第2話 再会

 どちらからともなく歩きだした二人を、構内の喧騒がつつみこむ。


 「悪いことしちゃいましたかね? もしかして約束とかしてました?」


 赤いパーカーのあまりの落ち込みように気を使ってしまうのも仕方がない。

 

 「いつものことだから全然気にしなくていいよ」

 

 そうフォローを入れてから、しばらく歩くと二人の時間になった。

 塾講師をしていた頃を思い出して、俺が僕に入れ替わる。


 ぽつり、ぽつりと始まった会話が進むたび、彼女の再会できて嬉しいですオーラが色濃くなってくる。

 けれど押し付けがましい重さは感じない。

 むしろ清涼感のような明るさに自然と包まれてゆくような。


 こんなに明るい娘だったかな?


 生徒だった頃の印象は、静かに黙々と、けれどいだ水面の下に強い意思を宿して目標に立ち向かう少女。


 そんな記憶が表層ひょうそうに戻ってくる。


 しかしそれはもう消えしまっていいものだ。

 開放的で明るい今の彼女は、自分の努力でつかみ取ったものなのだから。


 綺麗になったな。と、素直に思う。

 

 無意識にそれが最上さいじょうなことを知っているかのように、自然に備わっている魅力をひきたてているのは透明感のある薄いピンクのリップだけ。

 あの頃と変わったのはリップに少し色がついたこととと、大人になった喜びを光にしたようなさり気ないピアスが透き通りそうな曲線に添えられていること。


 ただそれだけなのに、彼女がまとった光はやたらとまぶしい。 



 光が強いと影はくなる。



 それを隠すように、途切れてしまった会話をまぎらわすように、塾でグループだった他の女子生徒の動向をたずねた。


「ん~、中心にいた子の情報によると、みんな元気みたいですよ」


 意外とドライな答えが返ってきた。大きく変わった環境を惜しむこともなく、ちょっとしたことにカラカラと今を笑える彼女はやっぱり眩しいと思う。


 そんな彼女が自分なんかに何を伝えたかったのかを聞くために最寄りのファミレスに入った。





 最近高くなった隣の席との間仕切り。

 その間に向かい合って腰を下ろす。


 自分よりも下にある小さな笑顔。上着を脱いだ彼女の白いブラウスから伸びるすらりとした指先がブザーを押した。


 グレーのコート脱ぐと、その下からまたグレーのVネックがあらわになる。襟元に見えている白いシャツは同じなのに、色気もくそもない地味な服だ。

 

 ドリンクバーから席に戻ると、目の前には水の入ったコップとコーヒーカップ。

 その向こうで、彼女が手に取るグラスからレモン系の炭酸が気持ちよさそうにストローに流れ込んでゆく。

 

 コトン、グラスの底がテーブルにつく音がした。


 「まずは、その節は本当にお世話になりました」

 

  ぺこりと下げた頭の真ん中にかわいいつむじがこんにちはしている。

 

 「いや」


  否定の言葉を頭において、本心をそのまま言葉にしていった。


 「ナナミさんの努力の結果だから。本当によく頑張った、と思う。誰がみてもそうだった。結果を聞くまで一番ヒヤヒヤした生徒だったのは事実だったけど……」


 「ですよねぇ。こんな私をホントウにありがとうございました!」



 名波七海はスロースターターだった。

 夏が過ぎてもまだ2ランクは上の志望校を変えることなく、それは年を越えてもそのままだった。「いくら伸びてるといっても無謀だ」講師たちは仲間内でそう言うのをはばからなかった。

 自宅から近い志望校。生徒たちに塾という愛称で呼ばれるここからそう遠くないあの予備校と同じ区域でもある。それを譲らないということは家庭の事情があるのだろう。ならば、賭けに出るのも仕方がないことなのかもしれない。

 ある意味あきらめにも似た空気の中で彼女は戦った。


 お世話になった同系列の予備校が、自分が通う大学とアパートの近くの校舎で雑務のバイトを募集しているの見つけたのは偶然だった。

 そんな雑用バイトくんが講師などという大それた役職につくことになったのは、世界史の講義を受け持つはずだった講師が急に辞めてしまい、どう対応しても埋められない1クラスの枠に、最寄り駅の大学生になったばかりの卒業生に白羽の矢が立ったからだった。

「まだ全然覚えてるでしょ。講義の仕方は全力でサポートするからどうにか」

 切羽詰まった要望を断りきれなくて、流されるように講師になった。


 そんなチュートリアルも済ませていない初心者 Lv1の自分がしてあげられたことなんてたかが知れている。と、思うことすらおこがましい。

 いくら講義がマニュアル化されているとはいえ、自分の未熟さのせいで他人ひとの人生を狂わしてしまったらどうしよう。本番が近づくとビビってばかりいたのが懐かしい。

 ぶっちゃけ胃が痛くなった。

 特に彼女は世界史がネックになっていたから。

 

 だからこそ、個人的に礼を言いたいという彼女が何を思っていたのかを知りたかった。


「世界史は暗記だ。っていわれるじゃないですか」

 彼女の話は続いている。


「でも先生はその時代とその場面場面には、そこにいる人達の物語があるから。そう思うと面白くなるよ、って教えてくれましたよね?」


 確かに講師になったばかりの頃、講義のあとの雑談でそう言ったことがある。

 マニュアルから外れた個人の意見を講義の中で言えるほどの人間じゃないけれど、ポンポン暗記だけができるほど器用じゃなかった自分はそうやって乗り越えたから。

 けれどそれは、他の教科に振るべき時間を割くことでもある。


「わたし、ギリギリまで成果がだせなかったけど、教科書以外の本を読むようになって世界史が好きになれたんです。ゆっくりな解説動画とかもいっぱいみて、その人達がどんな状況でどんなことを思ってたのか考えて。――悔しかったんだろうなぁとか、だからこうなったんだぁ、うんうん、とかすごく楽しかった。流れがつかめるようになるともっと面白くなってどんどんハマって。だから暗記は最後にまとめてやろうって決めてたんだけど、それでイケる、って思えてたんです」


 うなずいて、先をうながす。


「でも、実は、願書を出す直前になってもアドバイザーに、志望校を変えるっていう方法もあるよ、って暗に勧められました。ご存知のようにそれはしなかったんですけど、最後の勝負時になって、質問しに行ってもよそよそしいというか……あ、見限られたな。って感じたこともあって……」


「誰だかは想像がつかないでもないけど……」


「ですよね――本当に厳しかったです。自分は出来るって思い込んでるだけなんじゃ? って疑い始めると心が折れそうになって…………でも先生は最後まで親身になってくれてるのが分かったから、だから、まだ頑張れる、って思えて」


「――そうだったんだ」


 あの頃のことを思い出す。

 自分なりに彼女を応援した理由。また一つ世の中を知ったこと。

 わずらわしくなってバイトを変えたこと。

 浮かんできたものを振り払って、目の前に意識を戻した。


「あらためてだけど本当によかったね。今のナナミさんを見てると僕も嬉しくなるよ」


「ありがとうございます。こんなわたしのわがままを通してくれて。どうしても今の学校じゃないとダメだったから……」



 空白ができた。



 まだ黒い物体が残っている白い陶器のカップからは湯気が消えている。

 彼女は、どんなに尋ねられても志望校を変えない理由を口にしたことがなかった。

 その先を言葉にするかどうかはわからない。

 だから自分からはあえてアクションを起こさない。


 彼女が感謝してくれていることは素直に嬉しい。

 同時に、これ以上深入りするな、という気持ちが鎌首を持ち上げ始めている。

 いつものように流されることを選択している自分を自覚する。

 けれど今この場の主導権は彼女にある。今はそれでいいと思う。

 

 「ちょっと、飲み物とってきますね」

 

 立ち上がった彼女を見送って、すこし間をおいてから席を立った。


 今度は彼女もホットを選んでいた。二杯目のコーヒーと何を選んだのかはわからないお茶が入った同じカップがテーブルの上で向き合った。


「そういえば先生、友達の中だと俺なんですね」


 そしてボールはこちら側に。でもそれくらいの深さまでならかまわない。


「塾の中で一番の若造が俺は無いからね」


「新鮮でした。へぇぇ、とか思っちゃった」


 嬉しそうに、彼女は笑う。


 えへへ、丸くなった口元を隠すように添えられる長い指。

 それが外れて、柔らかい弧を描いていたふくよかな桃色がまた動いた。



「先生も大学生なんですよね。わたしと同じ」


「歳もいっこしか違わないからね」


「あっ、ちょっとクダけてくれて嬉しいです」


「じゃあさ、ナナミさんは今学校でどんな感じなの?」


 二回戦はそんな風に始まった。

 自分にはあまり語れるようなことがないからと何度か逃げて、質問を重ねた。


 念願かなった大学で彼女はラクロス部のマネージャー見習いを楽しんでいるようだ。

 生き生きしとして、ドジを笑われながらも周りから慕われ、かわいがられている姿が目に浮かぶ。


「今度は先生の番ですよ? さぁ、白状しちゃいましょう。ふふふ」


 何がそんなに楽しいのやら。

 けど、こんな風にしゃべったのは久しぶりな気がする。


 両肘りょうひじをテーブルに置いて、あごの下で組んだ両の手の上に乗った透明な笑顔。


 淡い光がこっちを向いて微笑んでいる。

 

 話題に困って谷山の話題を出した。



「そういえば何気なにげにカッコいい系の人でしたね」


「何気にね」


 そう返して同時に笑う。

 そんなことが起こるくらいにまでに話せている自分にちょっと驚いた。


「でも、ほんとはいいヤツなんだ」

 

 そこでめておいた。

 それに続く、紹介しようか? が形になる寸前だった。


 それでよかった、と思う。


 彼女の気持ちの機微きびがわからないほど鈍感どんかんでもない。

 思い上がりかもしれないけれど、踏みにじるようなことをしてしまうよりはいいだろう。多分。

 

 自分の中で起こった流れを断ち切るように、


 「ちょっと水だけ取りに行くね」

 

 おかわりではなく、そろそろ終わりにしよう、を含ませつつその場から離れた。

 

 「わたしも行きます」


  今度は彼女がついてくる。新しいコップをサーバーにセットしていると

 


 「きゃっ!!」

  


  彼女の悲鳴が聞こえた。


 「すみませんっ!」


 年配のおじさんの肩があたったらしく、入れたばかりの紅茶が、白いブラウスに飛び散っていた。 

 とっさに取り出したハンカチをサーバーの水で濡らして渡す。


 「申し訳ありません……」


 二人に向かって謝ってくるおじさんに対して彼女は「全然だいじょうぶですから。気にしないで下さい。先生ありがとう」染みを残さないように華奢きゃしゃな腕を動かした。

 

 火傷やけどがなくてよかった。

 

 それから、ここじゃなんだからと席まで連れて帰ってもう一度ドリンクバーへ。

 多めのおしぼりと二人分の水を持って戻ると、


「ありがとう~」


 甘い声がした。


 ごめんなさい。

 わたしドジっていうかおっちょこちょいなところがあって……。

 そんな彼女にどことなく昔の妹を思い出してしまった。


 そこからは当然のごとく、そこで時間を過ごすのもなんだしな空気が充満して、ほどなくして店を出た。

 

 なんとなく、駅ビルの内側に出るのとは逆の通りに面した出口を出ると、熱っぽさを覚ますような乾いた空気が現実を連れてくる。


 彼女の一歩前を歩く。


 またいつもの自分に戻ろう。


 一陣の風を巻き起こした彼女にハンカチを返してもらったらそれで終わりだ。


 そう思った瞬間。


「ハンカチ、洗って返しますね。連絡先教えて下さい!」


 その時点で、自分が芯の強い強風にあらがえないのは目に見えていた。


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