脱・ヘルメット法と布団圧縮袋
寡黙な父が、何事にも動じない父が、ビールの入ったコップを取り落としていた。
「どうしたの、お父さん!」
茜は純粋に驚いた。
父は、自分の娘がヘルメットに一角ならぬ関心を寄せる『ヘルメットオタク』と知っていても、それに是非を問わずどっしりと見守る頼もしい家長……というのが茜の幼い頃からの認識だった。
だから、一日の疲れを洗い流す一杯のビールを失うほどに動揺している姿が余計に衝撃的だったのだ。
「茜……」
父はテレビを凝視している。
よく見ると、隣で母も全く同じようにしていた。
その奇妙な光景に、茜は腹の底からむらむらと不安がせりあがってくるのを感じた。
異常な何かが起きている。それは違いなかった。
「……繰り返し、速報です」
ニュースキャスターが早口に原稿を読んでいる。
茜の視線は、テレビに吸い寄せられた。
「真柴グレン蔵議員率いる金星党が提出していた法案、『脱・ヘルメット法』が本日国会にて賛成多数で可決されたという情報がただいま入りました」
テレビには法案可決当時の国会の様子が流されている。
茜は政治に関心のある真面目な中学生ではなかったから、いつもだったら目の端にも入らない光景だった。
しかし今の茜は、『脱・ヘルメット法案』という単語を耳にしてしまっていた。
「……ご存知のようのに、我が国のヘルメットの素材の販売シェア9割を占めていたA国が、ヘルメットの素材にかかる関税の大幅値上げを要求してきました」
壮年の男が堂々とした様子で原稿を読み上げている。
「A国との関係改善のために我が国はそれを飲まざるを得ない状況です。しかし、それでは我が国の伝統とも言えるヘルメットの製造・流通がこれまで通り働かなくるという新たな問題が発生するのです」
目元が涼やかで、茜には何を言っているのかほとんど理解できないことをのたまう、このいけすかない男前––––。
この男が、金星党党首真柴グレンだ。国民人気が高く、バラエティの出演もたびたび行っている。
茜とて、今日この日までは真柴議員には好意的な感情を寄せていた。他のカタいおじさんたちに比べて全然とっつきやすいなーと。
この日、までは。
「そこで我が金星党が掲げる『脱・ヘルメット法案』です。
戦後から現在に至るまで国民の皆さんが当たり前のようにかぶっているがヘルメットの着用を、いっそ国民全員がいっせーのでやめてしまえという法案です」
「……はい!?」
何かにガツン! と頭を殴られたかのような衝撃を受け、茜はテレビにかじりついた。
父が優しく肩を抱いてくれる。テレビの向こう側では金星党の拍手喝采が巻き起こり、真柴議員を讃える声が次々と上がる。
嘘。
嘘、嘘、嘘!
何を言っているんだ、このジジイは!!
茜は、目の前で起きている現実をとても受け入れられず、テレビに体重をあずけて顔を伏せた。
しかしいたいけな中学生たる茜が立ち塞がる現実の前で立ち往生している間にも、真柴議員はよく通る声で続ける。
「……とはいえ、これまで国民の皆さまはヘルメットに親しんで生活してこられたはず。雨の日も風の日も共にあったヘルメットを突然奪うことは、私も本意ではない。そこで、です」
茜はおそるおそる顔をあげる。
ずれたヘルメットが視界を塞いだので、震える手で持ち上げた。おろしたてのヘルメットは手触りも最高だ。
「ジャン! これなんでしょう……お分かりになりますか、総理」
真柴は金星党議員が恭しく盆にのせて運んできた、一枚の袋……? のような物を両手で広げてみせた。
ショックでうまく頭が回らないからか、茜にはそれがただのビニール袋にしか見えない。
「……ハハ、なんでしょう、かね? 真柴くんの冗談はいつも小粋すぎて」
子供にもわかるくらい支持率の低い総理大臣は、ハンカチで汗をぬぐいながらボソボソとした声で言った。
「冗談ではありませんよ、総理」
一際低い真柴議員の声に、総理は明らかに気圧されていた。
真柴議員は袋を高々と掲げ、その場の、そしてテレビカメラの向こうの全員に伝わるようにそれを見せびらかした。
「これは布団圧縮袋です」
茜の頭を「?」の大群が占めた。
テレビからもざわざわとした声が聞こえる。明らかに誰もが動揺しているし、多分今頃国民全員が茜と同じ状況にあることは想像にかたくなかった。
そんな国を覆う困惑の空気を切り裂くように、真柴議員の力強い声が、告げた。
「私金星党党首真柴グレン蔵、今日この日より国民はヘルメットの代わりに布団圧縮袋を頭部へ着用することを提案いたします!」
「……はい!?」
茜は再び素っ頓狂な声を上げた。
振り返れば、両親が石像のように固まっていた。
それはそうだろう。誰だってそうだろう。
今、茜は、茜の家族は、そしてこの国に住む日常を生きる人々は–––––国の要たる人物から、頭のおかしい発言をなされたのだ。
これを現実と受け入れるのは、まともな人間であれば難しい。否、無理だ。
「布団圧縮袋の素材は、これまでのヘルメットの素材とほぼ同程度の金額で輸入可能です。ヘルメットの代替に、これほど適切なものは存在しません」
真柴議員の表情の、自信と誇りに満ちたこと。油断したらすぐに真柴議員の魅力に落ちてしまいそうだが、発言のワケノワカラナサがそれをいとも簡単に凌駕していた。
茜は、その場でヘナヘナと座り込む。
茜は、義務感でヘルメットをかぶっていたのではない。
ただ、ヘルメットが好きだった。将来はヘルメットデザイナーになりたかったし、大人になったらヘルメットを今より安価で売ってくれる政治家に投票しようと心に決めていた。
おろしたてのヘルメットが、急に重々しく感じはじめる。
「……以上が『脱・ヘルメット法』の概要です」
テレビには再びニュースキャスターが映し出される。その顔には困惑がありありと浮かんでいたが、毅然と仕事を続けていた。
「……あ、茜?」
いつも口やかましい母が、様子をうかがうようにして茜に声をかけてくる。
しかし、茜は無言だった。
「政府は、明日から『脱・ヘルメット法』に則りヘルメットから布団圧縮袋への移行期間を開始するとの宣言を––––」
茜はテレビの主電源を落とす。
そしてすっくと立ち上がり、くるりと振り返った。
「茜……」
父が眉根を寄せて茜を見つめていた。
茜はかぶりを振る。
「止めないで、お父さん」
茜は狭い家を走り、自室に駆け込んだ。
部活用のエナメルバッグに、これまでコレクションしたありったけのヘルメットを詰め込んだ。
そしてバッグを肩にかけてすぐに走り出す。玄関で、血相を変えた母に止められた。
「茜、もう夜だよ! 一体どこに……」
そこまで言って、母は気づいたようだった。
「あんたまさか……」
「お母さん、お父さん」
茜はヘルメットをくいと指で上げた。
「今までお世話になりました。元気でね」
茜は後ろを振り返らずに走った。
茜が中学生になるまで、茜の人並外れたヘルメット好きを、文句を言いつつ許容していた暖かい我が家。
茜はそこに、二度と帰ることなく––––10年の歳月が経った。
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