貴方のために歌うから
くろねこどらごん
第1話
―――彼女の夢は、僕の夢だとも思っていた―――
「私、みんなに大好きでいてもらえるような、綺麗なアイドルになりたいの!」
それが僕、
いつだってキラキラと目を輝かせ、その夢を楽しそうに語っていた。
アイドルになりたいという夢。それはなにもおかしなものじゃない。
子供なら誰だって一度は思い描くような、ごくありきたりな普通の夢だ。
違いがあるとすれば、希美はその夢を実現できると思わせるほどに恵まれた容姿を持っていたことだろう。
彼女は昔から近所でも類まれな美少女であると評判で、周りからは常に持て囃され、多くの人からよく可愛がられていた。
僕には希美以外も
それはきっと、彼女が備えていた天性の華のようなものなのだろう。
自分の子供より、あるいは好いていた人もいたのかもしれない。
あの子みたいになりなさいと、親が子供にそう言っている声も、僕は聞いたことがある。
希美は流れるように輝く綺麗な黒髪と、見るものを癒す太陽のように輝く笑顔を持っていた。
性格も優しく、誰にでも物怖じすることなく接することができる芯の強さも持ち合わせており、そのうえ愛想も良くて、礼儀正しいときたものだから、嫌われる要素なんて微塵もなかった。
良く出来た子を地で行く彼女はまさに大人にとって、理想の偶像アイドルと言えたのだろう。
そんな子供であったから、アイドルになりたいと事あるごとに口にしても、周囲の大人は返答に困るどころか、希美ちゃんなら無理じゃないねとよく褒めちぎっていた。
そう言われて嬉しそうに笑う彼女のことも、僕はよく覚えている。
―――思えば無責任なものだ。
夢を口にして、大丈夫、きっとなれるだなんて何人もの大人が肯定したのなら、小さな子供ならその気になるに決まってる。
今ではもう希美に言った言葉なんて、彼らは忘れているに違いなかった。
覚えているのは、子供であった僕らだけ。
ある意味、希美は大人に呪いをかけられたのだ。
当時の彼女がどれくらい本気でアイドルを目指していたのかはわからない。
だけど、間違いなく彼らの無遠慮な後押しによって、その夢に向かい歩き出したのだと、僕はそう思っている。
希美は努力家だった。
生まれ持った容姿を鼻にかけることもなく、彼女はアイドルになるために、ずっと努力をし続けていた。
アイドルになるには動けなくちゃいけないからと、中学生になる前からダンス教室に通ってレッスンを受けたり、体力をつけるために毎朝早くからランニングをしていたことも知っている。
僕も希美に付き合って、眠い目を擦りながらよく一緒に走っていたものだ。
たまに冬華も参加して、三人で朝の道路を並んで競争するように駆けていたことも、今ではいい思い出となっていた。
それだけじゃない。彼女は容姿と人を惹きつける以外の才能にも恵まれていたようで、天性ともいえる綺麗な声まで備えていた。
音楽の時間ではその美声を遺憾無く発揮していたけど、もちろん彼女がそれに驕ることはない。
アイドルとして通用する歌唱力を身につけたいと言われ、中学の頃は冬華とともによく彼女に付き合って、学校帰りや休日には遅くまでカラオケに入り浸っていたっけ。
おかげであの頃は小遣いが足りなくなったりもしたけれど、希美の歌を聴くのが好きだったから問題なんてなにもなかった。
まぁそれでも強いて言うなら、冬華はそつなくこなしていたけど、僕自身は歌はあまり得意ではなかったから、ちょっと恥ずかしかったことくらいか。
それでも幼馴染達と一緒に過ごす時間は、決して嫌いではなかった。
思えば、僕の人生はいつも希美や冬華がそばにいて、三人でずっと一緒に過ごしてきたと思う。
それが嫌だったかと言われたら、即座にNOと答えることだろう。
僕らは仲のいい幼馴染で、なかでも夢を語る希美のキラキラした瞳を見るのが、僕はとても好きだった。
そう、いつの間にか彼女の夢は、僕の夢にもなっていたんだ。
だからその頃には自分から出来る限りのサポートを買って出たし、勉強の手助けからオーディションに関する情報まで、積極的に動いて集めたりもした。
冬華も手伝ってくれて、幼馴染三人で力を合わせて頑張ったのだ。
それは傍からみれば、子供のお遊びに見えたかもしれない。
アイドルになりたいだなんて、いっそ笑えてしまうような、無駄なことをしていると思う人もいただろう。
だけど僕らは本気だった。
希美のため。彼女の夢を絶対に叶える。
その一心で、出来る事ならなんでもやった。無我夢中だったんだ。
そんな毎日だったから、振り返る余裕なんてなかったし、とにかく前だけを見て必死に駆け抜けていた。
そんな僕たちの夢を追う日々は、やがて報われることになる。
―――やったよ、たっくん!私オーディションに受かったの!本当にアイドルになれるんだよ!
希美がひどく興奮しながら封筒を抱えて僕の部屋に飛び込んできた日のことは、今でもよく覚えてる。
全力で走ってきたからだろう。
階段を駆け上がったことで息も切れており、顔も真っ赤だ。
それでも目だけは爛々と輝いており、彼女が内心でどれほどの喜びを感じているのかを、如実に物語っていた。
―――ほ、ほんとに?
―――うん!もちろんだよ!
希美の夢がようやく叶う。
そう思うだけで胸が一杯になってしまって、幼馴染の前だというのに、僕は気付けば泣いていた。
―――そっか。おめでとう、本当に、おめでとう…!
―――や、やだ。たっくん。泣かないでよ。私だって我慢してたのに、そんな顔されたら、う、うう…
そんな僕を見て、希美もすぐに大粒の涙を流し始める。
思えばそれも当然だろう。
誰よりもアイドルになることを望んでいたのは希美自身なんだから。
むしろよくここまで我慢していたと思う。
あるいは僕のほうが先に泣いてしまったから、安心できたのかもしれない。
そんな彼女に愛しさと喜びが同時に思い切りこみ上げてきて、僕は思わず希美のことを抱きしめていた。
―――我慢しないでいいよ。今日はいっぱい泣こう。そして喜ぼう!
―――うん…うん!
それから抱き合ったまま僕らはひとしきりふたりで泣いて。
恥ずかしくなってお互い離れて。
やがて気持ちが落ち着いた頃には冬華も家に呼び、三人でその日の夜は遅くまで大いに盛り上がったんだ。
親からは叱られたりもしたけれど、そんなことはどうでもよかった。
希美がアイドルになった記念の日に、喜ばなくていつ喜ぶというのだろう。
それは数ある幼馴染達との思い出の中でも、一際輝く宝石のような記憶。
きっと青春というべき、とても大切な僕らだけの宝物。
それを大事に抱えながら、これからも彼女が歩く道を、隣でずっと一緒に歩いて行きたいと、強く強く願っていた。
きっと、初恋だったんだと思う。
夢を追いかける希美の傍に、僕はずっといたかったんだ。
―――だけど、本当にそう思っていたのなら、もっと早く気づくべきだったのだ。
相原拓斗という人間が、ずっと大切にしてきた宝石の価値に見合う存在であるのかを。
そうすればきっと―――あんな後悔をしないですんだはずなのだから
アイドルになってからの希美は、ずっと忙しそうだった。
彼女を採用した事務所は大手ではなく、最近新しく創設したばかりの規模の小さい会社で、業界から脱サラしたプロデューサーが独立して立ち上げたばかりの事務所らしい。
よく言えば新進気鋭。悪くいえば設立したばかりの知名度のない、所謂弱小事務所というやつだ。
そのためか、新人である彼女に回ってくる仕事自体は多くなかったらしいが、それが逆に希美にやる気を漲らせていた。
自分が有名になって恩返しをするのだと、楽しそうに笑っていたのを思い出す。
これまで以上にレッスンに力を入れ、どんな小さい仕事を渡されても、決して手を抜くことをしなかった。
駅前でのビラ配り。先輩アイドルのバックダンサー。各所への挨拶周り。
どんなことでも全力で取り組む彼女の姿勢に、好印象を抱く人も少なくなかったと聞く。
見ている人は見ているということだろう。
いつしかSNSでも期待の新人アイドルのひとりとして、時たま名前が上がるほどになっていた。
現にデビューライブも、新人としてはかなりの人数が集まったらしい。
ふたりに来て欲しいからとチケットを渡され、ワクワクしながらファンのひとりとして彼女のライブに参加した僕と冬華だったけど、そのときは周りの人の熱気にただ圧倒されるばかりだった。
アイドルに関しての知識はあれど、実際に現地で熱を感じるのは違うものだと思い知らされたのだ。
それでも彼らに負けないよう、僕らは僕らなりに全力で希望を応援した。
後で緊張してミスも多かったと語る希望だったけど、それでも最後まで歌い、踊りきった後に汗で髪が頬に張り付いている彼女の姿は、僕にはとても綺麗に見えた。
そうしてアイドルとして着実に歩み始めた希美。
彼女の人気は日毎に上がっていたが、比例するかのように、やがて僕らとの間に少しづつ溝が生まれ始めていく。
それは両者が過ごす時間のズレによるものだった。
その頃には僕はただの高校生として学校に通う毎日だったけど、希美はステージに上がるプロのアイドルであり、テレビに映るような芸能人のひとりになっていたのだ。
もちろん彼女を支えたいという気持ちは薄れてなんていなかったし、むしろますます強まっていたけれど、僕は所詮未成年の子供だ。
漫画やアニメなら、ただの高校生がふとしたことからアイドルのマネージャーになる…なんてことはよくあるけど、現実はそこまで甘くない。
事務所を尋ねて働かせて欲しいと頼み込んでも、せめて高校を卒業するか大学生になってからまた来なさいと、やんわりと断られていた。
そのことを恨んだりもしたけど、冷静になって調べ直したら出てくるのは法律に関することばかり。
深夜労働なんてさせたら警察に捕まるなんて文字を見たら、諦めざるを得なかった。
希美の夢がようやく叶ったというのに、僕のワガママで潰すだなんて、あっていいはずがない。
そうして自戒しながらも、僕は自分がまだ子供であることを悔み、焦れるような日々を送っていた。
その中に希美はいない。彼女は現在、大きなライブを控えており、各地を飛び回っていたからだ。
数年が経ち、希美のアイドルとしての地位は確実に上がっていた。
事務所にも少しづつだけど所属するアイドルが増えてきて、規模も大きくなっているそうだ。
その中心になっていたのは希美であり、今は先輩として相談に乗ることも多いらしい。
今の彼女は間違いなく、トップアイドルに近い存在として注目を集めている最中だ。
そんななかで舞い込んできた、大規模な単独ライブの企画。
今年のクリスマスに行われるというそのイベントは、間違いなく彼女にとってチャンスであり、夢であったトップアイドルへの挑戦権を手にしたも同然だった。
もちろんその話に乗らないはずがない。希美はすぐに快諾した。
そしてレッスンだけでなく、宣伝を兼ねてイベントへの参加も行っているため、ここ二週間ほどは学校にさえ来ていない。
ライブまで残り一ヶ月を切った今、季節は12月へと差し掛かっていた―――
「希美のライブ、成功するといいよね」
学校からの帰り道。隣を歩く冬華が寒そうに手を擦り合わせながら、僕に話しかけてきた。
「そうだね、僕もそう思うよ」
「あの子、昔からずっと頑張ってたもんね。なんだか遠い存在になった気分」
少し寂しそうに冬華は呟く。
今でも定期的に連絡こそ取り合ってはいるけど、それでも顔が見れないというのは、やはり不安に襲われるものであるらしい。
「うん…でも、応援しないと。希美の夢が、もうすぐ叶うかもしれないんだから」
それは幼馴染に向けてというよりも、自分に言い聞かせるために出た言葉なのかもしれない。
「拓斗はずっと希美のことを応援してたもんね。いつもふたりは一緒にいたし。ちょっと妬けちゃうかもなぁ」
「あまりからかわないでよ、真面目に答えてるんだからさ」
「私だって真面目に言ってるよ。ずっとふたりのこと、羨ましいなって思ってたし」
そう言って冬華は笑いかけてくる。
長い茶色のツインテールが、合わせるように微かに揺れた。
「それは…冬華だってずっと一緒にいたじゃないか」
「どうだろ。私はなんか、違うかなって。割と疎外感あったりもしたんだよね。今はまぁ、そういうのもなくなったんだけど」
「冬華…」
なんと言えばいいんだろう。
最近はこういうことが少なくなかった。
いつも一緒だった僕ら三人は、ひとり欠けたことにより明らかにバランスを崩していたのだ。
こうして冬華が自嘲げに話すのも、一度や二度のことじゃない。
希美がアイドルになってからそれは顕著であり、ふたりで帰っていると時たまこうして今まで見せなかった面を見せるようになっていた。
「そんなこと、言わないでくれよ。僕は冬華のことだって、とても大切に思っているんだから」
絞り出すような声だったと思う。
会話が続かなくなっているのを肌で感じていたけれど、それでも僕はこの関係を終わらせたくなんてなかった。
僕の傍からまた誰かが離れていって欲しくなかったのかもしれない。
「…気にしないでいてくれたほうがいいのに。もうこの話はやめよっか。ライブまであと少しだし、それが終わればあの子も時間が取れるようになるんだよね?」
「うん、そうだって、聞いてる」
「そっか。なら、また遊ぼっか。冬だし、暖かいところがいいなぁ。誰かの家でのんびりするのもいいかもね」
冬華はそんな提案をしてくる。
実際、話をそらしたかったのだろう。目を合わせてはくれなかった。
「そうだね。それも悪くなさそうだ」
頷くこの声は、彼女に届いているだろうか。
曇り空のように重苦しい雰囲気を抱えながら、僕らはただ無言で歩き続けた。
その後、家に帰った僕は部屋に戻ると、すぐに机に座りパソコンを立ち上げていた。
それは中学の頃からずっと行っている、もはや一種の癖のようなものだったけど、希美がアイドルになってからはアイドルに関することではなく、ただひとりの情報を集めるために用いていた。
「……今週も忙しいんだな」
SNSを検索し、彼女の現状を確認すると、僕はひとりごちた。
今の時代は名前を入力するだけで、簡単に欲しい情報を手に入れることができる。
ファン同士のネットワークを構築するのだって容易だ。
誰かしらが立ち上げたファンサイトを見れば、数分もしないうちに彼女の出た番組やイベントのスケジュールをおおよそ把握することができるのだ。
「ふう…」
今のネット時代はファンとの距離が縮まったと喜ぶ人も多い。
だけど、僕は逆だ。冬華が言った、希美と距離を感じるという言葉。
口に出しこそしなかったものの、それは僕としても同じ気持ちだったのだから。
昔から一緒だったはずの幼馴染。
いつも近くにいて、話すことができはずなのに、今ではこうして調べでもしなければ、彼女のことがわからなくなっていた。
それだけじゃない。調べれば調べるほどわかってしまう。
今の希美は、僕らだけじゃなく、既に多くの人間から認知されている存在になっているのだと。
ネットの海の中では、知らない誰かが希美のことを知っている。
いかに彼女が魅力的なのかを、昼夜問わずに語り合ってる。
その中には僕の知っている希美もいれば、知らない一面を見せたらしい彼女もいた。
僕の知らない希美を、多くの人が知っている。
そう思うと、胸が締め付けられるような感覚に襲われるのだ。
今の希美は、本当に僕の知っている天沢希美という女の子なんだろうか、と―――
ブーン、ブーン……
脳裏に浮かんだ疑問に囚われそうになったとき、スマホが震えていることに気付いた。
ぼんやりとした気持ちのまま視線を向けたのだけど、ディスプレイに表示されている名前を見て、僕は目を見開いた。そしてすぐにスマホに手を伸ばす。
「希美!」
「わ、びっくりした」
聞こえてきたのは驚きの声。それはずっと聞きたかった、女の子のものだった。
「あ、ごめん。驚かせちゃったかな?」
「ううん、大丈夫だよ。こっちこそごめんね?急に電話かけちゃって」
「いや、全然。嬉しかったよ、最近声を聴けてなかったから」
「そ、そう?それならいいんだけど…確かに連絡できてなかったね。最近忙しくて」
「うん、それも分かってる。頑張ってるよね」
こうして話すのも、随分と久しぶりな気がする。
電話越しとはいえ、直接会話することができているというだけで、抱いていた不安が消えていくようだ。
どんな些細な内容であっても、こうして話すことができるのは嬉しかった。
「それでね、確認したいことがあって、今日は電話したの。チケットはもう届いてるかな?」
「今度のクリスマスライブのチケットでしょ?大丈夫、ちゃんと届いてるよ」
僕は机の引き出しをチラリと見る。
その中には2枚分のライブチケットが収められていた。
ネットでは争奪戦も起こったと聞くのに、本人からこうして送られてきたことには、ファンのひとりとしては少し罪悪感を覚えてしまう。
「悪いね、ほんとなら、ちゃんと予約して買うべきなのに…」
「気にしないで。今回のライブだけは、どうしてもたっくんに来て欲しいから」
「え…」
「それにね、ライブ前にも、できれば会いたいんだ」
どうかな?そう尋ねてくる彼女の声に、心臓がドクンと飛び跳ねる。
「え、えっと。それって、冬華も一緒に…?」
「ううん。たっくんとふたりだけで会いたいの…ダメ、かな」
それは、まるで―――
「いや、ダメじゃない、けど…」
「ホント!?良かったぁ…じゃあその時になったらまた連絡するね!」
「あ、うん…」
「わたし、頑張るからね!それじゃ!」
一方的にそれだけを告げてくると、電話は切られた。
ツーツーという無機質な音だけが鼓膜に響く。
「ふたりだけで会いたい、か…」
さっきまでの会話を思い出す限り、最後の希美はとても上機嫌であったと思う。
それはつまり、僕が彼女の言葉に頷いたからということで…それに気付き、思わずスマホを強く握り締めていた。
「…………」
だけど何故だろう。
その時の僕はきっと、上手く笑えていなかった。
ライブ当日。その日が来るのはとても早かったように思う。
開演の時間よりかなり早く到着したつもりだったが、周りには既に多くの人で賑わっていた。
冬休みに入っているということもあるのかもしれないが、僕らと年齢が近そうな若い人もかなり多い。
冬華も物珍しそうな顔で、キョロキョロと辺りを見渡していた。
「へぇ、すごいね…会場が大きいと、それだけ集まる人が違うってことかな」
「うん。希美のために、これだけ多くの人が集まってくれたんだよ」
「確かに。でも男の人が多いなぁ。今日はクリスマスだから、きっと彼女がいない人ばかりなんだろうね」
「……それ、大きい声で言っちゃダメだよ、冬華」
危ないことを口にする冬華に釘を刺すと、僕は改めて辺りを見回した。
駅からほど近い場所にあるために、ライブ目的じゃない人たちもいると思うが、それでも同類というか、参加者だと分かる人は数多い。
これからもっと増えるはずだ。会場の収容人数を考えると千人、いや、もっとたくさんの人が、このライブに…
(こんな多くの人の中で希美は歌うのか…?)
そう思うと、思わず身震いしてしまう。
僕ならそんなの、絶対無理だ。できっこない。
希美はできるんだろうか。プレッシャーで押しつぶされたりしてないか?
今日は僕と会う約束もしてるけど、そんなことをするより、もっとパフォーマンスを上げて、失敗しないように努めたほうがいいのでは。
僕に時間を割くよりも、もっとやるべきことがあるはずだ。
わざわざ会うなんてどういうつもりなんだろう。冷静になって考えると、悪影響でしかないんじゃないだろうか。
冷や汗が背中を伝う。悪い想像が止まらない。
もしかしたら、僕が余計なことを口走ってしまって、ライブが最悪な結末を迎えるなんてことすら―――
「…………」
「拓斗?」
「え、あ、ああ…」
呼びかけられて我に返ると、冬華が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「ごめん、なんでもないよ。ちょっとボーッとしてた」
「なんでもないって、顔真っ青じゃない…大丈夫?もしかして体調悪いんじゃ…」
「大丈夫だから。今日は希美の晴れ舞台なんだよ、ちょっと風に当たって、体が冷えちゃっただけさ」
申し訳ないと思いながらも、言い訳を並べ立てた。
いろんな意味で寒々しいものになっているかのしれない。
「そう?じゃあ、ちょっとカフェにでもいかない?時間あるし、暖かい場所に行って休もうよ」
「そうだね。そうしよ―――」
その時、ポケットの中のスマホが振動する。
反射的に目を落とすのだが、このタイミングでの連絡となると、おそらく―――
「ごめん、その前にちょっとトイレ行ってきてもいいかな。人が多いし、もしかしたら時間がかかるかもしれないけど…」
「なら、私はお店で席を確保しておくね。無理しちゃダメだし、なんなら薬も買ってきたほういいんじゃない?」
言い訳に次ぐ言い訳だ。
それに気づかず、冬華は嫌な顔ひとつしないで僕を心配してくれる。
心がズキンと痛んだ気がした。そんな彼女を裏切るような真似をするのだから、当然かもしれない。
「うん、悪いね。すぐ済ませてくるから…」
「いいから。ほら、行きなよ」
自分勝手な罪悪感に駆られる僕の背中を、冬華は押してくれた。
その優しさに、胸が締め付けられるようだ。
だけど、本当のことを話すわけにもいかなかった。
頭を下げると、背中を向けてスマホを取り出す。
そこに表示されていたのは、やっぱり彼女からのメッセージだ。
画面に目を落として確認しながら、足早に待ち合わせ場所へと向かうのだった。
「ごめん希美、待たせたかな」
「あ、たっくん」
それから数分後。僕は希美と会うことができていた。
もちろん彼女はバレないように変装していたけど、その場所に立っていたのが希美であることはすぐにわかった。
「ううん、待ってないよ。大丈夫、今日は来てくれてありがとうね」
「いや、全然…その、希美は…」
こんなところで僕と会っていて、大丈夫なの?
喉から出かかっていた言葉を呑み込む。
これはかけるべきじゃないことはわかる。
不安を煽るようなことをしてどうするんだ。
「久しぶり、だね。こうして会うのも、いつ以来かな」
「多分3週間ぶりくらい?クラスの皆とも会ってないなぁ。あはは、学校卒業できるといいんだけど。勉強も追い付けないかもだし、最悪留年しちゃうかもね」
なんとか別の話題に切り替えることに成功するけど、内容は良くないものになった。
冗談めかして言ってはいるけど、こっちとしてはあまり笑えない話だ。
「それは嫌だな。僕は希美と一緒に卒業したいよ。できれば大学だって…」
「ぁ…うん、それは私も同じ気持ちだよ。変なこと言ってごめんね。今回のライブが終わったらしばらくは学業を優先できるようにしてもらえてるから、冬休みが終わったらまた一緒に学校に行けるよ」
「そう、なんだ。良かった…」
割と本気で安堵する。
ただでさえ希美と僕らの間ではズレがあるんだ。
もしアイドルに専念するために学校を辞める、なんて言われたら、どう答えればいいかわからない。
……それ以前に、こんな考えを持つこと自体、ダメなことは分かってる。
応援すると言ってた癖に、アイドルとして成功して、自分から離れて欲しくないだなんて、ひどい傲慢だ。
アイドルはみんなのための存在で、誰かひとりのものになんてしちゃいけない。こんなの常識じゃないか。
夢の達成まであと一歩のところまでこれた彼女に対する裏切りにほかならない。
だけど、認めざるを得なかった。
本心を語ろう。僕はこれ以上の変化は望んではいなかった。
希美のことが好きで、夢を応援したいけど、同時にいつまでも変わらない関係で有り続けたいと、そう願っていた。
そういう意味では僕は結局、ただの一般人しかなかったのだ。
「うん…私もたっくん達とは、もっと一緒にいたいから」
だからそう口にする希美の言葉に、僕は心底安心してしまう。
アイドルになったとしても、希美と僕はまだ同じ感覚を共有できているんだと、そう思えたから。
「そのためにも、ライブは絶対成功させたい…ううん、成功させる。そのためにずっと頑張ってきたんだから」
だけど、次の瞬間には、希美の雰囲気は変わっていた。
「あのね、たっくん。今日のクリスマスライブに、私は全てを賭けてるの。それこそアイドル人生そのものを。この舞台まで導いてくれた事務所のみんな、ファンの人達のために、私は全力を尽くすつもり」
それはオーラとでもいうのだろうか。
上手く言えないけど、彼女の気負いがすごく伝わってくる。
「う、うん…」
「だけどね」
気圧されながら頷くと、希美は一度大きく息を吐いた。
「最後に歌う曲だけは違うんだ。今日のライブのために披露する、とっておきの新曲なの。それだけは―――たったひとりのためだけに、歌いたいと思ってる」
「ぇ…」
「このことは誰にも言ってない。それはアイドルとしては失格の行為だもの。ファンの人達に対する裏切りだってことも分かってる。これは私のワガママ…だけど、どうしてもそうしたいの」
希美は僕の目を真っ直ぐに見つめてくる。
その意味が分からないほど、僕だって子供じゃなかった。
「そうじゃないと、きっと歌えない曲だから」
強い力のこもった目だった。
昔、ただアイドルに憧れていた頃に見せていた、夢に焦がれてキラキラしているだけの瞳じゃない。
(ああ、希美はもう…)
本当に、プロのアイドルになったんだ。
「答えはまだ聞かない。曲を聴いてもらうまでは…ライブが終わったら、改めてもう一度聞かせてもらうから」
それだけを言い残し、希美は去っていく。
その背中からは決意のようなものを感じられたけど、それより僕には彼女が遠くに消えていくような気がしてならなかった。
それはただの気のせいなのかもしれない。
だけど、そう感じたことは確かであり、それはきっと僕と彼女の間に起きていた決定的なズレ。
希美の瞳はもうとっくに―――僕の知らないものになっていた
大切だった宝物は、もうとっくに僕の手を離れていたんだ。
僕は立ち止まったままなのに―――希美はアイドルとして成長していて、駆け抜けていた
だけどプロのアイドルになった彼女が、僕のために歌おうとしている。
僕は君に離れていって欲しくないと思ってる、こんなに小さな人間だというのに。
そのことが、ひどく申し訳なくて。
幼馴染に申し訳なさを感じる自分が、とても情けなくて。
彼女とのあまりの違いに、僕はどうしようもなく泣きたくなった。
それから僕は希美と別れ、気付けばライブ会場の中にいた。
きっと冬華が連れてきてくれたんだろう。隣には彼女が座っている。
「ねぇ拓斗。本当に大丈夫…?」
不安そうな声だ。それと同時に暖かい感触が伝わってくる。
どうやら手を握られていたらしい。
それに今気付くとは、どうやら僕はかなり重症のようだ。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「うそ。だって…」
自分に言い聞かせるように何度も呟く僕に冬華が食って掛かろうとした瞬間、辺りは闇に包まれる。
周囲はざわつき始めるが、それは期待の表れだ。
これは彼女を際立たせるための演出であり、同時にライブが始まる合図でもあった。
「ほら、もうライブが始まるよ。静かにしないと周りの迷惑になる。前を向かなきゃ」
冬華はまだ何か言いたそうな顔をしていたけど、僕は無視して暗闇のステージへと目を向けた。
「…無理だけはしないで」
その言葉は最後まで聞き取れなかった。
ステージ上がスポットライトで照らされ、歓声がそこかしこでわき上がったからだ。
その中心にいるのは、たったひとりの女の子の姿。
彼女のために、ここにいる皆は集まった。
視線もこれからの時間も、全ては希美のためにある。
「みんなー!今日は来てくれてありがとー!精一杯頑張るから、今日のクリスマスライブおもいっきり楽しんでいってねー!!」
『うおおおお!!!』
『のぞみちゃーん!!』
『のぞみーん!!』
歓声が木霊する。
希美の挨拶で会場には一気に火がつき、熱が篭っていく。
そんな彼らに笑顔で手を振る希美は、まさに天性のアイドルだった。
「…………」
その姿を目に焼き付ける。
そうしないと、別の感情が今にも溢れてしまいそうだったから。
「それじゃあさっそく一曲目いっくよー!シューティング☆スター!」
僕を置き去りに、ライブは始まった。
希美のステージは、まさに圧巻の一言だった。
歌唱力からダンス、振り付けに至るまで、その全てが素晴らしかった。
演出だって見事なもので、彼女に応えるように全力を尽くしているのがわかる。
「~~~~!」
だけど、希美はそれ以上だ。
キレが違う。動きが違う。
だけど苦しい顔なんて一度も見せず、常に笑顔をふりまいている。
―――今日のクリスマスライブに、私は全てを賭けてるの。それこそアイドル人生そのものを―――
あの言葉に嘘はなかった。
僕はただただ圧倒的される。きっと周りの人もそうだろう。
応援に混じって、時たまため息や彼女を称える声が聞こえるくらいだ。
相当の練習を重ねたのは間違いない。
僕の心配なんて杞憂に過ぎず、希美はその自信に見合うだけの実力を、既に身に付けていたんだ。
初めてステージに上がった時の彼女とは、明らかに別人だった。
「ふう、さてもう結構歌ったね。今の曲、どうだった?こうしてライブで歌う機会があまりないやつだったから、ちょっと緊張しちゃった。でも、ちゃんと盛り上げることが出来たよね?」
『もちろんだよ!』『サイコー!!』
「ありがとう!すごく嬉しいよ!」
合間に挟まれるトークも淀みなく、流暢に喋ることができている。
明らかに慣れた人間のそれであり、観客を飽きさせることはない。
間違いなく過去最高のライブを目の当たりにして、会場は大いに盛り上がっていく。
「――――」
それと反比例するように、僕の心は冷めていった。
希美はとてもすごい子だった。
僕では想像できないくらいの努力をきっと重ねてきて、あんなにも堂々とステージの上に立っている。
彼女なら、きっとトップアイドルになれるだろう。
それに対し、僕はどうだ?
自分はいったい、なにをしているんだろう。
なにもしてなんかいない。今の僕は学校と家を往復するだけの、ただの高校生だ。
希美はあんなにも輝いているというのに、僕はこうして客席からその姿を見守るだけで、なにもしてあげることが出来ない。
いいや、それどころか、彼女を信じてあげることすら出来なかった。
勝手に不安がって、大丈夫かって思って。
馬鹿かよ、僕は。なに自分の尺度であの子を測ろうだなんてしていたんだ。
僕と希美じゃ、なにもかもが違うじゃないか。
そんなの、もっと早くに気づくべきだったんだ。
「う、うううう…」
遠かった。希美との距離が、今はあまりにも遠すぎる。
心も、体も、器と呼べるような、その全てが。
「ぐ、ぅぅ…」
気付けば目からは涙が溢れていた。
それは感動によるものではない、自分自身に向けられたもの。
彼女に釣り合うことがないと、心の底から理解できてしまった情けない自身への、悔しさからの涙だった。
「……拓斗、もう出よう?」
もうステージすら見ることができなくなっていた僕の手に、小さな手が重ねられる。
「冬華…でも…」
「ひどい顔してる。ライブが始まってからずっとそう。今のままでここにいても仕方ないよ。後で訳を話せば、希美だってわかってくれるでしょ」
そのまま強引に手を引っ張られた。
逆らう気力も残っていなかった僕は、なすがままに立ち上がった。
「みんなー!今日は本当にありがとう!最高のクリスマスイヴになったよ!だけどゴメンね、もっと一緒にいたいんだけど、次の曲で最後なんだ」
途端、湧き上がるのは悲鳴じみた落胆の声。
それを耳にしながら、間を縫うように僕らは歩く。
「ほんとうにごめん!だけど、絶対満足させて見せるから!これから歌う曲はね、今日のために作った、とっておきの曲なの!だからお願い、どうか最後まで聞いて欲しいな」
背後から歓声が聞こえる。
今日一番の声援だ。さっきとの落差も相まって、よく大きく聞こえているのかもしれない。
「ありがとう!それじゃいくよ、ミュージック、スタート!」
イントロが流れ始めた。
今希美がどんな顔をしているのか、どんなダンスを披露しようとしているのかは、もうわからない。
その曲は、たったひとりのために作ったと言っていたけど、それを聞くことなく、僕は会場の外に出ようとしている。
―――このまま帰ってしまって、本当にいいんだろうか?
残された恋慕の想いが、僕の足を一瞬だけ止めた。
「……行こう。早く、家に帰ろうよ」
だけど結局、もうひとりの幼馴染に逆らえなかった。
グイグイと僕の手を掴んで離さない、その力強さに負けたのだ。
……違うな、これもただの言い訳だ。
遠く離れたステージで歌うアイドルよりも、すぐ近くで手を取ってくれたその手の暖かさに、僕は―――
「聴いて!この曲のタイトルは『貴方のために歌うから』!」
ワアアアアア……
声が聞こえる。歓声だ。
ここにいる皆が私を見てくれて、私の歌で喜んでくれている。
そう思うと、止まってなんていられない。
正直体力はもうギリギリで、冬だっていうのにライトの熱と暑さで衣装の裏はびしょ濡れだ。メイクも大丈夫なのか不安になる。
「みんなー!今日は本当にありがとう!最高のクリスマスイヴになったよ!」
だけど、私はアイドルだ。ここに立っている以上、苦しい顔を見せることは許されない。
このスポットライトを浴びることができるのは、選ばれた人間だけだから。
そういう存在になれるよう、私は努力してきたつもりだった。
「だけどゴメンね、もっと一緒にいたいんだけど、次の曲で最後なんだ」
……ううん、違うかな。
私ひとりじゃ、ここに来ることなんてきっと出来なかったことだろう。
会場から湧き上がる不満の声に、私は内心苦笑する。
ラストの曲前の、半ばお約束のようなやり取りだけど、こうしてファンの人たちの気持ちを直に感じ取れるというのは決して悪いものじゃない。
(たっくんも、残念がってくれているかな…)
そうだと嬉しいな。
でも同時に、待ち焦がれてくれていたならもっと嬉しいとも思う。
会場は暗くて、正直よく見えない。
だけど、彼は間違いなくここにいる。
私のことを見てくれている。
そう思うだけで―――力が不思議と、体の奥から湧き上がるんだ。
「ほんとうにごめん!だけど、絶対満足させて見せるから!これから歌う曲はね、今日のために作った、とっておきの曲なの!」
事前に伝えてはいたけれど、これから歌うのは、私の大好きな幼馴染に向けた曲だ。
ずっと夢を応援してくれた、彼だけに捧げる曲。
『マジで!?新曲!?』『最高のクリスマスプレゼントじゃん、ありがとのぞみーん!!』
喜びの声が、イヤモニ越しに届いた。
皆が喜んでくれればくれるだけ、チクリと罪悪感が湧き上がる。
普段ならとても嬉しいことだけど、ここからは違う。
私は今からこの会場全ての人を裏切ることになる。
アイドルでなく、ただの天沢希美としてステージに立つことになるのだから。
「だからお願い、どうか最後まで聞いて欲しいな」
アイドルという殻を脱げば、私はただの女の子だ。
さっきと同じ場所にいるはずなのに、見える世界がまるで違う。
緊張で胸が張り裂けそう。怖くてうずくまってしまいそうになる。
だけど、それでも―――
「ありがとう!それじゃいくよ、ミュージック、スタート!」
この曲だけは、譲れないの
「聴いて!この曲のタイトルは『貴方のために歌うから』!」
何度もくじけそうになった。
何度も諦めようと思った。
でもそのたびに、貴方が私を支えてくれた。
だから、この曲は、たったひとりの貴方のために
私は―――今この瞬間だけは、貴方のために歌うから
だからどうか、届いて欲しい。
私の想い、私の気持ち。
私の全てをただ―――あなただけのために
歓声が聞こえてくる。
きっと今頃、ライブが終わったのだろう。
僕は外のベンチへと腰掛け、寒さに身を縮こまらせていた。
「寒い…」
会場の外は真っ暗だった。
時間も夜の8時を回ってる。これからライブを終えて帰宅する人たちは、すぐにこの寒空を味わうことになるはずだ。
……いや、そんなことはないか。
あれだけの盛り上がりを見せたライブだ。
寒さなんてどこ吹く風で、きっと感想をしきりに言い交わすに違いない。
その熱気を保ったまま、電車へと乗り込んで、SNSへと次々に感想を書き込むことだろう。
そして噂が噂が呼び、彼女の名声はうなぎ登り。
正しくシンデレラストーリーだ。
階段を駆け上がり、彼女の地位はより磐石なものになる。その確信があった。
今日のライブは、間違いなく伝説になる。
あの会場にいた人間なら、皆この感覚を共有しているに違いない。
今日という日を持って、天沢希美は晴れてトップアイドルの仲間入りを果たしたのだ。
まさに聖夜の奇跡といえる。
希美にとって、最高のクリスマスプレゼントになったはずだ。
「……何考えてるんだ、僕は」
違う。プレゼントなんかじゃない。
希美は自分の手で、今この瞬間夢を勝ち取ったんだ。
全て彼女自身の力によるもので、与えられたものなんかじゃないというのに。
どこまであの子を貶せば気が済むんだろう。
僕という男は、どこまでも希美に釣り合わないやつだった。
「……なに黄昏てんの」
項垂れる僕の前に、一筋の影が差し込んでくる。
顔をあげると、街灯に照らされた幼馴染の顔がそこにあった。
「ほら、コーヒー。さっさと帰ろうっていったのに、風にあたりたいとかバッカみたい。ほんとに具合悪くなっても知らないからね」
そう言いながらも、コンビニ袋から自分の飲み物を取り出して横に座ってくるあたり、なんだかんだ付き合いがいい子だと思う。
熱さの残る缶コーヒーは、かじかんだ指先にはありがたかった。
「いっそそのほうがいいかもね。希美に会わなくて済む口実にもなる」
「……それ、本気で言ってるなら殴るからね」
グビリと自分の缶を煽りながら、冬華は少し怒った声で言った。
「冗談だよ」
「どうだか…あ、雪…」
力のない笑顔を向けたのだが、冬華は僕を見ずに上を見上げた。
釣られて僕も暗い夜空へと目を向けるが、彼女の言ったとおり、天からハラハラと白い銀華が舞い降りていた。
「珍しいね、こっちで雪なんて…」
「あの子が手繰り寄せたんじゃない?愛されてるのよ、きっと。いろんなものからね」
揶揄うような、どこか諦めているような声だ。
帰り道に聞いたそれとは、性質が違うような気がする。
「……拓斗も、そうなんでしょ?」
「え…」
心臓が跳ねる。
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「今日いなくなったのも、希美と会っていたからじゃないの。わかるよ、そういうのは」
「冬華…気付いて…」
「……やっぱり本当だったんだ」
それはカマかけだったと気付くけど、既に遅かった。
冬華は大きく白いため息をつく。
「そんなことだろうと思ってた。私にもね、連絡は来てたの。内容は言わないけどね。まぁ、会うくらいはしてたんだなって。だからあの子とは両想いだと思ってたんだけど…」
「…………」
「その様子だと、違ったみたいね」
違わない。冬華の言っていることは正しい。
僕らはきっと両想いだった。僕が勝手に、心が折れさえしなければ。
「振られた男と相手がいない女がふたり、クリスマスになにしてるんでしょうね」
下を向く僕とは対照的に、冬華は空を見ている。
本当に、いったいなにをしているんだろう。
「―――ねぇ、私達、付き合おうか」
そうして落ち込んでいたものだから、その声に気づくのに、一瞬遅れてしまった。
「え…」
「だから、付き合おうかって言ったのよ、私達。ちょうど雪が降り始めて、ホワイトクリスマスじゃない。ロマンチックだし、拓斗ならいいかなって。そうすればずっと一緒にいられるし、いいことづくめじゃないの」
なにがいいのかわからない。
冬華と恋人?そんなの、考えたことなんて―――
「私ね、あの子のこと、ずっと苦手だったの」
「とう、か…」
突然、なにを言い出すんだろう。
「私より可愛くて、なんでもできて。いつもあの子の周りには人が集まってた。拓斗は男の子だからわからないかもしれないけど、女の子同士だとね、結構辛いのよ、そういうの。コンプレックスっていうのかな。多分そういうのを、あの子に対して持っていたと思う」
それはまるで懺悔のようだった。
なにか悪いことをしたわけではないのに、彼女の告白は何故か胸が締め付けられる。
「だからさ、これは私なりの復讐でもあるの。拓斗だってあの子に振られたなら、仕返しのひとつでもしてやりたいと思わない?あの子はアイドルで彼氏だって作れないんだから、幼馴染の私達がカップルになれば、きっと悔しい顔のひとつやふたつ見れるでしょ」
それは違う。
希美は今日、告白しようとしていたんだ。
想いを歌に乗せるつもりだった、はずだ。
その歌はきっと、僕に向けた―――
「だからそのために、これから拓斗にキスするから。嫌なら拒否しなさい。そうじゃなければ、私たちはこれから恋人だからね」
混乱していた僕に、冬華は強引に迫ってきた。
端正な顔を寄せてくる。瞳が合うが、その目は本気だと、力強く訴えていた。
「とう―――」
「いいじゃない。あの子は忘れましょう。もう希美は私達の幼馴染じゃない。みんなの『アイドル』なんだから」
アイドル。
その言葉を聞いた時、僕はフリーズしてしまう。
ああ、そうなのか。それは希美だけでなく、いつの間にか僕のことさえ―――
「んっ…」
思考が飛んだなかで、僕の唇は奪われていた。
目の前には目を閉じて微かに震える冬華の顔が。
きっとこれなら、引き剥がすことは容易だろう。
だけど、抵抗する気はなかった。
むしろ手繰り寄せるように、僕は彼女の肩を強く掴む。
「あっ…」
微かに漏れる声を無視して、僕は縋るように冬華を思い切り抱きしめていた。
思えば僕はもう決めていたんだ。きっと、彼女に手を引かれたその時から。
それがたとえ自分を誤魔化すための言い訳であっても。
この寒さをなくすことができるなら、それでいい。
ワアアアアアア……
『……がとう、みんな!ありがとう…!』
静かに雪が降り続けるなかで、遠くから微かに聞こえるアンコールと、抱き締めた冬華の小さな白い吐息だけが、僕の耳にいつまでも残り続けた―――
貴方のために歌うから くろねこどらごん @dragon1250
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