第259話

 聖王暦一九三四年五月三日 九時三分

 ログレス王国 王都西区 中央区境界付近 封鎖駅構内


「戴冠式まであと三時間か。時間があるようでないな」


 シオンが手元の懐中時計を見て言った。駅の東側出入り口から続く中央区への架け橋には、これ見よがしにガリア軍の兵士と魔物、戦車が隊列を組んで待ち構えている。あちらから攻め入ってくる雰囲気は全くなく、シオンたちの読み通り、時間切れを狙ってこの膠着状態を維持するつもりなのだろう。


「ここから車を走らせても、大聖堂まで一時間はかかります。ガリア軍からの妨害を考慮すれば、今すぐにでもここを出発しないと、現実的に間に合いません」


 ステラが、床に広げた王都の地図を指差した。地図上には、赤いペンで大聖堂までの経路が色付けされている。


「王女の言う通りだぜ。見ろよ」


 煙草を吹かしながら、ユリウスは駅構内にある南東側の大窓を顎でしゃくって示した。


「ガリアの野郎ども、いよいよ兵力を中央区西側に集中させてきやがった。時間をかければかけるほど、ここから身動きできなくなる」


 見ると、ガリア軍の兵や魔物が続々と駅の近辺に集まってきていた。おそらく、王都に展開するほとんどの兵力を集結させているのだろう。


「亜人部隊を動かすのは、ステラが中央区に入ってからの予定だったな。作戦を変更しよう。先んじて亜人部隊には中央区で暴れてもらう」


 シオンの提案に、ユリウスが頷いた。


「確かに、もう西側と中央からの挟撃しか、あの防衛ラインを突破する方法はなさそうだな」

「いや、挟撃というよりは、亜人部隊には囮になってもらう」

「囮?」

「ほんの数分でいい。ガリア軍の注意が亜人部隊に向いている時に、俺たち騎士が先導してあの防衛ラインを強行突破する」


 その作戦内容に、プリシラが難色を示した。


「確かに我々三人だけであれば、強行突破することで大聖堂にたどり着くことは容易だとは思います。ですが、今回はステラ様がいらっしゃいます。もとより、強行的な手段を始めに取らず、駅を拠点にして東と西で二手に分かれた作戦を取ったのも、一極集中で放たれるガリア軍の弾幕からステラ様を守り切るのが難しいと判断されたからでは……」


 プリシラの意見には、ブラウンたちログレス兵も無言で同意した。シオンたち騎士三人で強引に防衛網を突破できるのであれば、最初からそうしていた。それを実行しなかったのは、ステラをガリア軍の攻撃から数時間守り切るのが困難であるためだ。


 シオンの作戦に否定的な空気が漂ったが、彼は特に意に介した様子もなく、不意に、ある場所に向かって歩き出した。


「ああ。だが、あの時と今とでは俺たちにないものがある」


 そう言って立ち止まったのは、つい先ほど鹵獲したガリア軍の戦車の前だった。砲台はシオンによって叩き折られているものの、走行させることは問題なくできる。


 ユリウスが眉根を寄せて肩を竦めた。


「戦車? このおんぼろ一台あったところで、何も変わらねぇだろ。砲台壊れているしよ」

「砲台ならエレノーラがいる。エレオノーラの魔術なら、火力はもとの砲台以上だろ」


 さも当然であるかのようにシオンが言ったが、当のエレオノーラは回答に困った顔になる。


「まさか、ステラをこの戦車に乗せて、そのまま大聖堂まで突っ切ろうってつもりじゃ……」


 シオンの返事を待たずして、ブラウンが大きく首を横に振った。


「シオン卿、いくら何でも無謀だ。ガリア軍も馬鹿じゃない。ステラ様が一番安全な乗り物に乗っていることなど、容易に想像がつく。戦車に集中砲火を浴びせられたら、それこそ一巻の終わりだぞ」

「だから俺たち騎士が戦車を守る」


 次にシオンは、駅構内に置かれた残装備のある場所に移動した。

 そこには、銃火器や弾薬といった装備のほか、バイクが三台と、それらを簡易基地からここまで運ぶのに使われた大型の装甲輸送車が二台あった。


「ステラを乗せた戦車は、亜人部隊が暴れたタイミングで生まれる一瞬の隙をついてこの駅を飛び出し、そこからノンストップで大聖堂まで向かう。戦車は、バイクに乗った俺たち騎士三人で遊撃的に大聖堂まで守り切る。正直、成功する確率は高くはないと俺も思っている。苦し紛れの賭けだってことは、重々承知だ」


 その場にいたほとんどの面々が、信じられないといった表情で頭を抱えた。

 だが、先んじて、ユリウスが落ち着いた様相で紫煙混じりに口を開いた。


「極論、防衛ラインを突破したあとは、行き当たりばったりで王女を守るってことか。お前にしちゃあ馬鹿の手本みたいな作戦だ。だがまあ、それだけ俺たちの手札が少なくなっているってことも状況的に理解できる」


 ユリウスのそんな総括を聞いてもなお、プリシラは悩ましい表情のままだった。


「確かに、残り数時間でここから大聖堂まで辿り着くにはそれしかないかもしれませんが……」


 続いてエレオノーラも、同意しかねるという感じで視線を泳がせた。


「シオンの言うことはわかるけど――あの防衛ラインを越えた瞬間、ステラは本格的に命を狙われることに……」


 多くの反対意見がステラの身を案じるモノだった。

 シオンは、ステラを見遣った。


「ステラ、どうする?」


 ステラは、その問いかけを待っていたかのように、鋭い眼差しをシオンに返した。


「他に何か妙案があれば――」

「やります」


 刃物の切っ先を通すように、ステラが言い切った。


「私も、それしかないと考えていました」

「いいんだな? 今までの旅の中でも命の危機は何度もあった。だが、この作戦はこれまでの比じゃないはずだ。それは理解しているのか?」

「わかっています。でも結局、私が生き延びるには女王になるしか選択肢はありません。それだけじゃない。私が女王になれなかったら、多くの国民の命がガリアに弄ばれます。そのことを鑑みれば、自分の命を賭けに差し出すのは必然的な選択です。その作戦でいきましょう」


 毅然とした態度のステラだったが、ブラウンをはじめとしたログレス兵はいまだ納得ができていない様子だった。


「ですが、ステラ様――」

「これは王族としての命令です。従ってください」


 しかし、すぐさまステラがそれを制した。少女らしからぬ堂々とした振る舞いに、ブラウンも堪らず押し黙ってしまった。

 その傍ら、シオンがステラに歩み寄り、一丁の拳銃を渡した。砲身部分が異様に太い、単発式の拳銃だ。


「この信号弾が亜人部隊を動かす合図になる。最後の戦闘準備が整い次第、俺と一緒に駅の中庭に移動してくれ。そのあと、お前のタイミングで空に向かって引き金を引け」


 信号弾を受け取ったステラは、シオンの赤い双眸をしっかりと見据え、頷いた。







 聖王暦一九三四年五月三日 九時四十一分

 ログレス王国 王都中央区 シンリック大聖堂内部


 大聖堂の中は、異様な静寂に包まれていた。誰一人として言葉を発さず、重々しい空気がこの場を満たしている。

 それも偏に、聖王教会教皇――アーノエル六世ガイウス・ヴァレンタインがいるからだろう。ガイウスは、大聖堂の主祭壇近くの椅子に座ってからというものの、微動だしなかった。神聖な場であるにもかかわらず、大胆不敵に足を組み、ひじ掛けを使って頬杖を付く、聖職者らしからぬ姿勢でいる。両目を閉じ、傍からすれば寝ているようにも見えたが、彼から発せられる妙な殺気がそのことを明確に否定していた。


 ガイウスの側近である四人の枢機卿と、大聖堂の守護を務める十二人の議席持ちの騎士については、この張り詰めた空気の中でも佇まいに余裕が感じられた。だが、それ以外の出席者は、大聖堂内が快適な室温である一方で、居心地の悪さから漏れなく冷や汗を顔に滴らせていた。


 それはガリア大公も例外ではなかった。むしろ、他の出席者よりも、より顔色を悪くしている。それは、戴冠式が万が一にでも成功してしまったら、という考えから来る焦燥だった。

 空気の悪さと焦りから、自身の親指の爪をガジガジと噛み締めるガリア大公――そんな時、大聖堂の裏手口から、四十代半ばほどのスーツ姿の男がこっそりと一人入ってきた。ガリア大公の秘書である。


「ガリア大公、少々お時間を」


 秘書は、足音を殺しつつ速やかにガリア大公の傍らに移動すると、周囲を気にしながらガリア大公の耳に顔を近づけた。それから数十秒間、ガリア大公に何かを耳打ちする。


「それは確かか?」


 途端、ガリア大公が驚きに目を丸くし、秘書に確認した。秘書がそれに力強く頷いて答えると、ガリア大公は今度、嬉々とした表情になり、犬歯を剥き出しにした笑みを浮かべた。

 そして、勢いよく座席から立ち上がる。


「お集りの皆さま方! 神聖かつ厳粛な儀礼の場において、このように声を張り上げること、どうかお許しください!」


 突然、ガリア大公が身廊に向かって歩きながら、両腕を広げてそう言った。


「つい先ほど、我が軍の情報網より衝撃の事実を耳にしました! 現在、王都市街地にて我がガリア公国軍とログレス王国軍が武力衝突しているさなかではありますが――なんと、その場に騎士と思しき者たちがステラ王女を警護しているとの情報を得ました!」


 鬼の首を取ったようにうきうきとしながら、ガリア大公はさらに説明を続ける。


「戴冠式の開催条件は、儀礼の場以外において教会勢力が一切かかわらないことです! もし本当に騎士がログレス王国軍に与しているとなれば、アーノエル六世教皇猊下が取り決めた協定に反する重大な事案と心得ます!」


 ガリア大公は勢いよくその老体を回転させ、内陣に立つ騎士団総長ユーグと、副総長イグナーツに鋭い視線を送った。


「して、騎士団の皆さまには、本件をいかように対応されるおつもりか、今ここで問いたい! 聖王騎士団総長、ユーグ・ド・リドフォール殿!」


 大聖堂内の注目が一斉に集まるなか、ユーグは特に動じた様子も見せず、徐に口を開いた。


「まずは事実確認が必要ですな。イグナーツ卿、頼めるか?」


 ユーグの隣に立つイグナーツも、淡々と、かつ落ち着いた佇まいでいる。


「もちろん、早急に対応いたします。ですが、先ほどガリア大公が仰ったように、我々教会勢力は儀礼の場以外での活動を禁止されております。さて、教皇猊下、こちら、いかがいたしますか? 許可を頂ければ、今すぐにでも市街地へと赴きますが」


 イグナーツがガイウスに問いかけた。だが、その返答がされる前に、ガリア大公がずかずかとガイウスに歩み寄った。


「何を悠長なことを! 猊下、ログレス王国軍に騎士が紛れていることは自明です! 即刻、戴冠式の中止を!」


 鼻息を荒げて力説するガリア大公だったが、ガイウスは目を閉じたまま何も反応を示さなかった。

 その様子を見ていたパーシヴァルが、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「それは無茶な要求ですよ、ガリア大公。事実確認ができないんじゃあ、勝手に止めるなんてことはできないですね。あくまで戴冠式は、ログレス王国の催しなので。そんな横暴な内政干渉は、いくら教会でもできないです」

「今さらな! 猊下、どうか賢明なご判断を!」


 口角泡を飛ばしてガリア大公がさらに問いかける。


「猊下!」


 ようやく、ガイウスの目が静かに開けられた。ガイウスは、目の前に立つガリア大公を金色の瞳で一瞥した。その鋭い視線に、ガリア大公がビクッと体を震わせる。

 そのあとで、ガイウスの口が徐に動いた。


「イグナーツ卿とパーシヴァル枢機卿猊下が申し上げた通りです。我々の活動範囲はこの大聖堂内に限られている。それは、貴方と取り交わした約束事だ。そして、我々が事実を確認できない以上、戴冠式を取り止めることもできない。我々はこのまま静観させてもらう」


 ガイウスはそれだけを言い残し、また静かに両目を閉じた。それ以上騒ぐな――彼の振る舞いは、それを暗に示していた。


 ガリア大公は、ぽかんと口を開けたまま、呆気に取られる。しかし、一秒、また一秒と時間が経つにつれ、見る見るうちに顔を激昂に赤く染め上げた。

 そんな時、先ほどの秘書が、またガリア大公に駆け寄っていった。その顔は、異様に青ざめている。


「ガリア大公!」

「今度はなんだ!」


 裏返った声で叫ぶガリア大公だったが、秘書からの言伝を聞いた瞬間、地獄へ続く門の前に立たされたかのように表情を強張らせた。


「ちゃ、チャルムスが死んだ……!? 死因は拷問……!?」


 震える声で訊くと、秘書は申し訳なさそうに、だがしっかりと頷いた。

 途端、ガリア大公は勢いよく踵を返し、大聖堂の外に向かって歩き出した。


「ガリア大公、いずこへ!?」

「ネフィリムだ! ネフィリムを投入しろ!」

「動かせるネフィリムは、今はもう――」

「“零号”がいるではないか!」


 慌てて後を追った秘書は、ガリア大公とそんな会話を繰り広げたが、“零号”という言葉が出たあと一瞬固まった。直後、ガリア大公の進路を妨害するように、慌てて立ち塞がる。


「そ、それだけは駄目です、大公! メンゲルからも“零号”だけは絶対に動かすなと言われております!」

「黙れ! 使えるモノを使わんでどうする! 死んだ人間の言ったことなど、いつまでも守っていられるか!」


 ガリア大公は秘書を押しのけ、大聖堂近くに停車してあった送迎用の車に乗り込んだ。


「どいつもこいつも、わしに舐めた態度を取りおって! 目に物を見せてやる!」

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