第33話 彼女が教えてくれた「私の中のあなた」

 その日学校が終わった俺は、いつも以上にそわそわしていた。


 昨日、咲恋と約束したからだ。

 横浜の港で、ノルンが砕け散った後、俺の非難に咲恋は泣きながら答えた。


「明日全てを粒斗に話すわ」

「……ノルンはどうなった」

「大丈夫よノルンは。心配しないで形を変えただけよ。それも明日話す」


「意味がまったくわからない俺はドキドキし放題だった」

「その点はすみませんね。でも半分以上は、粒斗さんのエッチな妄想の、ドキドキだと四捨五入すると、100%粒斗さんの妄想で、終わった事になります」

「俺のエロへの探求心を切り上げるなよ!」

 ……って、おい! いつもの咲恋の口調と違う、まるでノルンのような。

 さっきノルンを吸収したから!?


 海を見ていた咲恋、風にながれるウィンターロング。


 見つめると、クリムゾン色の髪と色白で、桃の花ビラのような色の頬を、伝って降りる涙の跡。見違うことなく咲恋だ。


「ノルン、私もこうなる事を望んでいたから」

  強い風で空中に広がる、ウェーブの掛った長い髪。


「帰りましょう。あなたが存在する世界へ」

 なびく髪を押さえた咲恋がやっと微笑んだ。



 咲恋と約束した今日、授業を終えた俺は咲恋を待っていた。

 全く読めない展開に、本番とアドリブに弱い俺は落ち着かない。


「待たせてごめんね!」

 いつもと、変わらない様子で走ってくる咲恋。

「じゃあ行きましょうか」

 元気なかけ声、いつもどおりに歩き出す咲恋。

 いつも二人で下った坂道の途中で、咲恋が聞いてきた。


「二人でこうして、夕日を浴びて帰るのは何度目かしら」

「うん? 回数が大切なのか?」

「そうよ。もっと、もっと……続けたかったんだ」

「別に一緒に帰るなんて、いつでも何回だって出来るだろ?」

「人は歳を経るの。そのうち、私もお婆ちゃんになって、粒斗と一緒にいられなくなるわ」

「そんなのはずっと先の話だろう? 俺達はまだ高校生だ」

「そうね。ここではまだ先の話だよね」


 昨日の咲恋の冷たい強さ、そして今日の暖かい弱さ。

 まるで別人のような感じがする。

 そんな咲恋を見ていると不安が大きくなる。

 このまま何も聞かずに、こうして変わらない日々を過す。

 俺は自分で頼んだ事を撤回したくなった。


「咲恋……俺、このままでもいい……昨日言った事は話さなくてもいい」

 少しの間、俺の顔を見ていた咲恋が口を開く。


「今日は違う道を行こっか!」

「な、なんだ。いきなり」

「いいから、こっち」


 咲恋に誘導されるまま、いつもの帰宅ルートを外れていく。

 いつもの行動範囲から外れると、同じ街でもこんなにも景色が変わるのか。

 もしかしたら、ここは特別な空間なのかもしれない。

 そう感じる程に、今いる場所は不思議な静寂に満ちていた。

 目の前にかなり背が高い、廃墟のビルが見えてきた。


「着いたよ。さあ、ここよ粒斗」

「……こんなとこ、入っていいのか?」


 老朽化した建物。取り壊し寸前のように見える。

「うん、大丈夫だよ」

「おまえの、その大丈夫は、何の根拠で言っている?」

「……ここはね、あと十年経つと、きれいに建て直されるの」

「なんで、そんな事が分るんだ?」

「立て直された大学の新校舎……ここであなたと逢うから。あなたはちょっと偉そうに、ここに私を呼び出すの。そして私はすごく緊張してね、光栄です粒斗教授! とか呼んじゃって……あなたに笑われるの。ちょっと悔しかったなぁ」

「まじに、エックスメンに近づいてきたな咲恋。未来が読めるのか……」


 放置された建物は、所々が崩壊していた。


 咲恋は慣れた足取りでがれきを避け、建物の上部を目指して進んでいく。

 後ろから着いていく俺。咲恋は、白いブラウスに赤い大きなリボンのネクタイ。

くずした襟もとからはシルバーの小さなペンダントが覗く。


「少し寒いね」

 肌寒さにクリーム色のカーディガンを羽織っている咲恋が呟く。

 廃墟の中は太陽の光が届かず、内部は冷たく湿っぽい。

 最後の階段を登り、屋上の扉を開ける咲恋。


 オレンジ色の太陽がいつもより大きく、街を照らしていた。


「咲恋、なんでここに連れてきたんだ?」


 髪留めを外したウェーブの掛った咲恋の長い髪は、自由に風に乗り、宙で夕日を浴びて輝きながら流されている。


「感じて欲しいから……ねえ粒斗。私ね、してみたい事があるの」

「え? なんだよ」

「……キスして」

「はぁあ? 誰と?」

「私とじゃ嫌?」

「そ、そんな事はないが……おまえはキスなんて慣れたもんだろ?」

「ううん、私はキスをした事ないよ。粒斗が始めての人だよ」


「え? そうなのか。おまえなら、キスの相手くらい、いくらでチョイス出来るだろう?」

「好きでもない人に、いくら好きと言われても、そんなの困るだけよ」


 前に聞いた咲恋の言葉だった。


「じゃあ、俺はおまえの初めての相手になるわけだ」

「そうよ。嬉しい?」

「キスした……その後はどうなる?」

「あのさ、キスの先の行為は、考えなくてよろしい!」


 近づいてくる咲恋の瞳、そして厚めの唇。


「ま、まて俺はアドリブに弱いから……ちょっとまて」

「いいよ、二人とも初めてなんだから」

「なんでそう決めつける? 俺は経験者かもしれないだろう?」

「そう……じゃあ、リードは任せていいのね?」

「す、すんません、嘘つきました……まったくの初心者です」

「うふふ、不思議ね、女の子とキスもした事がない男の子が、エロい方面では多大な知識を持っているなんてね」


「二次元とリアルは違う。いきなりこうなっては、心の準備も出来てないし」

「いきなりじゃないわ。私は待っていたのよ……五十年以上もね」

「はあ?おまえ今16歳だろ? 今年は17歳で、来年は18歳で……それで」


 うろたえる俺は、あたりまえの事を言い始めた。

 こんな状況ではなにを言っていいか、まったく分らない。

 俺の様子を見ていた咲恋が悲しそうな顔をした。


「やっぱり、嘘だったんだ。私じゃなくても良かったんだ」

「ち、違うぞ! 俺はおまえを大切に思っている……その……うっ!」


 咲恋が俺の首に手をまわし、身体を預けてきた。微かに花の匂い。背が高い咲恋の瞳は俺と同じ視線。桃の花ビラのような色の頬と唇。初めてのキス。

 瞳を閉じた咲恋を、躊躇していた俺の両手が反射的に抱きしめる。


 いつも明快で活発な咲恋は消え、そこには怯える少女がいた。

 風に広がったウィンターロングの髪が俺の身体を覆う。

 二人の顔が長いウェーブの掛った髪に隠れた。


 初めてのキスは、ぎこちないけど、長くて心が入ったものだった。

 ゆっくりと、唇を離すと咲恋は花のように笑顔を見せた。


「な、なんで、おまえは、俺を好きなんだ? おかしいだろう? 雨音子咲恋が、俺みたいな奴を好きなんて!」

「少し静かにしてね。余韻があるの……女の子にはムードが必要なのよ」


 初めてのキスで興奮する俺をなだめる咲恋。


「私は小学校から粒斗に片思いだった」

 違う、根幹的に何かが違う。そして、咲恋自身も。前に俺の家で、咲恋に触れた時触感がまるでなかったが、今日はありすぎる、肉感的なぐらい女子を感じる。


「私あなたに抱かれてみたかった……痛いくらい。今のあなたには難しい事、でも本当の粒斗には女を抱くなんて簡単な事。さあ感じてみて、あなたの頼みと私の想いを」

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