さよなら風たちの日々 第4章ー3 (連載8)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第4章-3 (連載8)


              【4】


 六時限目授業の終了チャイムが鳴って教師が出ていくと、教室はとたんに騒がしくなる。ぼくは信二に軽く合図し、これから行くぞという意思表示をしてから教室を出た。

 ヒロミがいる一年のクラスは、東校舎の四階にある。

 その教室の後ろ出入口から中を覗くと、生徒はもう半分くらいになっていた。下校してしまったり、クラブ活動に出たりしているのだ。

 ぼくは教室の中を見渡し、ヒロミの姿を捜したのだけれど、残っている生徒の中にヒロミはいなかった。

「織原、いないか。織原ヒロミ」

 ぼくは教室から出ていこうとする男子生徒に声をかけた。

 織原ですかぁ、とその生徒はまだるっこしい返事をし、教室を見渡してから、

「あの席なんですけど、いませんね。でもカバン置いてあるから、まだ帰ってないと思います」。

 指をさして席を教えてくれた男子生徒に、ぼくは軽く挨拶をして教室を出た。

 教室にいないとすると、屋上かもしれない。

 そう思いながらぼくは、階段を上って屋上に出た。

 そこには何人かの女子生徒、男子生徒がいた。しかしそこにヒロミの姿はない。

 いつもならあそこの手すりに寄りかかって、校庭を眺めているのにな、とぼくは軽く舌打ちをして、屋上から引き返した。

 屋上にいないとなると、トイレか、図書室か、クラブ活動。

ぼくは図書室を覗いてみた。けれども図書室にも、ヒロミはいない。まさかトイレを覗くわけにもいかず、ぼくはもう一度ヒロミの教室に戻った。

 だがやはりその教室にも、ヒロミが戻った形跡がなかった。

 彼女のカバンと布製バッグが、さっきと同じ状態で机の上に置かれているのだ。

 もう教室には数人の生徒しか残っていない。出入口の引き戸に手をかけて中を覗き込んでいるぼくに、下級生の怪訝そうな視線が集中した。

 どこに行ったんだろう。こんなときに限って。

 しかし帰った様子がないんだから、彼女はまだ、学校のどこかにいるに違いない。

 クラブ活動か。けれどぼくはその時点で、彼女が所属しているクラブを知らなかった。


               【5】


 ぼくは正門の前で待つことにした。

 下手に学校内を捜しまわるとすれ違いになる可能性があるので、そこで待つ方がいいと思ったからだ。


 正門の前に立ちながらぼくは、ハンカチを取り出して汗をぬぐった。

 ・・・暑い。

 九月も半ばだというのに、湿気をはらんだ風はまだ、あの夏の名残りを残していた。

 太陽も日中は灼けつくような陽射しを地面に注ぎ、アスファルトに見事な光と影を描いている。そのアスファルトの上を、生暖かい風はほこりを舞い上げながら駆け抜けていくのだ。

 夏、いまだ終わらず。そんな夏の匂いをたくさん残して、陽はやがて雲を茜色に染め、沈みかけていた。

 校庭ではサッカー部、野球部、陸上部の生徒たちが、おもいおもいのトレーニングウエアを着て、練習に励んでいる。

大きな歓声、土けむり、ほとばしる汗、ボールを追いかける足音、けたたましいホイッスル。

 練習をしているのは、ほとんどが一、二年生だ。三年生は二学期に入ると進学や就職が控えているため、クラブ活動に出ることは、まずない。


              【6】


 ぼくはふと、高校一年生のときに在籍していたワンダーフォーゲル同好会のことを思った。

 初めての登山は、丹沢だった。チロリアンハットとネルの登山シャツ。ニッカポッカは中学時代に履いていたいたズボンの下を切り、すそにゴムを回した手作りで、本格的な登山靴は買えなかったから、キャラバンシューズで代用した。

 そんないでたちでぼくは、キスリングザックをかついだ。キスリングザックの両サイドポケットには、ふもとで拾い集めた石がぎゅうぎゅう押し込められている。そのキスリングザック全体の重さは、優に50kgを超えていただろうか。それを背負って丹沢の尾根を縦走するのが、わがワンダーフォーゲル同好会の新人歓迎パーティ、俗にいう『ボッカ山行』だった。

 一歩、一歩、大地を踏み固めるようにして歩く。

 行けども行けども、山岳道は石ころ混じりの赤茶けた道だ。

 林や草やぶの切れ目からはときおり、下界が見えたりする。

 しかし足を止めて、その景色を眺めることはできない。隊列を組んでいるのだから、全体のペースを崩すわけにはいかないのだ。だからただ、歩く。何も考えず、ただひたすら歩く。背中はたぶん、汗まみれだ。

 ぬぐっても、ぬぐっても、ぬぐいきれないほどの汗だ。

 そうしてぼくは、生きている実感を噛みしめていたのだ。


              【7】


「こんにちは」

 と、途中、下山中の登山者がすれ違いざまに声をかける。

「お先に」と、後ろから来た身軽なパーティがぼくたちを追い越していく。

 けれどぼくは、挨拶を返せない。それを口にしたとたんリズムが狂い、元のペースに戻せる自信が、ぼくにはなかったからだ。だからぼくは、ただ黙々と歩き続ける。同じペースで、同じリズムで、ただひたすら歩き続ける。

 やがてぼくらは頂上に着いた。キスリングザックを降ろし、眼下のパノラマに目を移したとたん、全身にそよぐ風にぼくたちは気づく。汗がすうっと引いていき、全身の筋肉が弛緩し、緊張がほぐれていく。

 キスリングザックに詰めた石は、その頂上でひとつひとつ取り出す。それを道の脇に積み上げ、ケルンを作る。ほかのパーティの登山者たちは、ぼくたちがザックから石を取り出すたび、目を丸くする。

途中で追い抜いていったパーティのメンバー。ぼくたちが到着する前から、そこで休んでいたパーティ。そしてぼくたちのあとから頂上に到着したパーティ。その何人かがぼくたちの積み上げるケルンに気づき、ぼくたちに驚愕の眼差しを向ける。

 山を制服したんだという充実感、達成感。体力と気力でここまで来たんだな、という満足感。それらに満たされた身体に、山の風はなんと心地いいんだろう。

 それ以降ぼくは、雲取山、奥秩父、八ヶ岳、南アルプスなどを走破。風を感じていたんだ。

 それは信二に誘われて軽音楽部に移る、二年生まで続いたんだっけ。


    【8】


 そんなことを回想しながらぼくは、かれこれ二時間近くも正門の前でたたずみ、ヒロミが出てくるのを待っていた。

 陽は沈みかけている。西の空が、燃えるような茜色に染まっている。

 何度も帰ろうかと思った。明日もう一度昼休みにでも彼女をつかまえて、手紙を渡そうかとも思った。けれど脳裏に信二の哀願している顔が浮かんでくると、ぼくはもう少しここで待ってみようと思いなおすのだった。

 校庭ではいつの間にか運動部の練習が終わり、人影はまばらになっている。さっきまでの歓声が、嘘だったかのように、静まりかえっている。


 ふと東校舎を見た。するとそこから女子生徒がひとり、出てきたところだった。

 歩くたび、ふわりふわりと揺れるロングヘアー、うつむき加減に歩く、癖のある歩き方。手に学生カバンと布製バッグ。その女子生徒がゆっくり、こちらに歩いてくる。

 来た。ヒロミだ。ヒロミが来たのだ。





                           《この物語 続きます》



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