第240話

 騎士団本部の“円卓の間”にて、総長ユーグと副総長イグナーツは、各々の議席に座り、手元の書類に目を通していた。書類は、つい一時間ほど前に届けられたリリアンからの報告書だった。報告書には書籍並みの厚さがあり、ダキア公国で起きた一連の出来事、および直近の経過措置などが記されていた。


 ユーグは、パラパラと紙を一通り捲り終えたあと、心労を孕んだため息を徐に吐いた。


「なかなかどうして、うまくいかないものだな。王女の奪還という目的こそ達成できたものの、教皇罷免に向けてはほぼ無力化されてしまったか」


 齢五十五を超えた顔に、さらなる深い皺が寄せられる。

 隣の議席に座るイグナーツが肩を竦めた。


「我々の計画が見事に破綻しましたね。矢を放つことが叶わなければ、シオンが知るであろう“教皇の不都合な真実”も、エレオノーラが実子である事実も、持て余してしまう。今後の王女の扱いを見直さなければなりませんが、いかがいたしますか?」


 ユーグは報告書をテーブルに置き、白い顎鬚に手を添えた。


「いずれにせよ、ステラ王女を女王に即位させ、ログレスの主権を回復させることは急務に違いない。これ以上、ガリアの力を一方的に強めるのは十字軍云々以前に大陸情勢として好ましくない。それに、無力化されたとして、利用価値がなくなったわけでもあるまい。資源大国であるログレスが騎士団の味方に付いてくれるのであれば、それはそれで頼もしい」


 ユーグの見通しに、イグナーツは眉を顰めた。


「果たして、そうすんなりと味方になってくれますかね。戴冠式開催の借りがある以上、ガイウスの言いなりになってしまう可能性もあるのでは?」

「そうならないよう、私たちが介入するのだ。それに、ステラ王女が子供であることに付け込んで、彼女の権力を利用しようと目論む政治家がログレス国内でも大勢いるはずだ。そういった勢力からも、彼女を守る必要がある。おそらく、ガイウスたちも同じことを考えているはずだ」

「それについては、そうでしょうね。ただ一つ、うれしいことに、この件に関しての我々の強みは、ステラ王女がシオンと懇意にしているという点です。教皇たちにはない、大きなアドバンテージです」

「たとえステラ王女個人が我々に友好的であっても、国としてどう接してくれるかはまた別の話だ。ついさっき君が懸念したように、ガイウスの言いなりにならざるを得ないことも考えられる。楽観視できないことに変わりはない」


 悩みの種は尽きないと、ユーグは再度大きな息を吐いた。

 そうやって背もたれに体重を預けたあとで、改めてイグナーツを横目で見遣る。


「ところで、ダキア公国とは今後どのようなかかわりを持つことになる? 報告書によれば、今回の騒動で生じた損害を教会側に請求すると、オルト・アルカードは躍起になっているそうだが。これに書ききれていない最新の情報もあるのだろう?」


 イグナーツは頷いた。


「当面はリリアン卿を窓口にしてやり取りをさせてもらうことになりました。損害については、いったん騎士団の方で支払います。街を攻撃した十字軍、もとい教皇庁が払うわけがないので」

「財源は? 今の我々に金銭的な余裕はほとんどないはずだが」

「キルヒアイス家に工面してもらう予定です。手土産にダキア公国での事業展開の約束を持って行ったら、渋々頷いてくれましたよ。ほんと、金持ち様様です」

「キルヒアイス家が後援者になっていなかったらと思うと、なかなかに背筋が凍る話だ。たまには、景気のいい話を安心して聞きたいものだ」


 そんなユーグの小さな愚痴に、イグナーツは微笑した。


「まあ、今回の件は悪いことばかりでもないです。損害の補填が完了した暁には、ダキア公国の三貴族であるオルト・アルカードとカーミラ・カルンスタインが、対教皇庁を名目に我々騎士団と協力関係を結んでくれることを約束してくれました。吸血鬼たちの力を得られるのは、なかなかに頼もしい」

「であれば、吸血鬼たちの行動にかかわる諸々の取り決め、手配も必要になってくるな。仕事がまた一気に増えるが、人手は足りるのかな?」

「議席Ⅹ番ネヴィル卿がそろそろラグナ・ロイウから帰還する予定です。吸血鬼関連のもろもろは、彼に任せてしまいましょう」

「面倒な仕事を押し付けられ、嫌な顔をしそうだな」

「それくらいでいいんですよ。普段、サボることしか考えてないんですから、彼は」


 それもそうだなと、ユーグもつられて小さく笑った。

 次に二人は、別の資料を手に取った。


「さて、あと解決しなければならないこととしては――」

「戴冠式開催の場に、どうやってステラ王女を送り届けるか――特大の悩み事ですね。仮にすべてログレス側でやってもらったとして、自力でガリアの妨害を突破できるとは到底思えません。万が一、戴冠式に赴く途中でステラ王女が暗殺されでもしたら――」

「ログレスは今度こそガリアの支配下に入ってしまう。そうなれば、我々騎士団も、ガイウスたち教皇庁、十字軍も穏やかではいられない。事の重大さとしては、騎士団と十字軍のいざこざ以上だ。ガリアが過剰な力をつけることは、ガイウスたちとしても不本意だろうに」


 ユーグの見解を聞いて、イグナーツは悩ましげに呻った。


「ガイウスにとっても、ガリア公国は所詮、ただの利害関係者でしかありませんしね。十字軍発足のために利用していただけで、何か特別な思い入れがあるわけでもない」


 ガイウスの真意が読めないことに、二人は揃って難しい顔になった。

 そうやって“円卓の間”が沈黙で膠着した矢先、勢いよく扉が外から開かれた。


「入るぞ!」


 室内の空気が漏れなく震えるほどの声量を上げて入室したのは、議席ⅩⅡ番メイリン・レイだった。


「扉は静かに開けてください、メイリン卿」

「総長、電話だ!」


 イグナーツの注意を無視し、メイリンは簡潔に用件を伝えた。

 それを聞いたユーグは怪訝に眉を顰めた。


「電話? 誰からだ?」

「ガイウスだ! ログレス王国の戴冠式の件で伝えたいことがあるらしい! もうすぐ会議室の電話が鳴るから出てやれ!」


 直後、“円卓の間”に一つだけ設置された電話が、けたたましく鳴り響いた。

 ユーグは議席から立ち上がり、すぐに受話器を取って耳に当てた。


「私だ」

『――』


 それから、ユーグは五分ほど通話先の相手の話に耳を傾けた。口を挟むことなく、険しい表情のまま、じっと固まっていた。


「……なるほど」


 ようやく発した次の一言が、それだった。

 ユーグは顔を少しだけ柔和にし、かつどことなく憂いを帯びた光を双眸に宿した。


「つくづく思う。お前ほど、味方であって頼もしく、敵になって恐ろしい男はいないとな、ガイウス・ヴァレンタイン」







「――主よ。天にまします我らの主よ……」


 騎士団本部の居住区画――騎士たちの生活スペースとなるフロアには、多くの個室が備えられている。そのどれもが必要最低限の生活を保障した質素なものであるが、とりわけ、議席持ちの騎士たちの部屋と、賓客用のそれだけは、高級ホテルさながらの設備であった。


 しかし、聖女アナスタシアはそんな豪奢な空間において、一人、まるで何かから姿を隠すかの如く、ひっそりと日々を過ごしていた。


 現在の時刻は二十時を過ぎていたが、部屋には照明が灯されておらず、窓ガラスから差し込む外の仄かな明かりだけが頼りだった。


 そのような空間で、アナスタシアは、ただひたすらに祈りの言葉を唱え――


「我らが罪を赦すが如く、どうか我らの罪を赦したまえ……」


 神に赦しを乞うていた。

 部屋の隅で、両膝を床につけ、首を垂れて両手を組み、きつく目を閉じていた。


 アナスタシアは、この部屋で生活をするようになってから今この瞬間まで、一人の時は常にそうしていた。


「どうか我らの罪を赦したまえ……」

「我“ら”じゃなくて、我の罪、なんじゃないんですかね、聖女?」


 不意に起こった男の声に、アナスタシアは驚愕に目を剥いた。


「だ、誰ですか!?」


 慌てて立ち上がり、目を凝らして薄暗い部屋の中を見渡す。

 すると、ソファに一人、何者かが座っていた。


「聖王教会枢機卿、パーシヴァル・リスティスです。以後、お見知りおきを」


 パーシヴァルは、アナスタシアと目が合って早々に立ち上がった。


「もしかして、騎士団に保護されてからずっとここでそうしているんですか? 祈りの言葉を都合よく自戒に当てて赦しを乞うなんて、聖女ともあろうお方が恥ずかしくないんですかね?」


 徐に歩みを進めるパーシヴァル――アナスタシアは小さな悲鳴を上げ、その場に尻もちをついた。


「す、枢機卿猊下が何故ここに……!? 部屋には鍵をかけていたはず! ひ、ヒトを、騎士を呼びますよ!」

「どうぞ、お呼びになってください。といっても、用事はすぐに済むので」


 あっけらかんとしたパーシヴァルの反応と彼の言葉に、アナスタシアは驚きの表情を困惑に変えた。


「よ、用事……?」


 そして、パーシヴァルがアナスタシアの眼前に立つ。


「教皇猊下からの言伝です」


 直後、アナスタシアの顔色が恐怖に染まった。両目を大きく広げ、口を小刻みに何度も開閉させる。両手は行き場を失ったように、顔に添えられた。


 そんな彼女には構わず、パーシヴァルは嗤笑にも見える笑みを口元に宿し――


「“知りたいことは知っている。祈り、苛み、恐怖しろ。審判の日までにお前ができることは、それだけだ”」


 そう告げた。


 途端、アナスタシアの口から、ヒトのものとは思えないほどの金切り声が発せられる。悲鳴や慟哭という表現すら生ぬるく、あかたかもそれは悪魔の断末魔を連想させた。


「貴女が、“最後の一人”らしいですね、聖女」


 パーシヴァルがしゃがみ、アナスタシアの顔を覗き込むように言った。

 アナスタシアは、床を這うように逃げ出し、まるでカーテンレースが神であるかのように、それにしがみついた。


「ゆ、赦してください……赦してください……! わ、私は、私は……!」


 その顔はもはや正気とは言えず、死神に鎌を振り下ろされる直前とでも表現するのが適切な有様だった。


 そんな彼女の姿を、立ち上がったパーシヴァルは憐憫の眼差しで見下ろす。


「僕に言われてもねぇ。ガイウス本人に言ってみてください」


 “ガイウス”――その言葉を聞いたアナスタシアから、またもや耳をつんざく甲高い悲鳴が放たれた。


 パーシヴァルはそれにうんざりした顔を見せつつ、肩を竦めた。


「僕の用事は以上です。くれぐれも、戴冠式をバックレるなんてことはしないでくださいよ。そんなことしたら、本当の本当に、ガイウスがブチギレるかもしれないので。まあ少なくとも、貴女の背中に“写本の断片”が刻まれている間は、身の安全は保障されているのでご安心を。そういちいち発狂しないで」


 しかし、アナスタシアは狂乱に身を任せたままカーテンレースにしがみつき、もはやパーシヴァルの話を聞ける状態ではなかった。


 パーシヴァルは嘆息しつつ、踵を返す。


「きっとガイウスも貴女に会えるのを楽しみにしているはずだ。どうかそれまで、ごきげんよう」


 そして、それだけを言い残し、忽然と姿を消した。


 部屋には、狂気に侵されたアナスタシアだけが残り、彼女の悲鳴が響き続けた。

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