めた、達成すべき可能性。この六年で僕はその可能性に少しでも近づけているんだろうか?
そう思うと大きなため息が漏れた。
首を振り、嫌な考えを振り払って髪留めへと手を伸ばそうとするも思わず手を引っ込めていた。明らかに髪留めがある付近のドラグーン量が異常だった。
「エリー、ちょっと来て!」
未だ考えを巡らせているエリーを慌てて呼ぶ。
「ど、どうしたのよ急に……」
「いいから早く」
怪訝な表情を浮かべながらこちらへと駆け寄ってくる。
「何かあったの?」
「あの髪留め付近に意識を集中してみて」
「髪留め?」表情が一瞬で変わる。「何、このドラグーン量は!」
「明らかに異常だよ、この量は!」
「何でここだけこんなに……。ここだけ?」
エリーが膝をついて地面へと手をかざす。「エリー?」こちらの声は聞こえていないのか、赤ちゃんのように膝をついたまま移動しては至るところに手をかざしている。
「そう、か。そういうことだったのね」
そう呟いたかと思うと次の瞬間には立ち上がって駆け出していた。
「え、エリーどこ行くの?」
「研究所!急いで博士に報告したいことがあるから」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
声をかけるも勢いは一向に緩むことなく、慌ててその背中を追いかけていた。
「報告したいこと、と言うのは何ですか?」
調査用の作業服のまま研究所の一室で博士と向かい合って座る。
「報告の前に確認したいのですが、博士は『ガイアの教え』は知っていますか?」
「信者ではないのであまり詳しくはありませんが概要くらいは……。確か、『全ての物には命が宿っており、この大地もガイアという一つの生命体だとして信仰する教え』という教義だったと記憶していますが……」
「その通りです」
「そのガイアの教えが今回の件と何か関係があるんですか?」
「はい。今回六年前にセルピエンテの日が発生した場所に行きました。全体的にドラグーンが濃くなっていたんですが、その中でも異常と思えるほどドラグーンが濃くなっている場所がありました。詳しく調べてみるとその地点ではドラグーンが地面から噴き出ているように感じられました」
「地面から、噴き出る?」
博士が身を乗り出す。
「ハイ。それで私は思ったんです。人間は血液が全身を巡っている。ガイアの教えが言っているようにガイアを生き物とするならば大量のドラグーンが地面の下を巡っていてそれが何かの拍子に地表にあふれ出してあの大災厄を起きたんじゃないかって」
「私はセレクシオンではないので確認する術がありませんが、そのドラグーンが異常に高い地点というのはドラグーンが地表から噴き出ているように感じられたというのは間違いないんですか?」
「ハイ、間違いありません」
確信を持った返答。
「そういうことですか」背もたれへと体を預ける。「物事の秘密を解き明かすヒントは至る所に転がっているとはよく言ったものですが、科学者を志す前から知っていたガイアの教えがヒントになるとは思いませんでした」
「思い込みが目を曇らせるとはよく言ったものですね」
「全くですね」苦笑を浮かべる。「でも、そうなりますと全体的にドラグーンが濃くなっているというのが気になりますね」
「ハイ。地表にあふれ出るドラグーンの量が多くなっているから危ないのか大丈夫なのかは現時点では判断できませんね」
「データがない今の状態では確かなことは何も言えませんからね。でも今日の発見は大きな一歩となるかもしれません。今日の発見をもとに調査を進めていきましょう」
「ハイ!」
「じゃあ、今日はここまでにして二人ともゆっくり休んでください」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
一礼して部屋をあとにした。
この大地はガイアという一つの生命体である。ガイアの体内では人間の血液のようにドラグーンが駆け巡っている。何かのきっかで地中のドラグーンが大量に噴き出てセルピエンテの日が起こっている可能性がある、か。
自室のベッドに横になって今日分かったことを反芻する。原因と思われるものは見つかった。でも、じゃあどうするのかと進めると全く考えが浮かんでこなかった。
あの日から六年。体は大きくなった。セレクシオンとしてドラグーンを力へと変えて制御する術を学んだ。でもそれだけだった。僕は未だに世界へ何の影響も及ぼすことも出来ない無力な少年でしかなかった。
ため息が、一人でいるとため息ばかりついているような気がする。
ノックの音がし、すぐ「ちょっといい?」エリーの声。
「ハイ、大丈夫です」
すぐ返事をし、ベッドから飛び降りてドアを開ける。Tシャツにショートパンツというラフな格好のエリーが手を後ろに回して立っていた。
「どうしたの?」
「いろいろバタバタして遅くなっちゃったけど……」後ろに回していた手を前に出す。その手にはリボンでラッピングされた小さな箱が載せられていた。優しい笑顔で「ハッピーバースデー!十六歳の誕生日おめでとう」と祝ってくれた。
そうか。全然意識することはなかったけど、今日は両親を失った日であり、僕が生まれた日。本人ですら覚えていなかった誕生日を祝ってくれるエリーの気遣いが嬉しくて、そして痛かった。
こらえ切れずに顔を伏せ、絞り出すような声で「すいません」と謝っていた。
「ちょ、ちょっと何で謝るの?」
「エリーにも博士にもよくしてもらっているのに僕は……」胸の奥底に閉じ込めていた想いが止めどなくあふれ出てくる。「ただ受け取るばかりで今日もただいるだけで何の役にも立てなくて、それが本当に申し訳なくて……。僕は、僕は」
「顔、あげて」
応えることは出来ずに歯を食いしばって拳を握りしめる。
「お願いだから顔あげて」
無視し続けることも出来ずに恐る恐る顔をあげる。エリーの手が僕の頬に触れる。
「そんなことない」母さんを思い出させる「そんなことないよ」とても優しい、温かい音色が胸にしみ込んでいく。
「アタシも博士も君がいてくれて本当に助かっている。何の役にも立ってないなんてそんなことは絶対にない!」
その音色が、エリーの体温がささくれだった心を癒していく。
「本当に?」
救いを求めるかのようなか細い問いかけに「本当で絶対に!」力強く応えてくれる。それが本当に嬉しかった。目に溜まり、流れ出そうになっていた涙を慌てて拭う。
「すいません、変なこと言っちゃって」
「いいって、いいって。では改めて」一つ咳払い。「ハッピーバースデー。十六歳の誕生日おめでとう!」
「ありがとう御座います」
「ハイ、これ。プレゼント。博士もお金出してくれて、アタシセレクトだから」
改めて小さな箱が差し出され恐る恐る慎重に、乱暴に扱えば壊れてしまう砂糖菓子のように受け取る。
「開けても、いい?」
「勿論!」
リボンを解いて箱を開けるとシルバーのブレスレットが入っていた。
「ブレスレット?」
「そう。左手に着けてみて」
エリーの言葉に従って左手にブレスレットを着ける。
「どうかな?」
少し照れながらもブレスレットを着けた左手をエリーへと掲げてみせる。
「うん、よく似合ってる。ちょっと手、貸して」
僕の左手を取ると顔を近づけていってそのままブレスレットにキスをした。
「え、エリー?」
「これでよし、と」
「こ、これでよしっとど、どういうこと」
心臓が激しく脈打って言葉がうまくでてこない。
「おまじないよ、おまじない」
「お、おまじない?」
「そう。今、世間では女性から男性にシルバーのブレスレットをプレゼントし、左手に身に着けた状態でキスするのが流行ってるんだって。そうするとプレゼントされた男性は身の安全間違いなしなんだって。どびっきりの想いを込めておいたから、これで絶対に大丈夫!」
満面の笑顔。
世界の真実を知った日から心のどこかに不安があった。今は大丈夫だとしても次の瞬間には世界は姿を変えてしまうんじゃないかという不安が。
でもあの日から初めて”安心”という当たり前だった想いを、このブレスレットがあれば”大丈夫”と心の底から想えたような気がした。
ゆっくりと目を開ける。視線の先には見慣れた白い天井があった。
「夢……か?」
懐かしい景色だった。あの頃の自分には当たり前で、今の自分にはいくら願おうが取り戻せないものがそこにはあった。
身体を起こす。涙が一粒、頬をつたう。手で頬に触れる。頬はかすかに濡れていた。
壁に掛けられているカレンダーに目をやる。日付は四月二十四日。
あれから十二年。
いくら月日が流れても、あの日のことはいつまでも脳裏に焼きついている。踊る炎、立ち上る煙、何かが燃える焦げ臭い匂い。見渡す限り紅に染まった景色の中で、ただ立ち尽くすことしか出来ない無力な少年。世界を憎み、自分の無力さを呪った。誰もが悲しまずにすむ世界を望んだ。その為に正義の味方、ホワイトアラスの一員となった。
手を開く。十二年の月日を経て大きくなった自分の手。あの頃の自分と比べて、どれだけ目標に近付けているのだろうか?
ベッドから降り、窓を開ける。新鮮な朝の空気が部屋に流れ込み、髪をパラパラと揺らす。窓から見下ろした先では、子供たちがボールを蹴りながら走り回っていて、元気な声がこちらまで聞こえてくる。
本来であれば微笑ましく笑みがこぼれてもおかしくない光景。何かが囁く。お前は知っている。目の前の光景が砂糖菓子であることを。お前の力が及ばなければすぐ崩れ去ってしまうことを。そう、俺は強くなければならない。目の光景を守るために。
大きく息を吐きだして出かける仕度を始める。
暖かい日差しが眠気を誘う昼下がり。街にはゆったりとした時間が流れている。目的地に向けて足早に歩を進めていると一角に子供たちが何かを熱心に見入っているのが目に入る。特に気にかけずに横を通り過ぎようとするも「いけーホワイトアラス」という子供の声に足が止まる。興味を引かれて子供たちへと近付いていく。
「お前らは何故こんなことをする?」
「何故?何故だとお前は俺に聞くのか?なら答えてやろう。従ってるだけだよ、俺の心の声に。心の声が俺に告げるんだよ。壊せ、全てを壊せってなぁ!」
「そんな事は絶対にさせない!」
一人で器用に何役もこなしながら紙をめくっていく男の横には『紙芝居:白き正義の味方、ホワイトアラス』と書かれた看板が掲げられていた。紙芝居は終盤に差し掛かっているらしく、子供たちは固唾を飲んで次の展開を見守っている。
「いけーホワイトアラス!」
「悪い奴をやっつけろ!」
悪い奴をやっつけるホワイトアラス、か。紙芝居に熱い視線を送っている子供の姿は、母さんの温かい声で語られる白き人の物語に耳を傾けていた幼い自分を思い起こさせた。幼い自分のように今目を輝かせている子供たちの中から白き正義の味方を目指す子供が出てくるんだろうか?
「やれるものならよってみろ」
「言われなくてもやってやるさ!」
子供たちから歓声が上がる。クライマックスが近いとあって、男の声にも力が入る。
そろそろ行くか。
一つ息を吐き、紙芝居に背を向けて歩きだす。始まりの場所へと向けて。
カツン、カツンと規則正しく足音が鳴る。両脇に様々な店が立ち並ぶ石畳みの道を歩いていく。駆けていく子供たち。手を繋ぎながら子供の歩幅でゆっくりと歩いていく親子連れ。寄り添いながら、一歩一歩確実に歩を進める老夫婦。様々な人とすれ違う。それぞれのペースで、それぞれの日常を過ごしている。
本来なら俺にもあったはずの日常のワンシーン。
そのまま歩いていき、花屋の前で足を止める。花屋の前では買い物袋を抱えた女性とエプロンを身に付けた女性が世間話に花を咲かせていた。サングラスを外して扉を開ける。ドアに付けられていた鐘が鳴ってエプロンを身に付けた女性の視線がこちらへと向けられる。
「あら、久しぶりじゃない」
「セナさん、お久しぶりです」
花屋の主人であるセナさんは母の友人であり、幼いことから何かと面倒を見てもらっていた。
「ホント、久しぶりね、前に会ったのはいつだっけ?ご飯ちゃんと食べてる?しばらく見ないうちに随分といい男になっちゃって。ねぇ、フェリさんもそう思わない?」
畳みかけるように質問を浴びせられたかと思えば、次の瞬間には、先ほどまで世間話に興じていた相手に同意を求める。昔と変わらない振る舞いに思わず苦笑が漏れる。母とセナさんが話していると、セナさんがずっと一人でしゃべり続け、母は笑顔でうんうん、と相槌を打ち続けていた。そのときの母は、首を振り続ける人形なんじゃないかと思えたものだ。見ると、同意を求められた女性も苦笑いを浮かべていた。
「前に会ったのは一年前。毎日三食規則正しく食べてますよ」
うんうん、と大きく頷くセナさん。
「そっかそっか。元気でなにより。で、今日はどうしたの?愛しのセナさんが恋しくなった?」
「それもありますけど……。花を、アルストロメリアの花を買いにきました」
アルストロメリアの花は生前、母が好んでよく飾っていた。ピンク、黄色、オレンジ色の花を咲かせ、花びらの一部にスジ状の模様が入るのが特徴の花だ。
アルストロメリアの花言葉は『幸福な日々』。
母はよく笑顔でアルストロメリアの花びらを眺めていた。幸福な日々をかみ締めていたのだろうか?その幸せが脆く、儚いことに母は気付いていたのだろうか?
「……そっか。今日は命日か。あの日から今年でもう十年になるんだね」
「あっという間でしたね」
少し物思いに耽る。
十年―――。
その大半は、ホワイトアラスの一員となるための訓練に費やされてきた。悲しみに暮れている暇なんてなかった。いや、悲しみに押し潰されそうだったからこそ、一心に駆け抜けた。振り返ることがないように。
気付くとセナさんに見つめられていた。そして、両肩をバン、と力強く叩かれる。
「こんないい男に成長したのなら、クリスもあっちで鼻が高いだろうねぇ~。ほらっ!そんなしみったれた顔じゃいい男が台無しだよ。久しぶりの再会なんだからシャキッとしなさい、シャキッと」
セナさんの優しさが胸に染み渡っていく。思わず涙が零れそうになる。グッとこらえて「ハイ」と飛び切りの笑顔で返事をする。
「よしよし。やっぱ再会は笑顔じゃなきゃね」
そう言って、アルストロメリアの花を手渡される。
「ありがとうございます。あの……。お代は?」
セナさんは手をヒラヒラと振って
「これはあたしからのプレゼント。クリスによろしくね」
一礼し、花屋を後にする。アルストロメリアーーー母が好きだった花を手に、再び歩き始める。母と父が眠る場所へと。
門の前で立ち止まる。
八年前から一年に一度しか帰ることのなくなった家を見上げる。人々が羨むような豪邸は変わらぬ姿で佇んでいる。扉をゆっくりと開ける。懐かしさや安らぎではなく、緊張が身体を包む。
ただいまではなく、おじゃましますだからかな。
庭へと足を踏み入れる。様々な植物が庭を彩っている。庭の手入れをしていた年配の男がこちらに気付き、人懐っこい笑顔を浮かべながらこちらに近づいてくる。
「二ールお坊ちゃん、お久しぶりでございます」
「久しぶり、アルフレッド」
アルフレッドーオルバイス家の執事。多忙な父と母に代わっていつも傍にいてくれてどんな時でも味方になってくれた。アルフレッドの笑顔に緊張が弛む。
「もう一年になりますか。早いものですな」
目を細める。視線が頭のてっぺんから爪先までを捉える。
「ますます立派になられて。見違えましたよ」
「おだて過ぎだって。それにもうお坊ちゃんという年でもないだろ?それに……」
もう、僕はオルバイス家の人間じゃない。
「親にとって子供はいくつになっても子供であるように、私にとってお坊ちゃんはいつまでたってもお坊ちゃんです。たとえ家を出られたとしても」
胸に温かいものが溢れる。
「ありがとう」
「フェルナンド様との積もる話もあるでしょう。どうぞ、今日はごゆっくりなさっていってください」
アルフレッドの温かい笑顔に背中を押されて、兄であるフェルナンドが眠る場所へと向かう。
見渡す限り、一面に墓標が立ち並ぶ。大半がセルピエンテの日の被害者であり、遺体が眠っていない墓標も多い。父と母の墓標にも何も埋葬されてはいない。
アイマール・アロンソ ここに眠る
クリス・アロンソ ここに眠る
両親の墓標には既にアルストロメリアの花が捧げられていた。六年前、ホワイトアラスに入った年に墓標を立ててから命日には必ずアルストロメリアを手に訪れるようにしていたが、必ず俺より前にアルストロメリアの花が捧げられていた。一人だけ思い当たる存在がいたが、下手な推測は控えるようにしていた。この世界は甘さ控えめなのだから。
父と母の墓標にアルストロメリアの花を捧げる。
幸福な日々―父と母は天国で花言葉が示す生活を過ごしているのだろうか?ブラックダリアもセルピエンテの日も天国にはないのだから、きっと幸せに過ごしているのだろう。
足音。そして背後に人の気配を感じる。
「こら、愚弟」
後ろ頭を軽く叩かれる。振り向くと銀髪の女性が立っていた。
「何すんだよ、エリー……姉さん」
エリー。あの日から僕の姉となった女性。何年も経つのに未だに姉さんと呼ぶのには照れくささがあった。
「何すんだよじゃないでしょ。どこの世界にサングラスかけたまま墓参りする親不孝者がいるのよ。さっさと取って叔父さん、叔母さんに顔見せてあげなさいよ」
姉さんを前にすると必死に作り上げてきた俺は一瞬にして崩れ去ってすぐ僕に戻ってしまう。サングラスを取って墓標と向き合う。
「父さん、母さん久しぶり」
「叔父さん、叔母さん久しぶり」
エリー姉さんは隣に膝をついて墓標にカシューナッツとチョコレートを捧げた。カシューナッツは父の、チョコレートは母の好物だった。
「ホラ、叔父さんに飲ませてあげて」
立ち上がってビールの小瓶を差し出してくる。
父はいつもカシューナッツをツマミに晩酌をしていた。あまりアルコールに強くない父は一杯飲んだだけで顔が赤くなり、二杯目を飲み終わった時には必ず酔い潰れてリビングで眠ってしまっていた。いつからか父をベッドまで運ぶのが兄弟の役目となっていた。父の両脇に立ち、二人で父の脇を抱えてひきずるようにしてベッドまで運んでいった。母はその様子を困ったように肩をすくめ、でも微笑ましい光景を見るかのように目を細めて見守っていた。年を重ねるたびに、体が少しずつ大きくなっていくごとに、父をベッドまで運ぶことが少しずつ楽になっていった。大人になっていくのを実感することが出来てとても嬉しかったのを今でも覚えている。
「一年に一度くらいなら叔母さんだって許してくれるわよ。カシューナッツだけじゃ味気ないからね」
小瓶を受け取って栓を開ける。
「じっくり味わってね父さん」
墓標へ話しかけてからゆっくり墓標へとかけていく。白い泡が墓標を流れ落ちていき、地面へ染みこんでいく。ビールが流れていくのをじっと見つめて小瓶を置く。
「ほら、貴方も」
鞄から別のビールの小瓶を取り出して差し出してくる。
「貴方もって」
「今日で十六歳になったんでしょ?叔父さん、父さんと飲むといつも言ってたのよ。俺の夢は息子と一緒にビールを飲むことだって」
父の酔った赤い顔を思い出す。あれは何歳のことだったろうか?父はいつものようにカシューナッツをツマミに晩酌を始めようとしていた。あの頃はまだ父を運ぶのは母の仕事だった。
父のカシューナッツをくすめながら、”白き人”を読んでいた。どこからか現れた白い服を纏った人が困っている村人を助ける。初めて母に読んでもらった日からお気に入りの本になり、字が読めるようになってからは何度も何度も読み返していた。
「セスクはまた”白き人”を読んでいるのかい」
「うん!僕は大きくなったら、”白き人”のように困った人を助ける人になるんだ」
何も知らない子供が語る純真無垢な夢。その夢を聞き、母は嬉しそうに微笑み、父は大きくなった息子の姿を想像しようと未来へと想いをめぐらせるかのように遠い目をしていた。
「大きくなったら……か」
やっと聞きとれる位の小さな声で呟く。
「じゃあ、父さんの夢は大きくなった息子たちと一緒に酒を飲みながら語りあうことだな」
「語り合うって……。父さん、お酒飲んだらすぐ寝ちゃうじゃん」
「一杯飲んだだけでも茹で蛸さんになっちゃうもんね」
母がからかうように付け加える。
自分の立場の悪さを察したのかコホン、とわざとらしく咳払いをして
「と、とにかく息子二人と一緒に酒を飲むのが父さんの夢だからな。よく憶えておくように」
「ハイハイ」と生返事を返し、本の世界へと没頭する。
「あの頃はこんな形になるとは思いもしなかったけどな」
大人になった息子と酒を飲みながら語り合う。
他愛のない、いつか必ず叶う夢のはずだった。顔を真っ赤にした父と微笑む母がいるはずだった。
ビールの小瓶を受け取って栓を開ける。気泡がはじける。エリー姉さんを見ると小さく頷く。
「乾杯」
父の小瓶に瓶を重ねると静まり返った墓苑にティン、と二つの小瓶を重ねる音が響く。ビールを一口、口にふくむ。口の中に苦味が広がっていく。
「苦い」
「父さんはその苦みを愛せるようになってからが一人前の大人だってよく言ってたわよ。まだまだ子供ってことね」
「だといいけど」
ちびりちびり無言で少しずつビールを飲んでいく。空になった小瓶を地面へと置く。
「父さんもゆっくり味わってね」
囁くように語りかけた。望んでいた形ではなく、完全でもなかったけど父の夢は確かに叶えられた。
フェルナンド・オルバイス ここに眠る
兄の墓前に立つ。
「兄さん、久しぶり」
兄が亡くなって十年が経つ。それでも、兄の姿は未だ脳裏に焼き付いている。
兄は憧れであり、目標だった。いつも兄の背中を追いかけていた。年を重ねるごとにその差は縮まるどころか広がる一方だったが、それが嬉しくもあった。一番身近にいて、遥か遠い目標でいてくれることが。
その背中を追い続けることで、自分も高いところまで行ける気がしていた。
「兄さんを追い抜いて六年が経つけど、まだ兄さんには遠く及ばないよ」
一家の中心には兄さんがいた。妹も母さんも、父さんさえも兄さんを誇りに思っていた。オルバイス家の最高傑作。何かの席で父さんは兄さんをそう紹介していた。誰もが兄さんに期待していた。兄さんならオルバイス家の名声をさらに高めてくれると。兄さんもそれを誇りに思い、それを糧にして前へと進み続けていた。あの日まで。
「でも、何とかホワイトアラスの一員としてやっているよ」
墓石は静かに佇んでいる。
「そっか、二ールは偉いな」
生前、兄さんはそう言って頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、何かあるたびに兄さんに報告した。もう兄さんの手が頭を撫でることも、兄さんの声を聞くこともない。
自分の足で歩き続けなければならない。いつまでも見守られる立場に居続けるわけにはいかない。
「また来年も来るよ」
別れの挨拶をし、立ち上がる。振り返ると、そこには厳しい目付きをした赤い瞳を持つ壮年の男が立っていた。
「父さん……お久しぶりです」
キケ・オルバイス。オルバイス家の当主であり、父親。
「よくも、毎年ぬけぬけと顔を見せれたものだな」
「失礼します」
一礼し、横を通り過ぎる。
「お前はいまでも正義の味方を気取っているのか?」
父さんの声に足が止まる。その声に振り向かずに応える。
「自分が正義の味方だなんて思ったことはありません。ただ力を持った者、セレクシオンとして目に映る人だけでも救いたいだけです」
フン、と父さんが鼻を鳴らす。
「目に映る人だけでも、か。だからお前は愚かだというのだ。人には役割がある。人々がそれぞれ果たすべき役目をこなすことで社会を形作っている。力を持っている?セレクシオン?それが何だというのだ。その力で社会を変えられるとでも思っているのか?」
「……」
「変えられやしない。力を持っていようが、ただの”人間”に過ぎん。人々に正義の味方とおだてられようが、何も変えられやしない。お前がセレクシオンであることに誇りを持とうが何も変えられはせんのだ」
ただの”人間”、か。
「だが、オルバイス家の人間は違う。オルバイス家の人間になら変えることが出来る。オルバイス家の人間は人の上に立って導くべき役目を負う。目の前で泣いている人間を救うことよりも、目に見えない百人の人間を救うことを考えなれればならない。いい加減に目を覚ませ!お前はオルバイス家の人間なんだぞ!」
「私にはオルバイス家は重過ぎます」
「最初は誰だって、その名の重さに足が竦むものだ。私だってそうだった。だがその名を背負うことによって、その名にふさわしい者になっていくんだ」
「アウレリオがいます」
義弟となった妹の夫の名をだす。
「あいつなら、オルバイス家にふさわしい人間になれるはずです。多分、それで丸く収まるはずです」
「な……」
「私は兄にはなれません。私が継げば、父さんは絶望し続けることになる。偉大だった兄さんの幻影と私を比較し続けることになる、だからアウレリオが継ぐのが一番いいんです」
父さんがギリッ、と歯を軋らせる。
「お前が代わりに死ねばよかったんだ」
口から漏れるのはあの日から何度も胸を過ぎったであろう願いという名の呪いの言葉。
目を閉じる。この家での楽しい思い出にはいつも兄さんがいた。兄さんの周りは笑顔で溢れていた。
それが出来たら楽だったろうね。
兄さんが居続けてくれたのならこの家は今も笑顔で毎日が彩られていたことだろう。
目を開け、振り返る。
少年時代。父さんは怖くて、その背中はとてつもなく大きく見えた。今、墓前に佇む父さんの姿をとても小さく見える。
「来年もまた来ます」
踵を返してオルバイス家を後にする。
「もう十年になるんだね」
「早いものだね」
街のカフェにエリー姉さんと向かいあって座る。墓苑を後にするとき一緒に食事しよう、とエリー姉さんが提案してきた。セレクシオンとして叔父の家を出て、ホワイトアラス内の施設に住むようになってから会うこと自体が珍しくなっていた。
「叔父さんと叔母さんは元気?」
両親を失い、身寄りのない僕を暖かく向かいいれてくれた叔父一家。悲しみに打ちひしがれていた僕をたくさんの優しさで包んでくれた。そのおかげで立ち上がることが出来た。
「二人とも元気だよ。あっ、そうだ。二人から伝言預かってきたんだ。『たまには帰ってきて顔見せて』だって。仕事、忙しいの?」
「まあ、ね」
帰ろうと思えば何時でも帰れた。叔父さん夫婦が嫌いなわけじゃない。温厚な叔父さん、叔母さんは僕を実の息子のように可愛がってくれて感謝してもしきれない。叔父さん夫婦が帰ってきて顔を見せて欲しいと望んでいるならそれをする義務があると分かっていた。分かっていながらも帰る気にはなれなかった。叔父さん夫婦の家に帰ると僕はワンドではいられない。一度ワンドでなくなってしまったらワンドに戻れなくなってしまうんじゃないかという恐怖があった。
顔を曇らせるエリー姉さんに慌てて言葉を付け足す。
「忙しいって言っても闘ってばかりいるわけじゃないから。色々事務仕事も多くてね」
「そう、ならいいんだけど……」
ホワイトアラスに入る。そう告げた時、叔父さん夫婦は賛成してくれたけど姉さんは最後まで反対していた。
「そういう姉さんはどうなの?仕事のほうは」
姉さんはこの四月から国が設立した孤児院で働いていた。
「働き始めてまだ一ヶ月も経ってないから戸惑うことばかり。心を開いてくれない子供も多いしね。でも、アタシには心を開いてくれなかった子の心を開かせたっていう実績があるからね」
初めて会ったときのことを思い出す。姉さんならきっと深く沈み込んだ子供たちを救い上げることが出来るだろう。あの日の僕のように。
「姉さんならきっと大丈夫だよ」
「あら、珍しく素直じゃない」
「べ、別に僕はいつだって素直だよ」
「どうだかねぇ?」
姉さんが意地の悪い笑みを浮かべる。思わず出た素直な反応を誤魔化すために水へと左手を伸ばして口に含む。
「ブレスレット」
姉さんの目が僕の左手に注がれる。
「ん?」
「アタシがあげたブレスレット。してくれてたんだ」
左手を伸ばした拍子に今まで袖で隠れていたブレスレットが顔を覗かせていた。十歳の誕生日に着ける者の身の安全を願うおまじないが込められたシルバーのブレスレット。
「まあ、ね」小さく息を吐いて、「姉さんの願いが込められているからね」
普段なら決して言うことのない言葉。一年に一度、この瞬間くらいならワンドではなく僕に戻ってもいいだろう。一瞬驚いた顔を見せたもののすぐ意地の悪い笑みを浮かべる。
「ホント今日はどうしたの?明日は槍でも降ってくるんじゃないかしら」
「じゃ、じゃあ僕はそろそろ戻るね」
恥ずかしさを隠すように伝票を手に取って立ち上がる。
「父さんたちに顔見せないの?」
「叔父さんたちに伝えてくれない?今はまだ戻ることは出来ないけど、いつか必ず顔見せるからって」
納得はしていないようだったが、「分かった、伝えておく」と応えた。
「体に気を付けてね」
「貴方もね」
短い別れの挨拶を交わし、カフェを後にする。
施設への帰り道。教会が目に入る。確か、ここにチャリスが住んでんだよな。近寄って扉の前で立ち止まる。視線を上へ上へと持っていく。十字架を頂点に掲げた神の家。それは見る者に厳かな気持ちを抱かせる。ゆっくりと扉を開ける。
天窓からの陽射しが視界を白く焦がす。パイプオルガンの音色が響き渡る。母親の服の裾をぎゅっと握る少女。黒いスーツを身に付けた若い男。三本の足で体を支える腰の曲がった老人。年齢も性別も異なる人々が一堂に集い、歌っている。
―なんてアナスタシア様は素晴らしいのだろう
僕らの全ての罪と悲しみを背負ってくださる
なんと素晴らしい恩恵だろう
暖かい陽射しの下で、恵みの雨に打たれて生活出来るとは
なんと絶望の淵で暮らしていたことか
なんと悲しみの闇に囚われていたことか
それを貴方様が取り払って下さいました
今、僕らには貴方様が宿した暖かい光で満たされています
賛美歌ーーー主への感謝の歌を。
壁に背中を預けて、天窓から差し込む陽射しに目を細めながら教会を見渡す。
人類誕生の瞬間。人々の罪を背負った少女。
スタンドガラスにより語られる物語たち。
天窓から降り注ぐ白い光。
人の手によって作られた神の家で、人の手によるパイプオルガンと歌声により奏でられる賛美の詩。日常とは異なる空間ーーーーーー信じる為、信じさせる為に作り上げられた”神”という名の幻想を共有するための理想郷。そっと目を閉じ、耳を澄ます。主への歌は厳かに奏で続けられている。
演奏が止み、空間を静寂が満たす。
ゆっくりと神父が壇上へと上がり、聖典の朗読が始められる。神父の後に続き、反芻される言の葉たち。信じる者を幸せへと導く力が込められた魔法の言葉が読み上げられて広がっていく。十分ほど続いた朗読は「アナスタシアよ、永遠なれ」という聖女の名前で締めくくられた。
賛美歌、聖典の朗読という習慣行事を済ませた人々が満たされた笑顔を浮かべ神の家を後にしていく。
教会にはパイプオルガンを弾いていたシスターと数人の子供たちだけが残されていた。子供たちはシスターを取り囲んで何やら話しかけている。厳かだった空間が和やかな空間へと様変わりしていく。
子供たちと話していたシスターがこちらを見ると子供たちを残して近づいてくる。
「貴方がここに来るなんて珍しいわね」
シスターの制服に身を包んだチャリスが話しかけてくる。
「たまたま通りかかったんでな」
「どう?貴方も礼拝していく」
「いいや。俺はガイア教を信じてないからな」
「そう」
はいという返事が聞けるとは思っていなかったのかあっさりとした返事だった。
「一つ聞いていいか?」
「何かしら?」
「お前にとって聖女アナスタシアとはどういう存在だ?」
聖女アナスタシア。自らの身を捧げてガイアの怒りを鎮めたと言われている女性。俺にとってはただのおとぎ話に過ぎなかったが、初めて聖女アナスタシアに祈りを捧げている人の姿を目にしてただのおとぎ話には思えなかった。
「そうね」ちらと聖女アナスタシア像に目をやる。「正式な教義と私の個人的教義。どちらが聞きたいかしら?」
「お前の個人的教義」
間髪入れずに答える。
「聖女アナスタシア。私にとってはあさがおのつるが巻き付く支柱みたいなものかしら。私たちが朝顔で聖女アナスタシアが支柱ね」
「どういう意味だ?」
「ワンド。貴方は人間はどういう存在だと思う?」
「俺が信じている言葉がある。『希望は意志になり、意志は行動へと繋がり、行動こそが世界を変える』。人は自らが置かれた環境に順応するだけでなく、環境に働きかけて環境を変えることが出来る存在だ」
「貴方らしい意見ね」シスターらしい穏やかな口調で言葉を紡いでいく。「私は人は弱い存在だと思ってる。人はとても弱い存在。自分の力だけではこの過酷な世界では真っ直ぐに立っていることすら難しい。でも、聖女アナスタシアを信じればそれが出来る。朝顔のつるが支柱にからまって空に向かって伸びていくように聖女アナスタシアの存在が私たちを真っ直ぐに立たせてくれる」
何故だろう?何故チャリスの言葉はここまで苛つかせるんだろう?
「人の苦悶の表情を楽しそうに眺める。聖女アナスタシアを信じることでそんな自分を抑えてるってわけか?」
チャリスの顔から笑みが消える。
「そういう貴方も認められない、認めたくない自分がいるんじゃない」チャリスが俺の左手、シルバーのブレスレットを指さす。「一時期はやったわよね。身に着ける者の安全を願うシルバーのブレスレット。強い強いワンド様にはそんなシルバーのブレスレットは不要なんじゃないかしら?」
しばらく無言で睨み合う。
「やめとこう」左手でサングラスの位置を直す。「ここは言い争いをするような場所じゃない」
「そうね」
椅子から腰をあげる。
「邪魔したな」
チャリスに背を向けると「ワンド」と声をかけられる。
「折角だから一つだけ忠告させて。私は弱い醜い自分を認識している。認識した上でどうすべきかを考えている。貴方はどう?貴方は本当の自分を認識しているの?」
足を止めて大きく息を吐く。本当の自分?そんなものは知らないし興味はない。俺に必要なのは大災厄を防げる存在なのかどうかだけだ。
「忠告、感謝するよ」
背を向けたまま告げて教会を後にした。
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