第214話
レイマン湖畔は、巨大なダムで水をせき止められて出来た人造湖の近くに存在している。今宵の湖の水面には雲一つない夜空が映っており、月や星々の輝きが綺麗に反射していた。
風情ある景観だが、この人造湖が造られた背景は、いたって身勝手なものであった。ダムは水の流量や発電を制御するためではなく、ヴァーニィ家が河川の魚を独占するためだけに、今から十年ほど前に設けられたものなのだ。おかげで下流の川は干上がり、そこに住まう人々は別の地域へ移住させられることを余儀なくされてしまった。
そんな欲深い性格を体現したかのようにして、ヴァーニィ家の居城はダムに隣接する形で聳え立っていた。現代的な建造物であるダムに古風な城が付き添っている有様には、何とも言えない滑稽さがにじみ出ていた。
「くそっ! くそっ! どいつも、こいつも! なんで思い通りに、ならないんだ!」
その城のとある一室にて、ヴァーニィは憤りながら人間の女を犯していた。女の背骨が折れるのではないかというほどの力で正面から抱き締め、一心不乱に腰を振っている。同時に、女の首元にかぶりつき、音を立てる勢いで血を啜っていた。女はすでに顔を青くして意識を失っており、恐らくもう生きていないだろう。
「おい、ルスヴン! もう女はいないのか!?」
ヴァーニィは、壊れた人形のようになった女をベッドから放り投げた。全裸のまま、のしのしと歩き出し、壁際にいたルスヴンの方へ迫っていく。
ルスヴンは冷ややかな視線を返した。
「お前の執事になった覚えはない。必要なら自分で探せ」
「くそっ!」
ヴァーニィは悪態をつきながら床に転がる女の死体を蹴った。
ルスヴンが、辟易しながら嘆息する。
「それより、“騎士の聖痕”についてだ。お前の命を救ってやったんだ。約束通り、お前が持っているという情報を寄越せ」
ルスヴンの落ち着いた声色に、ヴァーニィは冷静さを取り戻したようだった。一度肩で大きく深呼吸をし、発情した豚のように荒げていた鼻息を鎮める。
それから、壁に立てかけられていた絵画を一枚退かし、雑に壁紙を剥がしていった。するとその奥から、黒い金庫が一つ現れた。
ヴァーニィはダイヤルを手早く回して解錠すると、そこから一冊の紐で綴じられた古めかしい冊子を取り出した。どれだけの年月を経たものか、色はすっかり変色しており、捲るのも慎重にならなければすぐに破れてしまいそうなほどに痛んでいた。
「その冊子に、僕のご先祖様が残した“騎士の聖痕”の研究結果が記されている。刻印するための印章のサンプルなんかも書いてあった。予め言っておくが、こいつを使ったからって体に適合するとは限らんからな? 成功例が書かれていないことを見るに、むしろ失敗する確率の方が高い。実践するかどうかは自己責任だ」
ヴァーニィはルスヴンにその冊子を手渡し、踵を返した。
「僕はこれからシャワーを浴びてくる。取引は以上だ。僕の言うことをこれ以上聞く気がないなら、さっさと帰ってくれ」
そう言い残し、全裸のまま部屋から出ていった。
そうしてこの場に残ったのは、ルスヴンと、彼の主人であるカーミラだけになった。
カーミラは、ルスヴンのすぐ近くで、椅子に鎖で縛り付けられ身動きが取れない状態だった。彼女は部屋にいる間、ヴァーニィが人間の女を犯す光景を長時間見せつけられ、終始、嫌悪と怒りで表情を歪めていた。
そんな地獄絵図からようやく解放され、幾らか心が落ち着いた時に、カーミラはルスヴンを見遣った。
「ルスヴン、お前はいつからヴァーニィに付いていた?」
ルスヴンは冊子の保存状態を確認する手を止め、カーミラに視線を返した。
「貴女が貧相な願いを周囲に漏らすようになってから、ですかね。私も、何度も忠告させていただいたはずですが」
「……貧相な願いとは、人間になって日の光を浴びたいという願いのことか?」
カーミラの問いかけに、ルスヴンは小さく鼻を鳴らした。
「ただ、私も貴女の気持ちを少しだけ理解しています。太陽の光を克服したい――その願いは、私だけではなく、すべての貴族が思うところでしょう。ですが、人間になりたいという願いとは、また別だ」
「どういう意味だ?」
「その言葉通りですよ。弱点を克服したところで、非力な人間になってしまっては意味がない。私は、貴族としての優位を保った上で、弱点を克服したいのです」
カーミラは、ルスヴンが持つ冊子へ視線を下げた。
「さっき、“騎士の聖痕”と言っていたな? それはいったい何だ? ヴァーニィから受け取ったその冊子も、何のために使うつもりだ?」
「“騎士の聖痕”は騎士を作るための特殊な印章です。幼少期の人間にしか適合しませんが、成功すれば、騎士のような超人的な身体能力を得ることができる。この冊子には、“騎士の聖痕”に関する研究結果が記されています」
「すでに私たち貴族の身体能力は騎士に匹敵するものだろう? それを今更になって欲する理由は? それに、何故そんなものをヴァーニィが持っている?」
「貴女もこの国の成り立ちはご存じでしょう? 前身が反教会体制の組織であり、打倒教会のためにクドラクが開発されたことも。ヴァーニィ家は、クドラクが開発されるよりも前に、騎士たちの強さの秘密を独自に探っていた歴史があります。そしてその結果が、これに記されている」
ルスヴンの説明を聞いて、カーミラは目を剥いた。
「この国の成り立ちを知っているということは、お前、隠れ家にあった“写本の断片”に接触したことがあるのか?」
「ええ。貴女が一人でこっそり隠れ家に赴いた時、私も後を付けていましたので。その時はあくまで執事の務めの一貫で、ですよ。当主を一人にしてはおけないと隠れて見守っていたら、まさかあのような掘り出しものに遭遇することになるとは」
ルスヴンは壁際から離れ、ソファの上に足を組んで座った。
「そんなことより、これをどうするかという話ですが――私は、この冊子に記されている内容が、我々貴族の弱点を克服するための足掛かりになるのではないかと考えています」
冊子を慎重に捲りながら、ルスヴンはさらに説明を続ける。
「我々ほどではありませんが、騎士にも身体の再生能力が備わっています。とりわけ、選ばれた者のみが行使できる“帰天”という特殊な魔術に至っては、もはや生物の域を超えた力の恩恵を受けられるとも聞いています。これをうまく利用すれば、私たちの弱点を克服できるのではないかと考えました」
「さっきヴァーニィは失敗する確率が高いと言っていなかったか? そんなものを当てにして大丈夫なのか?」
カーミラの疑問に、ルスヴンは肩を竦めた。
「勿論、これをそのまま利用するなんてことはしません。私は、ここに記されている研究結果をさらに洗練させ、完璧なものに仕上げる。貴族が貴族のまま、日の光の下を歩けるように最適化してね」
「人間に戻るというやり方では駄目なのか?」
「常々思っていたのですが、私は貴女が使う、その“戻る”という表現があまり好きではない。我々は生まれながらにして貴族だったのです。始めから人間ではないのですよ。先ほども申し上げた通り、私はこの貴族としてのスペックを捨てたくない。それを保持したまま弱点を克服できないというのであれば、いっそこのままでいることを選ぶくらいには、貴族という種族と立場に誇りを持っています。それに――」
ルスヴンは冊子を閉じ、改めてカーミラの前に立った。
「ローランド・デクスターが、貴女のために、タルボスという対クドラク用の抗生物質を作っていると伺っていますが、その進捗はいかほどのものなのでしょうか? まだ治験すら行われていないのでしょう? ただの人間になりたいという貴女の願いの実現可能性も、果たして本当にあるかどうか」
ルスヴンは表情こそ無だったが、その台詞から挑発していることはあからさまだった。カーミラは微かな悔しさを孕んだ双眸で、ルスヴンを睨みつける。
「ルスヴン、お前は貴族の弱点を克服して、何をしたいんだ? 私と同じように、ただ太陽の光を浴びたいという思いだけではないだろう?」
「先祖の無念を晴らします」
「……先祖の無念?」
予想だにしていない回答に、カーミラは思わず呆けた声を上げた。
それには構わず、ルスヴンは続ける。
「貴族が太陽を克服すれば、我々はこの国の外にも勢力を広めることができる。その果てにあるのは、打倒教会です」
「今更、何のために? 昔の貴族たちならいざ知らず、今を生きるお前が何の恨みがあって?」
「三貴族の貴女には理解できないでしょう。約束されたゆるぎない立場がこの国にあるのですから」
「お前だって貴族だ。私に仕えているとはいえ、地位と権力は人間や亜人よりも遥かに優遇されている。いったい、それ以上何を望む――」
突如として、カーミラの身体が宙に浮いた。縛り付けていた鎖と椅子は強い力を受けて破壊され、床に残骸となって転がっている。
ルスヴンが、赤いスライム状の物体――血を使い、カーミラの首元を締め付け、掴み上げていたのだ。
「貴女のような、貧弱な思想を持った権力者がいない国ですよ。貴族も人間も亜人も仲良く? そんなものは幻想だ。種族、文化が違えば、必ず軋轢が生まれる。そしてそれは、不毛な争いを生む引き金でしかない。であれば、絶対的な力を以てして、強者がすべてを管理することが何よりも最善の選択だ。そしてその強者には、血や生まれではなく、確かな実力と能力を持つ者こそが選ばれるべきだ」
刹那的な怒りを治めたあと、ルスヴンはカーミラを解放した。
カーミラは喉を押さえながら咽たあと、領主としての器を携えた強い眼差しでルスヴンを睨んだ。
「ルスヴン……お前のやろうとしていることは、お前が打倒しようとしている教会そのものだ」
「わかっています。だからこそ、私たち貴族がその立場に取って代わるのです」
「……馬鹿なことを」
迷いのない開き直った従者の答えに、カーミラは失望の声を小さく漏らした。
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