懐かしい部屋

沢田和早

兄の思い出

 ひどく懐かしかった。

 さくは二階の部屋に入ると久しぶりに見る光景に胸が震える思いがした。誰も使わなくなって何十年もたつはずなのにきれいに掃除されている。昨年還暦を迎えた自分の老いが恥ずかしくなるくらい、その部屋は若者の活気に満ちていた。


「ここだけは何も変わっていない。家を出た時のままだ。母も父も思い出を壊したくなかったのだろうな」


 兄と二人で使っていた子供部屋。二段ベッドの上は遡、下は兄。窓際の勉強机は遡、廊下側は兄。どちらも遡の希望でそうなった。


「遡の好きな方を使えばいい。兄ちゃんはどっちでもいいんだ」


 ひとつ上の兄は優しかった。いつでも遡の言う通りにしてくれた。兄弟げんかなどしたくてもできなかった。対立したときはいつでも兄が折れてくれるからだ。


「だがあの時だけは違った。温厚な兄があれほど自分を主張したのは初めてだった。私だけでなく父も母もさぞかし驚いただろうな」


 遡は二段ベッドの下に腰掛けた。いつも兄が寝ていたベッドだ。昔の記憶がよみがえる。思ってもみなかった。兄との初めての口論、それが兄との最後の会話になるなんてどうして想像できただろうか。


「間違っているのは兄ちゃんだよ」

「いいや違う、間違っているのはおまえだ、遡」


 遡が高校二年のとき、世界的規模で新型ウイルスが蔓延した。感染拡大を阻止するために各国は緊急事態宣言を発令。父と母が二人で切り盛りしていた小さな食堂も閉店を余儀なくされた。収入の道を断たれ、わずかな蓄えを取り崩す日々。政府から支給された給付金も税金や新築したばかりの家のローン、日々の生活費などであっという間になくなった。


「進学はやめて就職するよ」


 兄がそう言い出したのは休校措置が解除された六月だった。


「このままじゃ満足に受験もできないだろうし来年の大学の授業もどうなるかわからない。家も大変だし卒業したら働くよ」


 父と母は何も言えなかった。進学させてやりたい気持ちはもちろんあった。しかし兄の就職によって不要になる学費と増える収入を考えれば、兄の好意を素直に受けることしかできなかったのだ。


「そんなの絶対にダメだ。認めない」


 遡は猛烈に反対した。自分と違って兄は昔から成績優秀だった。小学も中学もクラス委員を務め、通っている高校は地元でも有数の進学校だ。


「兄ちゃん、子供の頃から言っていたじゃないか。空の星々にはまだたくさんわからないことがある。それをひとつでも解き明かせればいいなあって。大学に行って天文学者になるのが兄ちゃんの夢なんだろう。今でも晴れた日には毎晩空を見ているじゃないか。なのにどうしてそんなに簡単に夢を諦められるんだよ」

「遡、就職することと夢を諦めることは同じじゃない。働きながらだって星は見られる。それにこの騒ぎが収まって家の食堂が以前のようになれば、そのときに大学に入ることだってできるんだ。わかってくれ」

「だったらオレが働くよ。高校を中退して働く。どうせ卒業したら就職するんだ。一年ちょっと早くなったって同じだろう」

「いや、中退はダメだ。高校はちゃんと卒業しろ。兄ちゃんのことは心配してくれなくてもいい。おまえはおまえのことだけを考えていればいいんだ」


 兄は考えを曲げなかった。それどころか食堂の手伝いまでするようになった。少しでも収入を増やすために弁当の配達サービスを始めたのだ。兄は原付の免許を取り、放課後や休日は弁当の配達を手伝った。


「オレも働く! 店を手伝う」


 遡の言葉は受け入れられなかった。成績が悪くて落第スレスレだったからだ。


「おまえの仕事は勉強だよ。一所懸命働いて稼ぐのは金じゃない、テストの点だ。ははは」


 笑って冗談を飛ばす兄。もちろん返事はしなかった。あのけんかの後、兄とは絶対に口をきかないと決めていたからだ。

 だんまりを決め込む遡に向かって兄は優しく微笑んだ。その顔はひどく疲れて見えた。遡は知っていた。家の手伝いが終わったあと夜遅くまで勉強していることを。星を眺めていることを。まだ進学を諦めていないのだ。まだ夢を捨て切れてはいないのだ。


「兄ちゃん、ごめん」


 そんな兄の心中を思うと何もできない自分が歯がゆくて仕方がなかった。親思いの兄に甘える両親に腹が立って仕方がなかった。早く以前のような世の中に戻ってほしい、そう願うしかなかった。


「しかし神は理不尽だ。兄だけでなく私の、そして父や母の願いさえも簡単に踏みにじる」


 ベッドに腰掛けていた遡はもう一度子供部屋を見回した。もう何十年もたつのにあの日のことを思い出すと今でも涙があふれそうになる。今日と同じように夕暮れになっても昼の暑さが残っている夏の日だった。


 父と母はようやく営業を再開した食堂で働いていた。日曜だったので兄も手伝いに行っていた。食堂で夕食を済ませた遡はたったひとりでこの部屋にいた。


「暑いな」


 エアコンは電気代節約のために我慢だ。遡は扇風機の風に当たりながら開け放した窓の外を網戸越しに眺めていた。暗くなり始めた東の空で一番星が弱々しく輝いている。あれはこと座のベガだな、遡はそう思った。耳にタコができるくらい兄から星の話を聞かされていたので、知らぬ間に星の知識が身についてしまっていた。


「今日も遅いのかな」


 営業を再開しても客足は戻らない。夜遅くまで弁当を配達することでなんとか今日一日をしのぐ、そんな毎日だった。

 遡は窓辺に立って網戸を開けた。二階の子供部屋からは町並みがよく見える。灯り始めた街路灯。真っ直ぐ伸びる市道。その先は県道との交差点になっている。交通量はまだ少ないが、そろそろ家路を急ぐ車やバイクの帰宅ラッシュが始まる頃だ。


「あれは……」


 交差点で止まった一台のバイクが遡の目をひいた。中古のスーパーカブ50。汚れが目立つ白い半ヘル。遠くて顔ははっきり見えないが兄に違いなかった。きっと配達の途中なのだろう。前カゴには弁当らしきビニールの包みが入っている。

 遡は胸が痛くなった。優秀な兄は働いているのに落第寸前の自分は勉強もせず油を売っている。まずは無事に進級すること、その目処が立つまでは家の手伝いはさせない、両親や兄からそう言われていても遡は自分の無力が腹立たしくてならなかった。今からでも自転車で駆け付けて兄の配達を手伝うべきじゃないのか。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。


「あっ!」


 遡が窓を離れようとしたその時だった。目に映った光景は数十年たった今も脳裏にはっきりと焼き付いている。信号が青に変わる。兄のバイクが走り出す。交差点に猛スピードで突っ込んでくる赤いスポーツカー。爆音。撥ね飛ばされて宙を舞う兄の体。


「兄さん!」


 それからのことはもうはっきりとは覚えていない。息を切らして交差点に駆け付ける。血だらけになって横たわる兄。遡に向かって薄っすらと浮かべた笑み。無言の群衆。救急車のサイレン。取り乱す父と母。静かで薄暗い病院の廊下。医師の言葉。泣き崩れる母。そこまで記憶をたどった後、ベッドに腰掛けていた遡は深くため息をついた。


「私がもっと早く兄を手伝いにいく決断をしていれば、もっと早く交差点に向かっていれば、違う結果になったのかもしれないな」


 兄の死は残された三人を悲しみのどん底に突き落とした。が、同時に三人をどん底から救い上げてくれた。支払われた賠償金が全ての経済問題を解決してくれた。遡を大学に進学させる余裕さえできた。


「ふざけるな!」


 そんな提案をする両親を遡は軽蔑した。まるで兄の死を喜んでいるように思えたのだ。兄の不幸によって自分たちは幸福を得る、そんなことが許されるはずがない。そもそも兄が原付に乗らなければ、家の手伝いをしなければこんなことにはならなかったのだ。兄を死に追いやったのは父と母だ。それが八つ当たりであることは遡にもわかっていたが両親への嫌悪は募るばかりだった。


 翌々年、なんとか高校を卒業すると遡は就職して家を離れた。そしてそのまま二度と帰らなかった。食堂はしばらく続いていたが父が還暦を迎えたのを機に店を閉め、その十五年後、父は他界した。葬式には行かなかった。母はひとり暮らしになった。隣町に住む甥や姪、その子供たちがよく遊びにきていたので寂しくはないようだった。


「早く孫の顔が見たいねえ」


 電話でそんなことを言われるたびに遡は自分の親不孝を少しだけ後悔した。そして数日前、母死去の知らせが届いたのだ。葬式はすでに済んでいた。


「結局、私もひとりだった。そしてひとりのまま終わる」


 家を出た遡はがむしゃらに働いた。そのおかげで人並みの生活を送ることができた。しかし家庭を持つ気にはなれなかった。全ての不幸を兄に押し付けた自分が幸福になることなど許されない、そんな思いを捨てきれなかったのだ。


「もっと兄と話をしておけばよかったな」


 遡はベッドから立ち上がると窓辺に近寄った。夏の夕闇が部屋の中へ忍び込み始めている。あの日も今日と同じように暑い日だった、そう思いながら遡は窓を開けた。


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