第272話

「さっき嬉しそうだったね」


 不意にエレオノーラがシオンに言った。

 二人は現在、エルフの領域の程近くにあるログレス王国内の小さな町にいた。そこの宿で二人部屋を借り、今まさに就寝する間際だった。それぞれのベッドに腰を掛け、部屋の明かりを消そうと、シオンが枕元灯のスイッチに手を伸ばした時だ。


「エルリオさんにお礼言われた時」


 きょとんとしたシオンに、エレオノーラは続けてそう言った。

 シオンは、ああ、と短く漏らしたあと、顔を伏し目がちにした。


「嬉しかったことは否定しない。でも、素直に喜ぶこともできなかった」


 少し沈んだ声で言ったシオンに、エレオノーラは小首を傾げた。


「どうして?」

「そこに至るまでに出た犠牲が多すぎる。その一因に、自分の身勝手な行動も含まれていると思うと……」


 それ以上の言葉を詰まらせたシオンに、エレオノーラは前のめりになった。


「騎士団分裂戦争のこと? あれは、シオンと“リディア”さんが罪のない亜人を助けるために起きてしまったことでしょ。救われた亜人だって大勢いるはずだよ。それに、仲間割れになったのも教皇が騎士団を弱体化させるためにやったって……」

「そうかもしれないが、事実として大勢の仲間が犠牲になった。ユリウスの弟子もそれに巻き込んでしまった。あいつが俺を殺したがっているのも、それが理由だ」

「確かに前はそう思っていたかもしれないけど、真相を知った今では、ユリウスもさすがに……」


 悪意を以てあの悲劇を引き起こしたわけではないというエレオノーラの主張だった。しかし、シオンは静かに首を横に振る。


「いずれにせよ、あいつが望む形でけじめをつける必要がある。俺がガイウスにやろうとしていることと同じだ」


 シオンの言葉を聞いたエレオノーラが、彼と同じく俯き気味になる。そうやって表情を暗くしたあと、徐に口を開いた。


「ねえ……シオンは、まだ復讐を諦めてないの?」


 その問いに、シオンは視線を泳がせる。


「正直、ステラが女王になってから、自分が何をどうしたいのかよくわからなくなっている。ガイウスが憎いと思う感情が消えたわけじゃないが、時間が経って頭が冷静になったのか、ただあいつを殺すことに何の意味があるのかを最近よく考えるようになった」

「じゃあ、騎士団と同じで、罷免させることに意識が向いているってこと?」

「ガイウスを教皇から罷免させること自体には賛成だ。あいつが最終的に何をやろうとしているのかはわからないが、放っておいていいことはないと思っている。だが、騎士団と同じように、大陸情勢を鑑みたうえであいつを罷免したいのかと言われれば、それも違う」


 シオンはそこで面を上げた。


「とりあえず今は、ガイウスのことをもっと知る必要があると思うだけだ。あいつがやろうとしていることと、その理由を知ったら、また違う感情が生まれるかもしれない。その時は、その感情に従うまでだ」

「そっか……」


 エレオノーラはそう言って、さらに俯いた。

 今度はシオンが、


「そういうお前は? お前も、ガイウスに――父親に復讐するつもりだったんだろ?」


 エレオノーラに訊いた。

 エレオノーラは一瞬顔を上げ、回答に困ったように眉根を寄せる。その後で、シオンから視線を外した。


「アタシは……」


 言い辛そうに口籠ったあと、改めてシオンに向き直った。


「お母さんのことを思い出すと、やっぱり教皇のことは赦せないし、憎く思うよ。でも――」


 そこまで言ったエレオノーラの唇は、微かに震えていた。


「死ぬのが、今になって怖くなった……」

「“教皇の不都合な真実”――ガイウスがハーフエルフとの間に、お前を設けたことか。それなら黙っていればいい。ただ、お前が実子だってことさえわかれば――」

「多分、無理だよ。その事実が公になれば、教皇が誰との間にアタシを作ったのか、絶対に追及される」


 エレオノーラは大きく息を吐き、天井を仰いだ。


「アンタとステラと旅している間はさ、自分の体のことなんて全然気にしないでいられたんだ。だからさ、“たとえ死んでも教皇に恥かかせて復讐してやる”って覚悟が、段々と揺らいでいったんだ。もしかしたら、シオンもそうなっていないかなって思ったから、さっきあんな質問したんだけど……」

「エレオノーラ……」


 エレオノーラの心情の吐露に、シオンが痛ましげに眉根を寄せた。対して、エレオノーラは、どこか吹っ切れたような、楽しそうな表情をシオンに返した。


「最近さ、夜ベッドの中に入るとね、よく考えるんだ。このまま大陸の外に出て、混血でも生きられる場所見つけて、悠々自適に生活できないかなって。それで、そこにシオンもいたら最高だなって。本当はステラも一緒にいてほしいけど、あの子は女王様になっちゃったからね。さすがに難しいかな。酷い女だよね、母親の復讐を蔑ろにしてさ」


 あはは、とエレオノーラは自嘲気味に笑う。

 その一方で、シオンは、文字通り鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっていた。それを見たエレオノーラが、すんと表情を元に戻し、怪訝に眉を顰める。


「どうしたの?」

「“俺もいたら”?」


 先ほどのエレオノーラの発言の一部を切り取って、シオンは訊いた。

 エレオノーラは最初、銅像のように動かなかった。それから一秒、また一秒と時間が経つことに、顔を真っ赤に染め上げていく。

 そして、勢いよくベッドから立ち上がった。


「あ、あああ、アンタは黒騎士で! ちょ、ちょっと前までアタシと一緒でこの大陸に居場所なんてなかった身分でしょ! だ、だだ、だから、ついでに! そ、その……!」


 威勢よく声を張り上げ、人差し指をシオンに突き付けるエレオノーラだったが、それ以上の言葉を紡げず、次第にその勢いを失わせる。顔を赤くしたまま明後日の方向に目を向け、暫く立ち竦んだ。

 その姿をシオンが黙って見ていると、


「も、もうやめよ! こんな辛気臭い話! あ、明日も早いんだし! アタシ寝るから!」


 エレオノーラは途端にきびきびと動き出し、勢いよくベッドの中に潜り込んだ。シオンに背を向ける形で横になり、コンフォーターで全身を覆い隠す。

 間もなく訪れた静寂――シオンは驚きのまま固めていた表情を解き、小さく息を吐いて、それを穏やかなものに変える。


「明かり消すぞ」


 それから、両者のベッドの間にあった枕元灯を消した。

 暗転する室内――今宵の空は曇りで月明りもなく、カーテンが分厚いこともあって完全な暗闇になった。


 シオンがコンフォーターを捲り、ベッドに足を乗せようとする。

 と、その時、不意にエレオノーラのベッドから、もぞもぞと音が鳴った。暗闇のせいで気配しかわからないが、エレオノーラがベッドから起き上がったようだ。


「どうし――」


 何かあったのかと訊こうとしたシオン――刹那、彼の唇に、何かが重なった。遅れて漂ってきたのは強い香水の臭い――エレオノーラからの匂いと同じものだった。

 自身の唇に伝わる柔らかい感触のそれが何なのか、シオンが理解した矢先、ゆっくりと唇からそれが離れた。


「え、エレオノ――」


 シオンが驚き、言葉を発した直後、彼の体は後ろに突き飛ばされた。それから間もなく、エレオーラのベッドから慌ただしく中に潜り込む音が聞こえる。


「こういうことだから! も、もういいでしょ!」


 呆然とするシオンを無視して、エレオノーラは最後にそう言った。

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