第270話

 “円卓の間”から出たシオンは、その足でエレオノーラがいる待合室に向かった。白亜の扉を開けた先に広がるのは小部屋――中央にローテーブルが一つと、それを挟むように二人掛けのソファが並べられている。南西側に備えられた小窓からは落ち着いた朱色の光が差し込んでおり、この白い空間をどこか儚げに照らしていた。


 シオンが部屋に入ると、エレオノーラはソファから立ち上がった。正式にシオンの従者となったエレオノーラの服装は、騎士の正装と同じく、白を基調とした厳かな衣装だった。彼女の教会魔術師としての銘――“紅焔の魔女”には似つかわしくない、修道女のような、淑やかで落ち着いたローブ姿だ。


「俺が予想した通りだった。一週間後、教会は騎士団と十字軍を使い、ガリアを粛清する」


 シオンの言葉を聞いて、エレオノーラは表情を曇らせた。眉根を寄せ、視線を下に泳がせる。


「なんか、複雑な気分。ガリアが国としてやってきたことは赦せないけど、国民全員が酷いことしたわけじゃないから……」

「そうだな」


 シオンは、エレオノーラが吐露した心情に短く同意し、ソファに腰を下ろした。それに倣い、エレオノーラは彼の隣に座る。


「具体的にどうなるの?」

「ガリア軍は再びログレスに向かって侵略を始めることになる。ガイウスの計略でな。俺たち騎士団――議席持ちの騎士たちは、ログレスを守護するという名目で、国境線でガリア軍を迎え撃つ。その間に、十字軍がガリアに攻め込み、粛清を開始する」


 シオンの淡々とした説明に、エレオノーラは顔に焦燥の色を見せた。


「ラグナ・ロイウみたいになるのかな?」

「多分な」

「そうなったら、連れ去られたログレスの国民はどうなるの? ステラが今、頑張って取り返そうとしているんでしょ? 下手したら、十字軍の粛清に巻き込まれるんじゃ……」

「作戦の詳細な内容は明日また会議の場で聞く。ただ、十字軍のことだ。最悪……」


 身を乗り出して訊いてくるエレオノーラに、シオンは目を瞑って答えた。それ以上の言葉を飲み込み、諦めたように息を吐く。

 エレオノーラは、さらにシオンに詰め寄った。


「ねえ、今のうちにガリアに行って、救えるだけ救うっていうのは――」

「今の俺の立場では、もう前みたいに勝手なことはできない。仮にこのまま単身ガリアに赴けば、それこそ二年前と同じように騎士団内部が荒れることになる。さすがに、今この状況でそんなことは赦されない」


 エレオノーラは、そっか、と一言、諦めの吐息混じりに呟いた。


「ステラはこのこと、知ってるのかな?」

「それもわからない。あとで電話で訊いてみる」

「あの子、せっかく頑張っているのに……」


 エレオノーラがソファに座り直し、肩を落とした。シオンはそれを見て、徐に立ち上がった。


「いずれにせよ、今ここで考えていても何も結論は出ない。明日改めて、総長から詳細な作戦が説明される。事を起こすにしても、それを聞いてからだ」


 シオンの判断に、エレオノーラは気持ちを切り替えるように頷いた。それを見たシオンは、表情を少しだけ緩め、肩を竦めた。


「移動もあって今日は疲れただろ。空中戦艦を使ったとはいえ、朝早くに王都を出発してここに来たんだ。早めに休もう」


 シオンにそう促され、エレオノーラも立ち上がった。


「……うん、そうだね」


 それから二人は部屋を出て、騎士団本部の長い回廊を歩いた。

 不意に、エレオノーラが何かを思い出したような顔でシオンを見遣る。


「ところでさ、今日はどこに泊まるの? まさか、こんな場所にホテルなんかないでしょ?」

「議席持ちには専用の部屋が与えられている。本部にいる間はそこで寝泊まりする」


 シオンが即答して、エレオノーラは顔を赤くした。


「……も、もしかしてアタシも?」

「お前は俺の従者だ、基本的にはそうなる。嫌なら別室を――」

「いや、いや! それでいい! それでいい!」


 シオンの提案を全力で否定し、エレオノーラは高揚した面持ちで歩みを進めた。

 長い回廊と階段を歩き続け、最後に昇降機を使い、二人は本部上層階にある居住部に辿り着く。それまでの無機質な内装と比べると、この階層は幾分か生活感があった。例えるなら、高級ホテルのスイートルームへ続く廊下のような造りだ。床には刺繍の入った絨毯が敷き詰められ、壁には満遍なく美麗な宗教画のレプリカが描かれている。一定間隔で並べられた燭台にはすでに火が灯されているが、全体的に薄暗かった。

 廊下の一番奥にはⅠと刻まれた扉があり、そこに至るまでの廊下の両脇には、同じようにⅡからⅩⅢの数字が刻まれた扉が並んでいた。


 シオンは、その中のⅩⅢの扉に手をかけた。鍵はかかっておらず、そのまま開けることができた。


「ねえ……広すぎない?」


 部屋に入って早々、エレオノーラが目を丸くさせながら言った。


「落ち着かないよな。どうせ寝るだけの場所にしかならないのに」


 それにシオンが同意して、呆れのため息を吐く。


 扉を開けた先に広がっていたのは、豪邸の一室を丸ごと持ち出してきたのかと見紛うほどの広大かつ豪奢な空間だった。室内はちょっとした一軒家ほどの広さがあり、廊下と同じように華美な装飾が至る所に施されている。部屋に入ってすぐのリビングの天井には巨大なシャンデリアが一つあり、大窓からの太陽光を受けて煌びやかな存在感を放っていた。間取りはリビングを中心にしていくつもの扉があり、それぞれが部屋主の個室、弟子や従者用の個室、バスルーム、キッチン、ダイニング、レストルームに繋がっている。

 たった二人が住まうにしてはあまりにも過剰かつ豪勢な設備に、シオンとエレオノーラは揃って辟易した顔になった。


「二年前もここで生活してたの?」


 エレオノーラがシオンに訊くと、彼は肩を竦めた。


「そのはずだが、実際は任務で大陸各地に飛び回っていたから、利用したことはほとんどない。ただ、私物は当時のままだな。俺が黒騎士になったあとも、処分しないで残していたみたいだ」


 シオンは、ケープマントやアウターを脱ぎ捨てて身軽になりながら、部屋の中を確認した。

 エレオノーラも同様にローブを脱いで身軽になり――ふと、リビングの端にあった棚の上に目を向ける。そこには、写真立てが一つあった。

 写真立てに収められていたのは、セピア色に変色した少し古い写真。十歳前後の子供たちが数人と、シスターが一人写っている。

 エレオノーラは、シスターの前に立つ黒髪の少年を見て、面白そうに笑った。


「これ、子供の時のシオン? なんか、やんちゃそうな顔してるね」

「その隣にいるのがユリウスだ。そっちの方が憎たらしい顔してるだろ」

「確かに」


 むすっとした顔で映る少年時代のシオンと、その隣には少し背の高い眼鏡をかけた金髪の男の子がいた。両者とも何か気に食わないことがあったのか、それともこの時の光が眩しかったのか、眉間に皺を寄せて顔を顰めていた。


 幼い二人を見て笑っていたエレオノーラだが、その視線は次にシスター――“リディア”へと向けられる。その瞬間に、笑みが消えた。


「……やっぱり、“リディア”さん、アタシのお母さんに似てる」


 沈んだ声で言ったエレオノーラの傍らに、シオンが付いた。


「同一人物だと思うか?」


 エレオノーラは首を横に振った。


「顔の傷……お母さんにはなかったから、多分違う、とは思う」

「確か、お前の母親の名前は“マリア”って言うんだったな」

「そうだけど、それがどうかしたの?」


 不意に、シオンは床の絨毯の一部を捲った。絨毯の下は四角いタイルが敷き詰められており――突然、シオンはその一部を外した。

 そして、外したタイルの裏には、一冊の手帳が張り付けられていた。


「それは?」


 エレオノーラが覗き込む横で、シオンは手帳をタイルから剥がし、手に取った。


「“リディア”の遺品だ。ほとんど処分されてしまったが、この日記だけは密かに持ち出すことができた」


 シオンは手帳を閉じていた紐を解き、パラパラと軽くページを捲っていく。それを見たエレオノーラが、ハッとした。


「もしかして、そこにお母さんの名前が――」

「わからない」

「わからない?」


 首を傾げるエレオノーラに、シオンは手帳の中身を開いて見せた。


「この日記、古代エルフ語で書かれている。俺が見ても、まったく読めないんだ」


 シオンの言う通り、手帳に書かれている文字は大陸共通語ではなく、普段の私生活ではまず見ることのない文字だった。古代エルフ語――かつて、太古の時代に存在していたエルフたちが使っていたとされる文字だ。教会による大陸の管理が本格化した際に各国の言語統一が実施され、この文字も、その時に常用語から外されてしまった経緯がある。大陸諸国の固有言語は、その国の文化や学問を支えるための歴史語として今もなお現代に語学として伝わっているものが多くある。しかし、古代エルフ語については、エルフ社会で用いられていた言語ということもあり、人間社会への浸透が極端にされていなかった。ゆえに、あらゆる学問、語学に通じている騎士や教会魔術師であっても、翻訳できる者はほとんどいないというのが実情だった。


 だが、


「ちょっと貸して」


 エレオノーラは怯むことなく、手帳を手に取った。シオンが驚く。


「読めるのか?」

「全部は無理だけど、部分的な単語だけなら。魔術の印章でも使われることが稀にあるから、もしかしたら読める文字があるかもしれない。それに――」


 文字をなぞるエレオノーラの指が、そこで止まった。


「……あった」


 ぽつりと言ったエレオノーラは、ページの一部を指し示しながらシオンを見た。


「ここ、古代エルフ語で、“マリア”って書かれている……」


 エレオノーラの母親の名が“リディア”の日記に記されていた事実に、シオンは驚愕の表情で身を乗り出した。


「他には? 何か読み取れることはないか?」

「文章まではわからない。けど、なんというか……」


 エレオノーラは文字を視線で追いながら、段々と困惑に眉根を寄せる。


「読み取った限りだと、何か、後悔しているような、謝っているようなことが書かれているみたい……」


 シオンは、エレオノーラから手帳を取り上げた。エレオノーラが驚きの目で彼を見遣ると、


「一週間後にガリア軍を迎え撃つ場所は、俺とステラが出会ったエルフの領域に近い。今はそこに、エルリオたちも戻っている」


 シオンは、いつになく緊張の面持ちでそう言った。


「エルフのエルリオたちなら、この日記を読める可能性がある。“リディア”とお前の母親がどういう関係だったのか、明らかにできるかもしれない」

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