自分の思い出

「変だな」


 奇妙な違和感だった。網戸の外に広がる風景は思い出の中のそれとほとんど同じなのだ。灯り始めた白熱電球の街路灯。真っ直ぐ伸びるアスファルト舗装の市道。県道との交差点にある歩道橋。


「違う」


 今日、この家へ来るときに見た光景とはまるで違っていた。街路灯はLED照明だった。市道はコンクリート舗装だった。交差点の歩道橋は撤去されスクランブル式だった。遡の目に映っているのは現在の町並みではない。この家を出る前に見ていた数十年前の風景だ。


「どういうことだ」


 遡は網戸を開けると頭を外に突き出した。一瞬で風景が変わった。白熱電球はLEDに、アスファルトはコンクリートに、歩道橋は消滅してスクランブルに。ここへ来る前に見た光景が広がっている。

 遡は頭を引っ込めた。窓の外はまた過去の風景に戻った。頭を外に出した。また現在の風景に変わった。


「まさか」


 遡は窓を離れて子供部屋の扉を開けた。廊下も壁も天井もまるで新築のように汚れも傷みもない。だが部屋の外に出たとたん、それらは築五十年にふさわしい内装へ変わった。窓辺で起きたのと同じ現象だ。


「この部屋だけが過去に取り残されている、そういうことなのか?」


 廊下から子供部屋を見ても様子は変わらない。壁掛けカレンダーは二〇二〇年七月になっている。遡が就職のために家を離れたのは二〇二二年。その時のまま残されているのならカレンダーも二〇二二年のはずだ。この部屋で囲まれたこの空間だけが二〇二〇年七月の時を保持し続けている、そう考えるしかなかった。


「だから何も変わっていなかったのか」


 遡はもう一度部屋に入って扉を閉めた。そこは紛れもなくあの当時の空間だった。懐かしい思い出がよみがえる。窓際の自分の机、廊下側の兄の机。その机に座って兄はいつも本を読んでいた。そして亡くなった後は机に遺影が置かれた。今、机には遺影がない。この時代の兄はまだ生きているのだ。遡の胸が高鳴った。


「ここで待っていれば兄に会えるのでは」

「えっ、泥棒?」


 突然部屋の扉が開いた。遡は驚きのあまり絶句した。開いた扉の向こうに立っていたのは遡、高校生の自分だった。


「いや、私は」


 遡はその先を続けられなかった。真実を話しても信じてもらえるはずがない。高校生の遡がスマホを取り出した。警察に連絡するつもりだろう。


「ま、待て。私は怪しい者ではない。君は遡君だろう。私は、私は、そう、君の兄が就職を希望している会社の者だ」

「兄さんの?」


 高校生の遡がスマホから目を離した。自分の名を呼ばれて泥棒ではないのかもしれないと思い始めたようだ。


「その会社の人がどうして勝手に人の家に上がり込んでこんな場所にいるんですか」

「それは、つまり、今日はお兄さんと面接の約束をしていたのだが、約束の時刻に間に合いそうにないので家で待っていてくれと連絡があったのだ。家の鍵を開けておくから中で待つようにと。それで待っていたのだがなかなか来ないので、ちょっと君たちの部屋を覗き見させてもらった。気分を害したのなら謝る。申し訳ない」

「そうですか。でも玄関にあなたの靴が置いてあったかな」


 普段は抜けているのに今日に限って頭が回る。遡はその疑問をはぐらかすように質問を投げつけた。


「お兄さんから聞いているよ。君は就職には反対なんだって」

「ちっ、そんなことまで喋っているのか」


 目上に向かって舌打ち。高校生の自分の無礼な態度を見て遡は少し恥ずかしくなった。


「はい。反対です。兄には大学に進んで学者になってほしいですから」

「でもそれは就職してからだってできる。お兄さんはそのつもりだよ」

「ふん、あなたも兄と同じ意見ですか。そんな話は聞きたくありません」


 ああ、この頃の自分はずいぶん意固地で生意気だった。他人の話にはまったく耳を傾けなかったからな……遡は不思議な気持ちだった。高校生の自分との対話。間違いなく自分自身なのに他人と話しているような気がする。きっと向こうも話している相手が未来の自分だとは思ってもいないだろう。時の流れが持つ人を変える力、その大きさを遡は痛切に感じた。


「あの、ひとつ訊いてもいいですか」

「構わないが」

「何をしている会社なんですか」


 その質問は遡を数十年前に引き戻した。同じことを兄に訊きたかった。どこのどんな会社で働くつもりなのか兄の考えを知りたかった。だが訊けないまま兄は逝ってしまった。目の前にいる高校生の遡もまた同じ気持ちなのだろう。

 遡は昨年定年退職した企業名を言った。高校生の遡はきょとんとしている。中小企業なので知らなくて当たり前だ。


「それ、何をしている会社なんですか」

「レンズを作っている。たとえば天体望遠鏡のレンズとか」

「天体望遠鏡! じゃあ星を見たりとかもするんですか」

「部署によってはな」


 高校生の遡の顔が輝いた。苦い思い出だった。兄の希望就職先を知ったのは初七日を終えてからだ。兄は兄なりに自分の夢を追い掛けようとしていたのだ。わかっていれば素直に応援できたのに、かたくなに兄との会話を拒んでいた自分はそんなことすら知らなかった。後悔の念に駆られた遡は、せめて兄の意思だけでも継ごうと自分の就職先をその会社に決めたのだ。


「そうか。兄さん、やっぱりまだ諦めていないんだ。あの、兄のこと、よろしくお願いします」


 高校生の遡が深々と頭を下げた。変わり身の早さは相変わらずだ。遡はクスリと笑った。


「少し腹が減ったな。そうだ、一緒にメシでも」

「メシ?」


 言いかけて遡は思い出した。この部屋からは出られないのだ。出た瞬間、元の時代に戻ってしまうのだから。高校生の遡とはこの部屋が作る空間内でしか一緒にいられないのだ。


「ああ、いや何でもない」

「メシはもう食べてきました。日曜は昼も夜も食堂で食べるんで」


 そうだった。そんなことも忘れていたのか。遡は苦笑いしたが同時にあることに気がついた。日曜日、この部屋の中では今日は日曜日なのだ。カレンダーを見る。二〇二〇年七月、兄が逝った月だ。


「今、日曜日と言ったね。今日は七月の何日なんだ」

「二十六日ですけど」


 全身に震えが走った。そしてなぜ自分がこの時代に送られてきたのか、その理由が少し飲み込めた気がした。今日は兄が亡くなった日だ。


「暑くないですか。扇風機つけますね」


 そうだ。あの日も食堂で夕食を済ませた後、扇風機をつけてしばらく休んでいた。外の涼しい風に当たろうと窓辺に近寄り、一番星を眺め、兄の姿を見つけ、そしてあの事故が起きた。高校生の遡と会話していた時間を考えると事故が起きるまでの時間はほとんど残っていないはずだ。


「どうする!」


 遡は窓辺に駆け寄った。兄の姿は見えない。急げば兄を助けられるかもしれない。だがどうやって助ける。この部屋からは出られないのだ。一歩でも外に出れば元の時代に飛ばされてしまうのだから。


「一番星でも見えますか」


 高校生の遡が横に立った。あの時と同じように時間が進んでいる。早く何とかしなくては。


「ああ、もうこんな時刻か。困ったなあ。まだ来ないのかなあ。遡君、すまないがお兄さんに電話をかけてくれないか。私のはバッテリー切れで」

「いいですよ」


 高校生の遡がスマホを取り出した。よし、これで時間が稼げる。少しでもタイミングがずれれば事故に遭うことはないはずだ。遡は祈るような気持ちで高校生の遡を見つめた。


「変だな。出ない。つながってはいるんだけど」

「そんな馬鹿な。もう少し鳴らしてくれ」


 遡の顔に汗がにじみ出た。運命は何をしても変わらない、たとえ時間を巻き戻しても。どこかで聞いたそんなフレーズが頭をよぎる。


「やっぱりダメだ。きっと運転中で出られないんだ。メールでもいいですか」

「メールならなおさら着信を無視される。今足止めしないと手遅れになるんだ」

「じゃあ諦めるしかないですね」


 諦める? そんなことできるわけがない。ここへ送り込まれたのは兄の死を阻止するため、それ以外に考えられない。このまま何もせずに元の時代へ戻ったら死んでも死にきれない。遡は高校生の遡の手を握った。


「お願いだ。今すぐあの交差点に向かってくれ。君の兄さんも交差点に向かっているはずだ。そして私のことを伝えてくれ」

「えっ、それなら自分で行けば……」

「私は行けないんだ。理由は言えないがここから動けないんだ。頼む。一生のお願いだ。すぐ交差点に向かってくれ。今は君に頼むしかないんだ。兄を、私を助けてくれ」

「……そこまで言うのなら」


 遡の勢いに押された高校生の遡は少し不貞腐れながら部屋を出て行った。窓から下を覗き込む。自転車に乗った高校生の遡が市道を走っていく。交差点にはまだ兄の姿は、


「あれは!」


 遡は息を飲んだ。交差点の向こうにスーパーカブが見える。白いヘルメットも見える。兄だ。交差点の手前で止まった。信号は赤なのだ。しかしそれが青になった瞬間事故が起きる。もはや少しの猶予もない。


「自転車は」


 まだ距離がある。気が乗らないのか高校生の遡はのんびりと漕いでいた。このままでは交差点に着く前に信号が変わりそうだ。


「急いでくれ。早く早く!」


 遡は叫んだ。気ばかりが焦る。このまま兄は死ぬのか。やはり運命は変えられないのか。遡の目に涙があふれた。何もできない自分。あの時もそして今も、兄の不幸を知っていながら何もできない、そんな自分の無力が情けなくて仕方がなかった。


「兄さん、ごめん」


 遡がそうつぶやいたとき、眼下の風景が少し揺らいだ。自転車のスピードが上がった。高校生の遡が立ち漕ぎしている。交差点に目をやると兄は手を振っていた。気づいたのだ。兄も高校生の遡も、互いの姿が目に入ったのだ。遡の瞳に希望の光が戻ってきた。これなら間に合うかもしれない。兄は助かるかもしれない。


「大丈夫だ、間に合う、間に合う」


 青が黄に変わる。さらに速度を上げる自転車。黄が赤に変わり矢印が出る。自転車は少しもスピードを緩めない。矢印が消える。自転車が交差点に突っ込む。赤が青に変わる。突っ込んでくる赤いスポーツカー。爆音。撥ね飛ばされて宙を舞う体。遡の心臓が凍り付いた。


「やはり運命は変えられなかったのか」


 だがそれは間違いだった。撥ね飛ばされたのは兄ではなく高校生の遡だった。兄はバイクを発進させず高校生の遡が来るのを待っていたのだ。事実を確認した遡は安堵した。同時に自分の体の異変に気づいた。両手がガラスのように透き通り始めている。


「そうか。高校生の自分は間もなく死ぬのだな」


 高校生の遡が死ねば未来の遡は存在できない。彼の命の灯が消えた瞬間、自分もまた消滅するのだろう。しかし遡は少しも後悔していなかった。これで兄も両親も救われる。兄の賠償金で自分たちが救われたように、今度は自分の賠償金で三人を救うことができる。遡は満足だった。


「ああ、兄の顔が見える。意識が混ざり合っている」


 今、遡の目の前には兄がいた。涙を流しながら自分を見ている。これは高校生の遡の意識なのだろう。血が口から流れ出るのを感じながら遡は笑みを浮かべた。これで兄さんは幸せになれる。もう就職する必要はない。大学へ行って天文学者になって毎晩星を見て暮らせるんだ。そして家庭を持って父さんや母さんに孫の顔を見せてやれるんだ。自分にはできなかった。でも兄さんならできる。

 そんなに涙を流さないでくれ。悲しむことはないんだ。私はもう十分自分の人生を生きた。満足している。次は兄さんの番だ。ずっと兄さんの優しさに甘えてばかりだった私がようやく兄さんの役に立てた。それが嬉しいんだよ。

 ねえ、兄さん。どうして兄さんが死の間際に笑顔を見せてくれたのか、その理由がやっとわかったよ。自分が死ぬことで私たち三人を幸せにできると思ったからなんだね。でも私はそんな兄さんの意思を踏みにじってしまった。自分もそして父さんも母さんも不幸にしてしまった。だけど兄さんは幸せになって欲しい。だから私も笑顔を返すよ。あの時の兄さんと同じように。

 ああ、体が薄れていく。最期が近いみたいだ。あの一番星はこと座のベガだね。昔兄さんが教えてくれた。それからこんなことも教えてくれたっけ。人は死んだら星になるって。これからは星になって兄さんを見守るよ。天文学者になった兄さんはきっと私の星を見つけてくれるはず。そしたらふたりでお喋りしよう。幼い頃のようにくだらないことで笑ったり怒ったりして毎晩楽しく過ごすんだ。その時が来るのを夜空の片隅で楽しみにして待っているよ。兄さん……

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懐かしい部屋 沢田和早 @123456789

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