第5話 はじめて見る顔

 躊躇から生まれた空間。そこに落ち着いた言の葉が舞い降りてきた。


「わかりました」



 現実を受け止めようとする強い光を宿した瞳。

 それでいて唇はやわらかな笑みを含んでいる。



「センセイが苦しんでるんだな、っていうのと、わたしのことが嫌いなわけじゃないんだな、っていうことが、わかりました」


 苦しい? 僕が? 確かにそう言われればそうなんだけど……。


「今度はわたしに時間をもらえませんか?」

 

 僕は黙ってうなずいた。


「お腹すきましたよね?」


「はい?」

 

 そういいながらも、もう一度うなずくと、彼女はおもむろに立ち上がってそのまま部屋を出ようとする。僕はあわてて彼女と自分の上着を取ろうと立ち上がった。


 台所から声がした。


「あのぅ、お米ありますぅ?」


「はい?」


 あっけらかんとした声の主の元に向かうと、彼女はしゃがみこんで流しの下の扉を開けていた。


「あー、ありました! さすがに自分の担当だっただけあってお米はあるんですね」


 にっこり微笑んで、今度は冷蔵庫を開ける。

 

「うわー、見事になにもないですねぇ」

 古くなった納豆と水しか入ってないのが恥ずかしい。


 それから一人分の食器が収めてあるだけの扉に背伸びをしながら手を伸ばし、ふんふん、と頷いた彼女は僕を向いて手を出した。


「自転車、貸してください」


 言われるがままに冷蔵庫のマグネットのフックにかけてある自転車の鍵を手渡すと、タタタっと小走りに部屋に戻って上着をもって、「すぐ帰って来ますから」バタン。


 ドアが閉まって一人になった。


 流しの中の炊飯ガマは、なみなみ張られた水の底で白いお米が2号を指している。

 なんとなく水に手を入れてお米を研いだ。

 久しぶりのことだった。

 水の冷たさにボーっとしていた頭が覚めてくる。

 自分がそうしているのが不思議だった。

 無心で研いだ。

 

 それが終わって部屋に入ると、頭の中がぐるぐると回った。


 おかずだけ買ってこようってこと? 経済観念しっかりしてるんだな、とか、店で重い話をしたくない、っていうのもあるか。クリスマス直前に男女が暗い顔してご飯とか嫌だろうし。

 取り留めのない思いを巡らしていると玄関のドアが開いたのがわかった。


 台所との間を仕切っている扉を開けると、両手に大荷物を下げた彼女は靴を脱がずに荷物を置いて「まだあるんで」とまた出て行った。

 取り残されたスーパーの買い物袋から白菜やら大根やらが顔を出している。


 作る、ってこと? でも皿も茶碗もほとんどないけどもしかして。

 玄関を出て階段に向かうと、さっきよりも大きな袋を両腕に通した重みに耐えながら、お腹の前にも箱をかかえた華奢な体が上がってくる。


「カゴがついてる自転車で助かりましたよー。じゃないと一回じゃ無理でした」 

 顔を赤らめながらズンズンと進む彼女にポカーンとしてしまい、玄関を開けてあげることくらいしかできない僕をよそに、ふんぬ、と気合で靴を脱いだ彼女は、あー、お米研いでくれたんですね。ありがとうございまーす。といいながら箱を持ったまま部屋に入っていく。


 第二陣の袋を見るに、食器や常備してない調味料まで買ってきたようだ。


 唖然としながら部屋に入ると、黒いテーブルに黄色いランチョンマットが鍋敷きのように敷かれて、その上に置かれた箱の中身はカセットコンロと土鍋だった。


「こんなに買い物するなら食べに行ったほうがお金かからなかったんじゃ……」


「いいんです。わたしがそうしたかったんで。今はわたしのターンですよ? 座ってのんびりしててください」


 パタパタと足早に台所に戻った足音が戻ってくると、昆布が敷かれた土鍋の中にとくとくと水を注いで火を付けた。


「水が減ったら足してくださいね。乾燥してるから加湿器がわりになってちょうどいいかも」


「はい……」


 腕まくりをして、スマホで音楽をかけて鼻歌をうたいながら、なにかを洗ったり、包丁を使う彼女が開けっ放しの扉から見える。

 

 とても楽しそうだ。


 いつも素通りするだけの台所が異次元のような。

 火を使ってるだけじゃない暖かさが漂ってくるような。


 立ち上がって行こうとすると「そっちでゆっくりしててくれていいですよー」ダメを出された。

 されるがままに座っていると鍋からほんのり昆布の匂いが上がってくる。少し火を弱めて水を足す。


 レンジが何度かチーンと音を立てると、お椀や箸を持って来た彼女は、僕の前に普段使っている箸を箸置きに枕をさせる。

 指先の所作がきれいだ。

 向かいにも同じ箸置きをおいて、そこには割り箸を乗せた。

 

 土鍋に具材が投入されていく。大根に白菜、しいたけにしめじ、ハマグリに豆腐とネギ、春菊と鶏肉を皿に残したまま、今度は大きめお椀が運ばれてくる。中身は葉野菜の和え物と肉じゃがだった。

 突然、異空間になったテーブルの上はにぎやかだ。

 鍋を囲んで、料理や取皿が並んで、お椀には赤と白のすり下ろした人参と大根にスプーンが添えられている。それに切り分けられた黄色い柚子。

、最後に茶碗と炊飯器ごと部屋に運びこまれたてきた。

 見た目に反して力持ちな女の子だった。

 


 「ご飯、まだ蒸れてないんで、先に食べましょうか」

 

 「はい」


  彼女は割り箸を取って胸の前で両手を合わせた。


 「いただきます」


 静かな声がして、僕も手を合わせた。





 彼女がよそってくれたお椀には、鍋から取り分けられた肉や野菜がバランス良く、見た目にもきれいに盛られている。


 鍋から立ち上る湯気が部屋の隅々に届いてゆく。


「お口にあいましたか?」


「凄く美味しい。お世辞じゃなくてほんとに美味しい」


「よかった!」


 彼女いわくハマグリと合わせたかったから鶏鍋になったとのことだ。

 豚肉なら魚を別皿に考えるのだがあまり時間がなくてのチョイスだったらしい。


「そろそろご飯いい頃ですね」


 炊飯器から炊きたてのご飯を二つよそってテーブルに置いて、立ち上がった彼女が台所から戻ってくると汁物がお盆に乗っていた。


「お鍋とかぶっちゃいますけど、大根と玉ねぎのおみそ汁です。あっ、そういえば玉ねぎ大丈夫です?」


「だいじょうぶだよ」


 ほかほかのご飯にアツアツのみそ汁と肉じゃが。

 知っている人が作った湯気の立つ料理を食べていると、エアコンでは届かないところまで温まっていくのがわかる。

 

「美味しい……」


 ご飯だけ食べても美味しいくらいだ。聞けば少し昆布をいれて炊いたらしい。ほのかに旨味がのって美味しくなるらしい。

 菜っ葉の和え物に箸をのばすと、さっぱりとしていて箸休めににぴったりの味付けだった。

 料理に詳しい様子の彼女は色々と教えてくれた。

 

「よかった。わたしほんとは料理の専門学校に行こうと思ってたんですよ」


 彼女はゆっくりと話しだした。


 あまり勉強に意識がいかない高校生だったんです。それより、わたしがごはんを作ると家族がすごく喜んでくれて。

 父は、自分が好きなことをやるのが一番だ、って言ってくれてました。

 父のことをかまうのが大好きな母も、私のとは違う美味しいご飯がみんなで食べれるようになるわね、って反対してませんでした。


 「二年前、高校二年生のちょうど今頃でした」


 母からの電話で救急病院に呼ばれて、とにかくすぐに来て!、わたしが病院に着いた時には父は……既に他界したあとでした。交通事故でした。

 突然のことでした。

 話しをすることもできなくて、突然いなくなってしまって……。



 父が足を赤信号を踏み出してしまった交差点は家の近所で、通るたびに思い出すんですよ。

 なんでそんなにボケッっとしてたんだろう? 職場で何かあったのかな?


 父は仕事について全く話さない人でした。

 家族の前ではいつも笑顔でいる人で、愚痴を言うところを見せたくなかったんだと思います。

 大学に勤めていたんですけど、わたしが大学に悪いイメージを持たないようにそう決めていた、後になって母から聞きました。


 文化史を研究するのが好きな人でした。

 でも、わたしはクラスの中でも勉強が出来る方じゃなかったし、興味がわかなくて……。



 もっと色々聞いておけばよかった。

 もっと話したかった。

 もっとお父さんが好きなことを知っておきたかった。

 お父さんが好きなことを一緒に話したかった。


 「それで、父がいた世界を見てみたくなったんです」


 ぽっかり穴があいてしまったような自分がまた動き出すのを感じるようになって、進学を決めたのは三年生になる直前でした。

 

 そこからはご存知の通りです。


 でも、決めたはいいけれど、どこをどしたらいいの分からないし、全然目指してなかった受験を突然選んで、自信が持てなくて、何度もこころが折れそうになって……。


 そんな時にセンセーが教えてくれたんです。

 知ることの面白さを。


 そして、分かったような気がしたんです。

 きっとお父さんも若いときにこんな風に面白くなっちゃって、その道に進んだんだろうなぁ、って。


 感謝してます。本当に。

 

 父の母校であり職場だった学校に入れて、父の親友だった教授や、今でも父を慕う監督や先輩にも可愛がってもらってて、すごく充実しています。

 

 それよりも、わたしが本当に嬉しかったのは、センセーが知ることは楽しいということを教えてくれたことなんです。

 父の辿った道を分からせてくれた、ということなんです。


 センセーにわたしが作ったご飯食べてもらいたいなぁ、一緒にご飯食べたいなぁ。

 それがわたしの夢でした――――。




 彼女の想いのつまったご飯を食べ終えると、黄色いランチョンマットの上に、買ってきた急須で入れたお茶を入れた湯呑を二つ置いた彼女を見る。


 「やっぱり人と一緒に食べるご飯は美味しかった。――ありがとう」


 「こちらこそ、つきあってもらってありがとうございました」


 ぺこり、と頭を下げた彼女に

 「こっちこそ、散財させちゃって申し訳なかった。全部一人分しかない部屋だし……」


 熱いお茶をすすりながら思う。

 今までの時間がいつも違ってとても温かくて。

 なんとお礼を言ったらいいのか……。


 言葉を探していると、彼女に話しかけられた。


 今日夢が叶って、もうひとつやりたいことが出来たんです。

 柔和な顔を浮かべた彼女に僕は、いいよ、と答えた。


 「センセーは小さい頃、なんて呼ばれてました?」

 

 「――――優ちゃん、だけど……」


 「今日一日、センセーのこと優ちゃんって呼んでもいいですか?」


 「――いいよ」


  笑みを深めた彼女は、そばに寄ってきて正座をした。





 「よく頑張ったね優ちゃん。大変だったね」




 光をあてられて行き場を失った黒い霧の先が、どうすればいいのかわからなくなったように右往左往している。


 体から力が抜けてゆく。


 気がつくと頬が濡れていた。

 

 「横になってここに頭をおいてください」


 ポンポンと膝を叩く彼女の太ももに頭をゆだねた。

 柔らかくて、暖かくて、首のうしろが温かい。


 優しく髪の毛の間を通る指が頭をさすっている。


 ――よく頑張ったね。優ちゃんは立派だよ。大変だったのに人のせいにしないで、誰も恨まないで、独りで頑張ってきたんだね。




 閉じこもっていた暗闇のおりに針のような穴が空いた。

 黄色を帯びた光が差し込んで来る。


 

 そこから溢れる光が柔らかく広がってゆく。

 それは蜘蛛の巣のように広がって、闇をひび割れさせてゆく。



 かたくなに取り巻いていた暗闇が砂のように崩れ落ちてゆく。

 すべてがなくったそこには、

 柔らかい光につつまれた女性の顔があった。


 

 今まで見たこともない、初めて見る、優しさを湛えた女性の顔がそこにあった。



 まるで聖母のような微笑みを浮かべて。

 柔らかそうな唇が動く。


「もうすぐ日が伸び始めるね」


 そうか……冬至だ。一年で一番日が短い日。


「クリスマスってキリスト様の生誕祭だけど、なんでこの時期なのかって知ってる?」


 優しく見下ろす彼女に向かって首を振る。


「キリスト教が出来る前にも色んな宗教があったでしょ。キリスト教も色々と影響を受けてて、生まれ変わる、っていうのには冬至だからっていう意味が含まれてるんだって。太陽神の影響もあるみたい」


 古代オリエント。

 農耕からうまれた世界最初の文明は太陽の動きをよく見ていた。エジプトで10進法が発達したのとは違って、60進法、時間と一年をめぐる数え方が発達したのは世界史で最初に覚えることの一つだ。


 そうか。

 

 古代ペルシア。そこで信仰されていた太陽神を崇めるミトラ教の神は中国に渡って弥勒菩薩みろくぼさつと呼ばれるようになった。衆生しょうじょうを救いに来た菩薩のような聖母の微笑み。


 このまま身をゆだねていたい。

 そう思った。


 大きな海の水面に揺られているような、温かいゆりかごに揺られているような心地には不安がなかった。

 自分が不安に包まれていたことに初めて気がついた。






 いつの間にか眠ってしまっていたらしく、目が覚めると彼女の姿はなかった。

 朝の光に照らされた黒いテーブルには黄色い布が輝いている。


 その上に置かれたメモを手に取る。


 そこには、ゆっくり休んでね。またゆっくり会いましょう。と書かれていた。


 携帯を手にとって、

 

 (昨日はありがとう。すごくいい時間だった)


 そう打って送信するとすぐに返事が来た。


 (これからも優ちゃんって呼んでもいいかな?)

 

 (いいよ。僕は七海って呼んでもいい?)

 

 (やったーー!! また一緒ご飯にたべようね! ――それとね、谷山さんにぴったりな友達がいるんだけど紹介してもいいかな? かわいい娘だよ。みんなで一緒に遊んだら楽しそう)



 そういうのも、いいかもな。

 彼女と一緒なら。



 OKの返信を入れて、僕はゼミの申請書を取り出して鞄に入れる。

 もう冬休みだけどまだ事務局はあいてるはずだ。



 玄関を開ける。

 

 まばゆい朝の光の中に、

 僕は足を一歩踏み出した。






 










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