第234話
第三ターミナルの中階層――そこの長い一本道の通路で、ステラとアルカードは、ミナとジョナサンに行く手を阻まれていた。
不意に、アルカードが横に腕を伸ばし、ステラを下がらせる。
「これから少々血生臭いことが起きる。王女は後ろに下がってもらいたい」
ステラは大人しく指示に従い、駆け足で通路の後方に下がった。曲がり角のある場所まで退き、そこから固唾を飲んで見守る。
「ところで――」
ステラが離れたところで、次にアルカードはミナを見遣った。
「ミナ、いつまでその悪趣味な姿でいるつもりだ? もう、ままごとをする年齢でもないだろう」
しかし、そう言った直後、アルカードは先の言葉を自分で否定するように鼻を鳴らした。
「いや、そうでもないか。まだ、十七かそこらだったかな。それとも――悪戯に貴族の力を使わずにはいられなかったか?」
挑発するような口調に、ミナはこめかみをぴくりと動かした。
すると、ミナの身体に異変が起こった。十歳前後だった少女の身体が、みるみるうちに急成長し、二十歳手前ほどの容姿に変貌したのだ。
「幼女の姿の方が色々と都合がよかっただけ」
この急速な身体変化は、吸血鬼が持つ特殊能力の一つだ。吸血鬼たちは、内臓、骨、筋肉、血といった自身の身体の構成要素を自在に変形させることができる。習得にはそれなりの鍛錬が必要とされているが、時には骨や血を鋭利な物体に変化させ、己の武器として用いたり、ミナのように見た目を骨格レベルで変形させたりすることができるため、汎用性が高く、強力な能力であった。
今しがた、ジョナサンの両腕から飛び出たブレード状の骨も、同様の力である。
「伯爵、貴方は僕たちの事を侮り過ぎている。後天的に貴族になったとはいえ――」
「御託はいい。来るならさっさと来い。格の違いを教えてやる」
アルカードは、つまらない曲芸を見せられたような顔で言った。もう見飽きたと言わんばかりに、辟易した様子だ。
殊更に舐められた態度を見せつけられ、ミナとジョナサンは眉間に深い皺を寄せた。
「アルカード!」
そして、二人は同時にアルカードに肉薄した。
ジョナサンが右腕のブレードを振り、アルカードの首を掻っ切ろうとする。振った右腕に遅れて空気を切り裂く音が、ブゥンと廊下に響き渡った。
アルカードはそれを軽く後ろに引いて難なく躱した。しかし、引いた先にはミナが回り込んでおり、彼女のつま先がアルカードの脇腹目掛けて弧を描いていた。
この至近距離では直撃にしかならない――そんな状況だったが、ミナの蹴りは虚空を捉えた。
アルカードは床を蹴って上に跳躍し、それを避けたのだ。さらには、両足を左右両方に勢いよく蹴り上げ、ミナとジョナサンを大きく吹き飛ばす。
そうやってジョナサンが怯んだ瞬間、アルカードは通路の換気口にあった小さな鉄格子を壁から外した。その後、すぐに鉄格子は力任せに解体され、数本の短い杭が出来上がる。
アルカードは、バランスを失ってたたらを踏むジョナサンに肉薄し、彼の腹に蹴りを入れて壁に打ち付けた。間髪入れず、手にした杭を手早くジョナサンの両肩に刺し込み、壁に磔の状態にした。追撃に両足の付け根にも杭を刺し、ジョナサンの身動きを完全に封じる。
刹那、アルカードの後方からミナが迫った。ミナが足を振り上げ、渾身の踵落としをアルカードの頭上に見舞おうとする。
だが、アルカードはそれを難なく受け止め、ミナの足首を掴んだ。それからミナの身体はアルカードを中心に一回転ほど勢いよく振り回され、最後に床に叩きつけられた。
アルカードは止めに、ミナの首元に杭を刺して動きを封じた。
「貴族の身体を手に入れて浮かれているようだが、だからといって俺に勝てるわけではないぞ。貴族の中にも格があるということをまったく理解していなかったようだな」
アルカードは、悔しそうに歯噛みするミナを見下ろし、怒りで震えるジョナサンを一瞥し、
「王女、もう出てきて大丈夫だ」
ステラのいる方に振り返った。
戦闘の一部始終を遠くから見ていたステラが、曲がり角から恐る恐る姿を現す。ステラは警戒した足取りで移動し、アルカードの隣に立った。
「あ、あの……」
「話は後だ。まずはこのターミナルビルから脱出する」
無様に磔状態になった二人の吸血鬼にはそれきり興味も示さず、アルカードは淡々と廊下の先に視線を送った。
アルカードとステラが、非常用階段の扉に向けて歩みだす。
しかし、すぐにその足を止めた。
非常用階段の扉が、徐に開かれたのだ。
警戒を強めるアルカードと、彼の後ろに隠れるステラ。
そして――
「ステラ!」
「エレオノーラさん!?」
非常用階段の扉から出てきたのは、エレオノーラだった。
エレオノーラに続いて、リリアンたちも続々と姿を現す。
「王女の迎えが来たか」
アルカードが、やれやれと疲弊気味に緊張の糸を解いた。
リリアンたち騎士の表情が強張ったのは、その直後だった。
「伯爵! 後ろです!」
アルカードはリリアンのその声に反応し、すぐに後ろを振り返った。
そこに映っていたのは、いつの間にか自力で拘束を解いたミナとジョナサンが、今まさにアルカードに捨て身の攻撃を加えようと飛びかかっている姿だった。
アルカードはステラを横に突き飛ばし、まずは彼女の身の安全を確保した。
そのすぐ後に、ジョナサンのブレードが、アルカードの左肩を深く斬りつけた。それにアルカードが怯んだ一瞬の隙――ミナはそこを狙い、彼の心臓目掛けて、杭を打ち込もうとした。
いかにアルカードといえど、杭を心臓に直接撃ち込まれては致命傷になりかねない。
アルカードの顔が焦りで歪められ――直後、“天使化”状態のリリアンが光の剣を手に、目にも止まらぬ速さでミナに向かっていった。
吸血鬼を遥かに凌ぐその速度に、ミナとジョナサンが驚愕と恐怖に目を見開く。
そして、リリアンの光の剣が、ミナの心臓部に突き刺ささろうとするまさにその瞬間、
「何故……!」
アルカードが、リリアンの腕を掴んでその軌道を無理やり逸らした。その際に、光の剣がアルカードの脇腹を掠めてしまった。アルカードは絶叫を喉に留めて押し殺し、歯が割れる勢いで顎を噛み締める。
何故、アルカードは敵を庇ったのか――リリアンを始めとした騎士たちは、一瞬、呆然と立ち尽くす。
そのわずかな隙に、
「ミナ、ここはいったん退こう!」
ジョナサンが、ミナの腕を引いて、この場から立ち去ろうとした。
「ミナ!」
しかし、ミナは、膝をついて痛みに悶えるアルカードを見下ろしたまま、動こうとしなかった。
「それで、懺悔のつもり?」
怒りと悲哀が入り混じったような、何とも言えない表情で、ミナは言った。
アルカードは、その真意を知っているかのような、どこか皮肉染みた笑みを口元に浮かばせる。
「……何の話だ」
とぼけた口調でアルカードが言って、ミナの顔はますます複雑に歪められた。
そんなミナの腕を、ジョナサンが強引に引く。
「ミナ、騎士を相手にするのは分が悪い! 早く――」
「私たちを嵌めておきながら、そうやすやすと逃がすわけがないだろう、吸血鬼どもが」
そう言ってジョナサンの身体を吹き飛ばしたのは、レティシアだった。レティシアは、どこか恨みの籠った蹴りを一発、ジョナサンの側頭部に打ち込んだ。
ジョナサンの身体は激しく壁に打ち付けられ、ずるりと床に伏した。そこに、双剣を引き抜いたレティシアが無情にも殺意を抱いて迫る。
だが、その行く手を阻んだのはアルカードだった。
「待て! お前たちはこの二人に手を出さないでくれ!」
自身の容体など鑑みず、懇願するようなアルカードの声色に、彼以外の全員が眉を顰めた。
「伯爵、お言葉ですが、この二人は貴方の立場と命を狙っている張本人たちです。何故、庇うようなことを?」
リリアンの無邪気な質問に、アルカードは一瞬黙った。それから一度、許可を求めるような眼差しでミナを見たあと、ゆっくりと口を動かす。
「……この二人は、俺の妻の妹と、その婚約者だ。無下にはできない」
リリアンたちが驚き、空気が硬直した。
その時、ジョナサンが弱々しく立ち上がる。
「この期に及んで、親戚面ですか。ミナの姉――ルーシーを死に追いやった元凶が、よくもまあいけしゃあしゃあと言えますね」
口の中で消えてしまいそうなほどにか細い声だったが、そこには明確な怒りを孕んでいた。そうやって静かに怒るジョナサンの傍らに、ミナが慌てて駆け寄る。
それきり、誰も言葉を紡がず、通路に不穏な沈黙が広がった。
「あ、あのぅ……」
そんな重い雰囲気に耐え兼ねた様子で、ステラが恐る恐る控えめな声を出した。
それを見たエレオノーラが、
「ステラ!」
感極まった声を上げつつ、ステラに駆け寄って抱き締めた。
「え、エレオノーラさん……」
驚き、困惑するステラだったが、抵抗することもなく、大人しくエレオノーラの両腕の中に留まる。
「――無事でよかった」
「はい……」
お互いに何を言えばいいのか――そんなことは隅に置き、まずは再会を喜んだ。
二人がそうしている間に、騎士たちは次に取るべき行動について話を始めた。
セドリックは体の前で両腕を組み、ステラとアルカードを軽く見遣る。
「これで王女の身柄は確保した。ついでに伯爵の身の安全もな。ともなれば、もうこの国に用はない。さっさと地上へ戻る算段を付けて――」
「ま、待ってください!」
突然、ステラが声を張り上げた。エレオノーラから離れ、騎士たちの前に立つ。
「私は皆さんについていくわけにはいかないんです! 私は教皇たちと色々取引していて、もし勝手にあの人たちから離れたら、最悪、ログレス王国が報復を受けることだって考えられます! それに、皆さんの身の安全だって――」
「ステラ様、仰りたいことは理解いたします。ですが、こちらも騎士団として譲るわけにはいきません。拒否されるというのであれば、力づくで連れていくまで」
リリアンが冷たく言い放ち、ステラが表情を曇らせる。
「でも――」
「王女の言う通りだ」
その声は、通路の曲がり角から聞こえた。
全員が同時に、その場所に目を向ける。
通路に響く靴音と合わせ、曲がり角から姿を現したのは、ガラハッドだった。
「ここに俺がいる以上、お前たち全員の命は王女の動向にかかっていると思え」
ガラハッドの両手には、血にまみれた一対の長剣が握られている。
ヴィンセントが銃を手に構え、睨みつけた。
「シオンとアルバートは?」
「二人とも駐車場で瀕死の状態だ。暫く目を覚まさないだろう。早く治療を受けさせるといい」
その言葉を耳にしたステラが、急に人格を変えたようにして、歩み出した。
向き先は、ガラハッドである。
「ステラ!」
エレオノーラに呼び止められ、ステラは立ち止まった。だが、振り返ることはしなかった。
「……ごめんなさい。もう、私のせいで無駄に誰かが傷ついたり、死んだりするのは、嫌なんです」
それが最終回答だと言わんばかりに、ステラの声は沈んでいた。
エレオノーラたちが何も言い返せないで黙っていると、
「お前たちも、アルバートとシオンを連れて早く地上へ出ろ。じきにこの街は潰される」
ガラハッドが、さらりと衝撃的なことを言い放った。
それに一番敏感に反応したのは、アルカードだ。
「この国のトップである俺を前に笑えない冗談を言うな。どういう意味だ?」
「空中戦艦、“セラフィム”、“ケルビム”、“スローネ”がここに向かっている。教会への背信行為が確認できたとして、粛清を名目にガイウスはこの街を焼き払うつもりだ」
ガラハッド以外の全員が、言葉を失って固まった。
その後、最初に動いたのはエレオノーラだった。
「ラグナ・ロイウと同じことをここで……!」
次に、ジョナサンが激しい剣幕で表情を歪める。
「ふざけるな! ガラハッド枢機卿猊下! 我々との約束はどうなっている!?」
「ガイウスは始めからお前たち吸血鬼と仲良くするつもりなどなかった。ガリアを説得するまでの間、王女の隠れ蓑とすることを第一に、“欲しいもの”を手に入れたあとは、反教会勢力になり得るこの国を弱体化させることが目的だ」
不意にガラハッドの台詞に混ざっていた言葉に、リリアンたち騎士が反応する。
「“欲しいもの”?」
その傍らで、アルカードは自身の腕時計を見た。
「日の出まであと一時間……街の住民を避難させるにも、貴族たちは日の光のせいで外に出すことができない」
それからすぐに踵を返し、非常用階段に向かった。
「仕方がない。まずは貴族以外の住民を優先的に地上へ逃がす。こんなところにいつまでもいられな――」
しかし、その行く手をジョナサンが遮った。
ジョナサンの顔には、失望と怒りの色が浮かんでいた。
「何のつもりだ、ジョナサン?」
「この国は貴族のものです。避難命令は、貴族たちが避難可能になってから出すべきでしょう」
「そんな悠長なことを言っていられるか。まずは救える命を最優先に救う。貴族たちの避難は――」
刹那、アルカードの前に、ミナも立ち塞がった。
「そうやって貴方は、どうしていつも貴族以外を優先するの! 姉さんを殺したのは人間たちなのに!」
アルカードの言葉は、そんな叫びでかき消された。
ミナはさらに続ける。
「忘れたとは言わせない。ただの人間だった姉さんが、貴族を良く思わない暴徒化した人間たちに、裏切り者として意味もなく殺されたことを。姉さんは貴族になりたがっていた。姉さんが貴族になっていたら、非力な人間たちに殺されることもなかった! でも、貴方がそれを許さなかった!」
途端、アルカードは、脇腹の生傷よりも深い痛手を負ったように表情を曇らせた。
だが、すぐに改め、しっかりとした眼差しでミナを見据える。
「ミナ、その話は落ち着いた時にいくらでも聞いてやる。だが、今は非常事態だ。あとにしろ」
ミナとジョナサンはそれきり押し黙り、動かなくなった。
それを尻目に、不意にヴィンセントが驚愕する。
「おい、いつの間にか王女とガラハッドがいなくなっているぞ!」
その言葉通り、通路からいつの間にか二人の姿がいなくなっていた。先ほどのアルカードたちの押し問答中に、立ち去っていたようである。
「どうする、リリアン。このまま俺たちも地上に避難するか?」
セドリックの問いに、リリアンは頷いた。
「こうなってしまっては、もはやそうするしかありません。アルバート様とシオン様を回収し、速やかに地上へ脱出しましょう」
それを聞いたレティシアが首を傾げた。
「だが、地上へ戻る手段はまだないぞ。当てにしていたカーミラ・カルンスタインの援助はどうなった?」
「それなら心配に及ばない。お前たちは俺の権限で地上へ送り返してやる。クーデターを企てていた貴族たちは、もう機能しないだろう。首謀者のミナとジョナサンが、この有様だからな」
騎士たちの会話を聞いていたアルカードが、彼らに対して背中越しにそう言った。
「伯爵……」
やるせなさと静かな怒りを携えていることが、誰の目から見ても如実にわかった。
※
「まだ息はある。だが、これは……」
第三ターミナルの駐車場は酷く荒れていた。三人の“天使”による人智を越えた戦闘――それがどれだけ激しいものだったかは、変わり果てたこの光景が何よりの証拠だった。床、天井、壁を構成するコンクリートは至る所で捲り上がっており、同時に幾つもの斬撃の跡を残していた。車も悉く細切れにされ、もはやここにある残骸は、元が何だったのかもわからない有様だった。
そこに、二人のスーツ姿の男の吸血鬼が訪れていた。
吸血鬼たちは、虫の息で倒れるシオンとアルバートを見て、困惑と驚愕に眉根を寄せる。
「大丈夫ですか? 意識はありますか?」
そう呼びかけて間もなく、シオンの瞼が徐に開かれた。
次にシオンは、弱々しく唇を動かす。
「アンタたちは……?」
「我々はカーミラ様の遣いの者です。カーミラ様より、貴方たち騎士を地上へお送りするようにと仰せつかりました」
吸血鬼の回答を聞いたあと、シオンは今にも事切れそうな息遣いで立ち上がった。
「アルバート、動ける、か……?」
シオンが呼びかけると、彼の隣で倒れていたアルバートの身体がゆっくりと動き出す。
「死にそうだが……何とか……」
吸血鬼たちは、今にも死んでおかしくないほどの深手を負った騎士二人が動き出したのを目の当たりに、絶句した。
それを余所に、シオンとアルバートは武器を拾い上げる。
「ガラハッドは今頃、ステラを回収して地上に向かっただろうな」
シオンの予想に、アルバートが頷きつつ溜め息を吐いた。
「後を追ったところで、また返り討ちにされるのは目に見えている。それに、この街そのものが危機に瀕している状況だ。ここはいったん、リリアンたちと合流して――」
「なら、俺一人でガラハッドを追う」
シオンの無謀な発言に、アルバートは彼の腕を引いた。
「馬鹿な真似はよせ。君一人じゃ到底――」
「この機会を逃せば、もう二度とステラを戴冠式前に取り戻すことができないぞ! そうなれば、アンタたち騎士団の計画もすべて破綻する」
「それは、わかっているが……」
尻込みするアルバートに、シオンはさらに続けた。
「それに、ステラが街にいれば、奴らもここを潰そうとはしないはずだ」
「地下に王女を引き戻すのか。だが、その後はどうする? 地下に戻したところで、時間稼ぎどころか、いたちごっこにしかならないぞ。すぐにまたガラハッド卿に奪われるのがオチだ」
「その時になったら考える」
遠回しに策はないと言い放ったシオンに、アルバートは辟易して首を横に振る。
「付き合いきれない――と、言いたいところだが……この機会を逃すわけにいかないのも確かだ。勝ち筋はほとんど見えないが、私も行こう」
そして、二人は残った力で“帰天”を使い、無理やり傷を回復させた。
その後で、シオンは吸血鬼たちを見遣る。
「カーミラの遣いと言ったな。俺たちを今すぐ地上に送ってくれ」
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