第258話

 聖王暦一九三四年五月三日 七時三十分

 ログレス王国 王都中央区 シンリック大聖堂内部


 戴冠式が執り行われるシンリック大聖堂には、すでに騎士団の面々と聖女アナスタシアが到着していた。側廊には、Ⅲ番からⅩⅡ番の議席持ちの騎士十人が、片側それぞれ五人ずつ、一糸乱れぬ様子で彫像のように立ち並んでいる。全員が白い戦闘衣装と足元まである大仰なケープマントを羽織り、目深にフードを被るその統一された光景は、厳かであり、無機質に冷たい雰囲気を漂わせていた。

 王冠が置かれた主祭壇の両端には、二つの椅子が向き合う形で配置されている。そのうち、拝廊から入って右側の方に聖女アナスタシアが座っていた。

 そして、主祭壇の少し手前、段差のある内陣に二人の騎士が立つ。騎士団総長にして議席Ⅰ番の騎士ユーグと、騎士団副総長にして議席Ⅱ番の騎士イグナーツが、守護天使の如く佇んでいるのだ。


「それにしてもまさか、議席持ち全員の出席を戴冠式開催の条件に含めるとは」


 息が詰まるような重々しい空気のなか、イグナーツがぽつりと、隣のユーグにだけ聞こえる声量でそう漏らした。

 ユーグは正面を向いたまま、徐に口を動かす。


「ガリア大公も、騎士団がログレス王国寄りであることに勘付いているのだろう。騎士団がステラ王女に何かしらの直接的な影響を与えないよう、目に見えるこの場に集中させたと考えるのが妥当だ」

「それは別に構いませんが、議席持ちをこんな風に一か所にまとめられてしまうと、短期間とはいえ、大陸各地の騎士団のプレゼンスが著しく低下してしまいますね。小国の情勢が心配です。場所によっては、隣国と一触即発の国があったりするので」


 通常、議席持ちの騎士全員が一か所に集まるということは滅多になく、円卓会議のような騎士団として重大な意思決定の場が作られない限りは、意図して避けられることが常だった。何故ならば、議席持ちの騎士が一人その場にいるだけでも、その国とその周辺に多大な影響を与えることになり、大陸情勢の均衡を保つことができるからだ。もっともたる例が、小国間の緊張緩和である。小国同士が紛争を起こせば、まず間違いなく近場にいる議席持ちの騎士が出張ることになる。そのため、彼ら彼女らが一人いるだけでも、紛争防止のための大きな抑止力として働くのだ。


 ゆえに、イグナーツが先のような不満を漏らしたのだが――対するユーグは、淡々としていた。


「我々の補填を目的とした大陸各国の情勢維持には、十字軍を活用するそうだ。ガイウスにとっても、議席持ち全員の出席は好都合ということだな。ここぞとばかりに、十字軍の影響力を高める腹積もりなのだろう」

「大陸各地の騎士団のプレゼンスが十字軍にどんどん取って代わられていきますね。ガイウスめ、まったくもって抜け目がない」


 やれやれと、イグナーツは嘆息した。


「それはそれとして、ステラ王女たちの近況はどうだ?」


 ユーグが訊くと、イグナーツはさらに芳しくない顔になり、首を横に振った。


「苦戦しているようです。王都には到着していますが、中央区と西区の間にあるガリアの防衛ラインを依然突破できていません。少し前に、シオンたちがガリア軍の主力部隊を引き付け、その隙に突破する作戦を試みたようですが――まだここに到着していないところを見ると、不発のようですね」

「防衛ラインを越え、中央区に入ってさえしまえば、あとはシオンたち三人の騎士の力でゴリ押すこともできるだろうが……」

「ログレス軍の兵力が少なすぎるというのが、やはり致命的ですね。奴隷として潜伏中の亜人部隊をどう扱うか――防衛ラインを内外から挟撃するタイミングが肝要かと」

「タイミングを見誤れば、亜人部隊もガリアの主力になすすべなく墜とされるだろうな」

「ですね」


 劣勢であると整理された状況を聞き、ユーグは軽く目を伏せた。


「どうにも歯痒いな。これ以上、手を貸すことができないのは」

「我々は我々でできることをやりましょう。そろそろガリア軍がシオンたちの存在に気付くはずです。訴えられた時に誤魔化す言い訳を考えなければ。ステラ王女の諸々を我々が手引きしたことが明るみになった瞬間、ここも騒がしくなりそうですし」


 大聖堂の扉が大きく開かれたのは、そんな時だった。

 続々と拝廊から身廊へと向かって雪崩れ込んできたのは、戴冠式に招待された要人たちであった。しかし――


「ログレス王国の戴冠式だというのに、招待されるのはガリア公国の要人ばかりか」

「戴冠式が成功するとは微塵も思っていないようですね。一応、ログレスの大臣も何人かいるようですが、いずれも裏切者か、体のいい人質のどちらかです」


 ユーグとイグナーツの言葉通り、他国のはずであるガリア公国の要人ばかりが姿を現し、この場を席巻していた。ログレス王国のために催された場にもかかわらず、ぞろぞろと我が物顔でガリアの要人たちが聖堂内の席に腰を下ろす様は、この場を取り仕切る騎士たちの心情にもそれなりの不快感を与えていた。


 不意に、ユーグがアナスタシアに視線を送る。


「聖女アナスタシア」


 呼ばれて、アナスタシアは微かに両肩を弾ませた。


「ステラ王女がここに到着次第、すぐに戴冠式を開始します。此度の進行は特例中の特例になるでしょう。どのような妨害がガリア側からあるか、我々も予測しきれません。いつでも王冠をステラ王女に授けられるよう、心のご準備を」

「え、ええ、承知しております」


 緊張の声色でアナスタシアが返事をした。

 ユーグは次に、イグナーツを見遣る。


「イグナーツ卿、君には、Ⅷ番以下の議席持ちへの指示を――」


 そこまで言いかけて、ユーグは大聖堂の出入り口を見て、目を見開いた。

 大きく開けられた大聖堂の扉から、また新たな人影が身廊に向かって入ってきた。

 逆光を背に歩みを進めるのは、ガイウス、ランスロット、トリスタン、パーシヴァル、ガラハッドの五人だった。


 ガイウスたちが現地入りする予定の時刻は十時だったはず――今から二時間以上も早い到着に、この場にいた誰もが揃って驚きの表情になった。


 そんな中、賓客の一人が、何やら慌ただしくガイウスにすり寄っていった。

 ガリア大公だった。


「おお、教皇猊下! まさか、こんなに早くご到着されるとは! 予定を変更されると先にお伝えいただければ、お迎えに上がりましたものを!」


 ガリア大公はどこか馴れ馴れしい様子でガイウスの横にまとわりついた。

 そこへ、すかさずランスロットが間に割って入る。


「神聖な儀式の場において、不必要に歩き回らないでいただきたい。ステラ王女が到着次第、戴冠式を始められるよう、賓客は大人しく座っていてもらおうか」


 ガリア大公は、ランスロットの鋭い睨みに怯みつつ、執念深くガイウスの傍に寄った。


「お、お言葉ですが猊下、ステラ王女がここに来る確率は極めて低いものと思われますが?」


 しかし、ガイウスは無言で身廊を歩くだけで、ガリア大公のことなど羽虫ほどにも思っていない様子だった。


「げ、猊下もとっくにご存じでしょう? この戴冠式が成功することなど、ありえないと」


 正確に言えば、初めからその存在にも気付いていないような振る舞いだった。空気のように扱われたガリア大公は、額に大量の汗と青筋を浮かべながら、ついにガイウスたちの行く手を阻むように立ち塞がった。


「猊下! わしの話に耳を傾けてくだされ! わざわざこんな大袈裟な戴冠式など挙げずとも――」

「ガリア大公、これは貴方の国の行事なんですか?」


 やや怒気を込めてガリア大公が言葉を発したが、パーシヴァルに首根っこを掴まれ、すぐさま押し黙った。

 パーシヴァルは、野良猫を躾けるような所作でガリア大公を持ち上げ、微笑を浮かべた顔を近づける。しかし、眼鏡の奥にある双眸は死人のように冷たく、濁っていた。

 パーシヴァルのその不気味な表情に圧倒されたガリア大公は、息を呑んだ後、静かに首を横に振った。


「い、いいえ。ですが――」

「なら黙って席に着いてもらっていいですかね。猊下は移動でお疲れらしいので。貴方はあくまで招待された賓客でしょう?」


 パーシヴァルはそう言ってガリア大公を脇にやって手放した。

 解放されたガリア大公は、たたらを踏みながら側廊に向かって転び、周りの手を借りながら立ち上がる。忌々しそうにガイウスたちを暫く睨んでいたが、短い悪態の言葉を吐いた後で、ずかずかと自席に戻っていった。


 そんな一連のやり取りが終わって間もなく、ガイウスは主祭壇の端にある椅子に腰を下ろした。ランスロットたち四人の枢機卿も、ガイウスの背後を固めるような配置で静かに立ち並ぶ。


「ガイウス、ひどく気が立っていますね」


 イグナーツが言って、ユーグは静かに頷いた。


「聖女を目の前にしてから、文字通り目の色が変わったな。あそこまで感情的なガイウスは、あの男が騎士だった時代でもそうそうなかった」


 そう言いながら、ユーグはアナスタシアに目を向けた。

 すると、アナスタシアはというと、顔を青ざめさせ、過呼吸寸前の様相で体を震わせていた。正面に座るガイウスを直視できず、まるで蛇に睨まれた蛙同然の有様だった。


 見かねたユーグが、内陣から少し離れ、アナスタシアの傍らに立つ。


「聖女、ご安心ください。いくらガイウスでも、この場でいきなり貴女に何かを仕掛けるということはないでしょう。どうか落ち着いてください」

「は、はい……」


 アナスタシアはぎこちなく頷いたが、それもほぼ反射的な返事のようだった。


 ユーグが再び内陣に戻ると、イグナーツが眉間に深い皺を作りながら怪訝になった。


「果たして本当に、ガイウスの狙いは聖女が持つ“写本の断片”なのか……」

「おそらく、目的は他に何かあるのだろう。それにしても――」


 ユーグはそこまで言って、ガイウスの方を振り返った。


「聖女を目の前にしたガイウス――まるで、悪魔にでも取り憑かれたかのような顔つきだ」


 ガイウスは無表情だった。

 だが、その金色の双眸は、ひどく、歪に淀んでいた。

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