第213話

「カーミラ様が“写本の断片”を調べたのは、いつ頃の話なのでしょうか?」


 隠れ家の地下へと続く鉄骨造りの階段を下りながら、リリアンが唐突に訊いた。


「ローランドがクドラクの存在を突き止めてから間もなくだ。昔、母から“そういうもの”がこの施設にあると聞かされていたのを思い出し、もしかしたらそれに何か情報があるのではないかと思ってな」

「“そういうもの”?」

「この国の歴史を記した記録だと、母からは聞かされていた。好んで見るようなことはないだろうが、死ぬ前に一度は見て、自分に子供が産まれた時は将来引き継がせろと言われた」


 リリアンが怪訝に眉を顰めた。


「母君に存在を知らされたあと、ずっと放置していらっしゃったのですか?」

「読むのが少々手間なのでな。写本とは名ばかりで書物ではない。簡単に手に取って調べられる物でもないのだ。まあ、見ればわかる」


 そう言われてもと、シオンたちは胡乱げに互いの顔を見合わせた。

 今度はエレオノーラが口を開いた。


「それって、もとは教会で管理されていたものなんでしょ? なんでそんなものが宗教を禁止しているこの国にあるの?」

「私も詳しいことは知らない。だが、遥か昔に――この国が建国されたのと同時期に、この場所に“刻まれた”らしい。何なら、あとで“写本の断片”そのものに確認するといいさ」


 やはり、カーミラの言葉はどこか不自然さを感じる。騙す意図などはなさそうだが、どうにも発せられる言葉の表現に違和感があった。書物ではないとのことだが、いったいどんな形態として存在する記録媒体なのか――そんな疑問しか生まれなかった。


 ともあれ、あと数分もしないでその正体を知ることになるのだ。

 シオンたちはそう割り切り、話題を変えることにした。カーミラから聞きたいことはまだある。


「それはそうと――ステラの居場所に心当たりがあると言っていたが、それはいつ教えてくれる?」


 カーミラは、ああ、と声に出して思い出し、シオンを横目で見遣った。


「後でオルト・アルカードに探りを入れて、ある程度の確証を得てから伝えようと思ったが――先に言ってしまうか。地下都市ランヴァニアにいるのではと、私は思っている。この国最大の都市であり、アルカードが支配する場所だ。あそこは人口が多く、貴族だけではなく人間や亜人も大勢暮らしている。大国の王女を秘密裏に滞在させるとなれば、あの都市くらいの設備や機能がいるだろう」

「ということは、この国のトップであるオルト・アルカードが、教皇たちと結託してステラを匿っているということか?」

「さあ、それはわからない。わかっている事実としては、あの都市を管轄しているのがアルカードということだけだ」


 シオンは今一つ煮え切らない顔になった。

 それを見たカーミラが苦笑する。


「そう露骨に落胆しないでくれ。君たちには肉団子から救い出してくれた恩がある。王女捜索には引き続き力を貸すさ」

「……すまない」


 礼を欠いた態度だったと、シオンは詫びた。

 カーミラは特に気にした様子もなく、今度はリリアンを見遣った。


「ひとまず今は、“写本の断片”を確認しようじゃないか。リリアン卿の話によると、そちらはそちらで興味深い物なんだろう?」

「はい。我々騎士団と対立している教皇が、同様の物を手に入れるために聖女を執拗に追いかけている可能性があります。聖女と合流こそできたものの、わたくしたちは急ぎこの国に訪れる必要があったため、彼女から“写本の断片”の正体が何なのかを知らされる時間がありませんでした。これを機に、それを知ることができればと」

「この国の外では教皇と騎士団が対立している、か。教会も穏やかじゃないな」


 話をしているうちに、階段は一本道の通路へと変わった。

 十メートルもない通路を進んだ先にあったのは、錆びついた金属製の扉だ。


「ここだ」


 扉には特に鍵もなく、カーミラはドアノブを回して先行した。続けて、手早く室内の照明スイッチを押す。

 雑に吊るされた数多の電球が、眩い光で部屋の中を照らした。


「何だぁ、これ?」


 そこにあったのは、ちょっとした運動場ほどの広さがある空間だった。岩を削り出して造られた部屋で、装飾の類は一切ない。床だけは丁寧に均されていたが、その施工も随分前にやったものなのか、ところどころひび割れが目立っていた。


 そして、何よりも目についたのは、部屋の中央に刻まれた巨大な模様だった。

 その模様を目にしたエレオノーラが、怪訝な顔になる。


「これって……印章? けど、こんな印章、今まで見たことがない。刻まれている式も文字も、初めて見た」

「これが“写本の断片”だ」


 カーミラの言葉に、シオンたちは揃って目を丸くした。

 それには構わず、カーミラは床に刻まれた巨大な印章――“写本の断片”の中央に立った。


「“写本の断片”に接触している間、肉体は無防備になる。念のため、誰か一人を見張りとして残してほしい」


 シオンが首を傾げた。


「どういう意味だ?」

「“写本の断片”に接触中、意識は肉体から離れる。もしその間、何者かに襲撃されたりでもしたら、そのまま死んでしまう」


 にわかに信じられない話だったが、その真偽を確認するまでもなく、ヴィンセントが手を挙げた。


「んじゃ、俺が見張りやるわ。なんかちょっとおっかないしな」


 エレオノーラが渋い顔でヴィンセントを睨んだ。


「意識ない間、女性陣に変なことしないでよ」


 突然のいわれのない釘刺しに、ヴィンセントは少しだけ悲しそうな顔になる。


「何でいきなり俺の信用なくなってんの? 女好きのリカルドじゃあるまいし」

「エレオノーラ様、ご安心ください。ヴィンセント様は信用できるお方です」


 そうフォローしたリリアンに、ヴィンセントが大袈裟に喜んで感謝の意を示した。

 リリアンはそれを無視し、改まった表情で一同に向き直る。


「それはさておき――“写本の断片”に接触する前に、皆さまにお伝えしておきたいことがあります」

「何だ?」

「ヘンリー・ヴァーニィを取り逃した件です。わたくしは戦闘の後、彼を拷問にかけ、ステラ様のいらっしゃる場所を吐かせようとしました。しかし、ヘンリー・ヴァーニィを逃がそうと、カーミラ様の執事であるルスヴン氏が、その幇助をしたために取り逃がしてしまいました」


 リリアンの報告に、カーミラは酷い頭痛を覚えたかのように顔を顰めた。


「そうか、ルスヴンが……」


 そこにあるのは、失意と悲しみが入り混じった複雑な感情だった。今すぐにでもよろめきそうなカーミラの身体を、ローランドが横からそっと支える。


「カーミラ、大丈夫かい?」

「……ああ」


 多少なりショックこそ受けているものの、意外にもカーミラは平静を保てているようだった。

 それを見たヴィンセントが片眉を上げる。


「思ったほど驚いてねえなぁ。なんか、裏切りの兆候でもあったかぁ?」

「ルスヴンは執事の仕事こそ完璧にこなしてくれていたが、彼個人の思想としては、私の思い描く貴族の理想像とはかけ離れていた。人間や亜人との共存、あわよくば人間になりたいと思う私に、ルスヴンは昔から不満を募らせていたからな。ルスヴンの考えは、どちらかと言えば、ヴァーニィたちのような貴族至上主義に近い。だから、あいつがヴァーニィ側についたとしても、特別違和感はない」


 リリアンが、なるほど、と小さく言って納得した。


「なお、ルスヴン氏の所在はわかっておりません。ですが、もしかするとこの場所の存在をすでに知っており、我々を襲撃するということも考えられます。ヴィンセント様、どうかご注意を」

「リリアンが一個人をそんな強く警戒するなんて、珍しいな。なんかヤバそうだったのか?」

「妙な戦い方をしてきます。ヘンリー・ヴァーニィを逃がす際、赤いスライムのようなものを周囲に纏わせ、鞭や槍のように扱い、わたくしを強襲してきました」


 その言葉にカーミラが反応した。


「ルスヴンは血を武器として扱うことができる。どういう原理でやっているのかは私も知らないが、敵対すると非常に厄介な能力だ。形状変化や硬度のコントロールが自由自在な上、一度その血に捕捉されたりでもすれば、干からびるまで血を吸い上げられる」

「そりゃまた吸血鬼らしい戦い方をしなさんなぁ。俺一人ならともかく、意識失ったお宅らを守りながらとなると、正直しんどいと思うわ。あの執事が来ないことを祈るかねぇ」


 ヴィンセントの気弱な発言を最後に、カーミラが一度両掌を叩き合わせた。


「さて、そろそろお喋りはお終いにしよう。早速、“写本の断片”に繋がるぞ。ヴィンセント卿以外は、この印章の中に入ってくれ」


 カーミラに促され、シオン、エレオノーラ、リリアン、ローランドの四人が印象の中に足を踏み入れた。


 その直後だった。

 一瞬、部屋全体を眩ますほどの青い光が放たれたと思った途端――シオンたちの身体は、魂が抜け落ちたかのように、バタバタとその場で倒れてしまった。


 異様な光景に、ヴィンセントが眉を顰めながらあんぐりと口を開ける。


「おいおい、意識失うとは言っていたが、マジでこんな風にバタりといっちまうのかよ。誰も頭を床に打ち付けて怪我してねぇだろうな」


 やれやれと、ヴィンセントは肩を竦めた。

 さて、これから全員が意識を取り戻すまで暇だなと――考えた矢先、ヴィンセントは妙な気配を察知した。


 それは確実に、外の通路、階段からこの部屋に向かって近づいてきている。


「……物事って、どうしてこう悪い方にばかり進みがいいのかねぇ」


 ヴィンセントが二丁拳銃を引き抜いた。







「どこだ、ここは……」


 つい先ほどまで、隠れ家の地下にいたはず――シオンたちが目を覚ました時、彼らはそれとはまったく異なる場所にいた。


 辺り一面が真っ白の世界で、どこまで奥行きが続いているのかもわからない。まるで異次元に飛ばされたかのようだった。


「見ろ」


 混乱するシオンたちを導くように、カーミラが言った。


「これが、“写本の断片”だ」


 彼女の視線の先にあるのは、一つの粗末な木の椅子だった。

 そして――


『最近はよくここにヒトが来るな』


 瞬き一つしたあと、そこに何者かが座っていた。白いローブに身を包み、頭をフードで丸ごと覆っているため、顔はまったくわからない。


 突如として現れた謎の人物に、シオンとリリアンは警戒心を強めた。


「恐れ入りますが、まずは貴方の正体と、ここがどこなのかを伺ってもよろしいでしょうか?」

『私は聖王の人格を模した対話型のインターフェースシステムだ。生前の聖王が、魔術でこの大陸にシステムを構築した。そして、ここはそのシステムを稼働させるために確保した領域――“魂の牢獄”だ。生者の魂が、生きたまま肉体と分離した際、一時的にとどまることができる場所でもある。ただ、長居はお勧めしない。死者の魂のように、魔術を行使するためのエネルギーとして消費される可能性がある』


 リリアンの質問に対し、自らをシステムと名乗ったそれは、淡々と回答した。

 その内容に、エレオノーラが両目を大きく見開く。


「ちょ、ちょっと待って! 魔術を行使するためのエネルギーって、まさか、死んだヒトの魂がそれってこと!?」

「エレオノーラ様、今の話から色々な疑問を抱かれたと思いますが――まずは要点を話してしまいましょう。もしこの方の言うことが本当であれば、わたくしたちは一刻も早くここから出る必要がありそうです」


 リリアンに制され、エレオノーラは何か言いたげにしていたが、大人しく引き下がった。


『何を聞きたい?』


 システムが問いかけると、カーミラが一歩前に出た。


「私が以前訊いたことを彼女たちにも話してやってくれ。何故、クドラクという魔物が造られ、我々のような吸血鬼が存在しているのか。何故、このダキア公国が宗教を――教会と一線を置くことになったのか」

『クドラクは、今から一八〇〇年ほど前に、とある魔術師が生み出した人体寄生型の魔物だ。当時、一部の人間と亜人が手を結び、教会支配からの脱却と独立を目的に、騎士と同じく人為的な超人を生み出すために開発された』


 シオンが、ハッとして口を動かす。


「教会支配からの脱却――もしかしてダキア公国は、当時の反教会体制派が集まってできた組織が母体なのか?」

『その通りだ。ゆえにダキア公国は現在もなお教会とは距離を置き、独自の社会体制を貫いている。だが結果として、彼らの本懐である教会打倒は叶わなかった。そうなった時、本来であれば、騎士団による粛清が行われ、この土地も教会の管理下に置かれるはずだった。だが、教会はその判断を下さなかった。何故なら、クドラクによって強化された超人たちの数が、当時いた騎士の数を大幅に上回っていたからだ。正面からの衝突は、双方にとって致命的な損害をもたらすと考えられた』

「ダキア公国が宗教を禁止している理由はそこか。単純に、聖王教会との政治的な対立構造が根幹にあったとはな」

『クドラクの超人は騎士と違い、感染者が子を産むだけでその数を容易に増やすことができる。教会はそれを強く警戒した。だが、クドラクの超人には、騎士にはない弱点も非常に多かった。さしたる例が、日光に弱いというものだ。そのため、クドラクの超人たちは自ずと活動範囲が限られた。ゆえに、教会は彼らから侵攻を受ける確率は低いと考え、粛清、殲滅の選択肢は取らず、この地に封じ込めておくことにした。騎士とクドラクの超人による全面戦争を回避するため、当時はそれが最善の手と判断されたのだ。そしてその状態が、今なお続いている』


 吸血鬼とダキア公国の真相を聞かされたシオンたちは、無言で呻った。


「教会の独裁的な大陸支配の体制に不満を持つ存在は今も昔も多くいる。だが、打倒教会を掲げた時、真っ先に障害となるのが騎士団の存在だ。それに対抗するために、クドラクを使った超人――吸血鬼を生みだした。聞いて納得だ」


 耽るように言ったシオンの隣で、エレオノーラが眉根を寄せ、少しだけ寂しそうな顔になった。


「でも、今はその本来の目的もいつの間にか忘れ去られて、カーミラ様みたいに今を生きるヒトたちを苦しめる原因になってしまっている――なんか、理不尽だね……」


 次に、リリアンが口を開く。


「クドラクが造られた理由と、ダキア公国が宗教を禁止している理由を知ることができ、大変感謝しております。続けての質問、よろしいでしょうか?」

『時間が許す限り、答えよう』

「何故、この“写本”だけここに断片として存在しているのでしょうか? これはわたくしの推察ではありますが――恐らく、たった今伺った情報は、ルーデリア大聖堂地下にあると言われている“写本”の本体には記されていないものと思われます。このように外部に出し、断片としてこの国に置いた背景は、いったいどのようなものなのでしょうか?」

『単純な話だ。いつかの時代に存在したどこかの魔術師たちが、本体から盗み取ったのだ。教会に反旗を翻そうと企む者は、大陸がこの体制になってから絶えることなく存在している。そういった者たちが、“写本”の本体から断片的に情報を盗み取り、分散させたのだ。いつの日か、“教会が隠蔽する数多の不都合な真実”を白日の下に晒すために』


 システムの回答を聞いて、シオンたちは暫く沈黙した。

 教会に敵対する者――この支配体制をよく思わない者は今も昔も変わらずに出てくるものだなと、シオン、リリアン、エレオノーラは、今の自分たちの立場を鑑みながら、悩ましげに小さく息を吐いた。


「ありがとうございます。大変、興味深いお話でした。続けてですが――」


 リリアンが追加の質問をしようとした時、不意に周囲の景色が“崩れた”。まるで、水面に映る鏡像が波紋に乱されたかのようだった。

 そんな奇怪な現象にシオンたちが困惑していると――


『そろそろ時間だ。生者は魂だけの状態で長くは存在できない。消費されてしまう前に、肉体へ還るといい』


 システムが警告をしてきた。


「どうにか延長することはできないのでしょうか? 貴方の正体や、何故“写本”という呼び方をされているのかもお伺いしたかったのですが」

『今は無理だろう。君たちの肉体のすぐ近くで強力な魔術が使われているようだ。それと、一度魂が肉体に戻るとすぐにはここに来られなくなる。また少し月日を置いてから来るか――もしくは、本体の方に問いかけるといい。あちらの私なら、より多くの情報を君たちに提供できる。ここの私はあくまで、この国の歴史に係わる情報しか持ち合わせていない』

「かしこまりました。ご助言、痛み入ります」


 リリアンの一礼を最後に、シオンたちの視界は暗転した。


 それから刹那の間もなく、シオンたちの魂は肉体に戻った。

 頬から伝わるのは床の冷たさ――どうやら、意識を失った時に倒れてしまったらしい。そんなことなら始めから横たわっていればよかったと、誰もが思った――その時だった。


 室内に、銃撃音と何かの金属音が絶え間なく響いていることに、全員が気付いた。


 なんと、ヴィンセントが誰かと交戦していたのである。

 シオンとリリアンがすぐさま立ち上がり、駆け出した。


「ヴィンセント!」

「おお! いいタイミングで目を覚ましてくれたぁ! 手伝ってくれ!」


 シオンの呼びかけに、ヴィンセントが心底嬉しそうな顔で応える。

 そんな彼が相手にしていたのは、赤い影のような――血溜まりそのもののような物体だった。


 それを目にしたカーミラが、血相を変えた。


「ルスヴン!」


 彼女の呼び声かけに応じて、赤い物体が一箇所に集まった。それはすぐに円錐状に延び、次の瞬間には幕が落ちるように床に消えた。代わりにそこに立っていたのは、カーミラの執事のルスヴンだった。


 ルスヴンは眼鏡の位置を軽く整えたあと、徐に歩みを進めた。


「カーミラ様。いったい、何をやっておられるのですか? 外国人と、しかも騎士たちと結託して三貴族のひとつであるヴァーニィ家を襲撃するなど。もしこのことがアルカード伯爵の耳に入れば、いくら貴女とはいえ、無事では済まされませんよ」

「言いたいことはわかっている。だが、何と言われようと、私はヴァーニィたちのように恐怖で支配する政治は執らないぞ」

「ヒトから恐れられることは、それこそ貴女にとって恐怖でしかない、ということですか?」


 小馬鹿にするようにルスヴンが鼻を鳴らした。


「カーミラ様、貴女は昔から社交的で、明るいお方だった。多くのヒトに興味を示し、友好的であろうとするその御姿はとても立派だ。だが、私たち貴族は、ヒトの血を飲む化け物なのです。そのヒトから恐れられ、避けられるのは仕方のないことでしょう」


 カーミラを守るようにして立ったシオンとリリアンを見て、ルスヴンは一度足を止めた。


「カーミラ様もわかっているでしょう。恐怖は憎悪と争いを生む。であれば、更なる恐怖を以てヒトを統治することもまた、政治なのだと私は思いますがね。それこそがもっとも現実的で効果的な方法だと、私は考えますが」


 カーミラは憐憫の眼差しを双眸に携え、首を横に振った。


「いいや、それこそ非現実的な手段だ。押さえつける力を維持することに、いずれ限界が来る。そして、その圧政から人々が解き放たれた時、逆襲されるのは私たちだ。そんな愚かしい負のやり返しの応酬は、長い歴史が証明している。だからこそ、今力を持つ我々が、それを終わらせる必要がある」

「……貴女は本当にご立派になられた――目障りなほどに」


 ルスヴンが突如として全員の視界から消えた。正確には、床から出現したあの赤い物体に覆われて隠れたのだ。赤い物体も間もなく床に沁み込むように消え――


「カーミラ!」


 ローランドが叫んだ次の瞬間には、カーミラの背後から出現し、槍のような形状になって彼女の腹部を貫いていた。

 急所を貫かれたのか、カーミラは驚愕した表情のまま、力なく仰向けに倒れる。

 それを、ルスヴンが執事らしい所作で受け止めた。


「ルスヴン様! 長年カーミラの執事を務めていた貴方が何故こんなことを!?」

「騒ぐな。この程度の傷、ヒトの血を飲ませればすぐに回復する」


 ルスヴンはそれきりローランドを無視し、シオンたちに向き直る。


「そこの騎士たち、これが最後通告だ。今すぐこの国から出ていけ。そうすれば、これまでの騒ぎはすべて不問にしてやる」

「不問にしてやる? 貴族とはいえ、ただの執事である貴方に、そんな権限があるとは思えませんが」


 リリアンが、殊更に威嚇するような圧を込めて言い放った。

 それを見たルスヴンが不敵に口の端を歪めた時――不意に、部屋の外の廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「おい、ルスヴン! 僕を置いて先に進むな! “騎士の聖痕”のこと、レイマン湖畔に着いても教えてやらないぞ!」


 ハァハァと息を切らしながら入室してきたのは、ヴァーニィだった。

 ヴァーニィは部屋に入って早々、殺気だった雰囲気に当てられ、ヒッと尻込みする。


 同時に、シオンが眉間に深い皺を寄せた。


「“騎士の聖痕”だと?」

「……馬鹿が」


 ルスヴンがヴァーニィを睨み、悪態をついた。


 直後、ルスヴンがまた赤い物体へ姿を変える。腕に抱えていたカーミラをそこに取り込み、さらにはヴァーニィをも包み込み、脱兎のごとく部屋から飛び出していった。


「カーミラ!」


 ローランドが後を追おうと駆け出すが、シオンに止められた。

 そのすぐ近くでは、ヴィンセントが即座に無数の弾丸を撃ち込んでルスヴンを止めようとしたが――


「クソっ、はえぇ!」


 壁、天井、床を這いながら、滑るように去っていく赤い物体に、一発も当てられずにいた。


 その後すぐの出来事だった。

 突然、轟音が鳴り響き、地下全体が激しく揺れ出す。天井から砂ぼこりがパラパラと落ち出し、


「天井が!」


 エレオノーラの叫びを合図にしたかのように、崩れ落ちてきた。


「わたくしにお任せください」


 リリアンが両手を天井にかざし、電磁気力の操作で崩れ落ちてくる岩盤を受け止める。だが、質量が膨大なせいか、彼女も息を止めながら力を込め、必死な様子だった。


「……エレオノーラ様、今のうちに、この岩盤を支えられるだけの応急処置を」


 リリアンが震える声で言って、エレオノーラは急いで床に印章を描いた。

 エレオノーラが魔術を発動させると、青い光と共に周囲の岩が瞬く間に形状を変えていく。崩れ落ちる岩盤を取り込むように形を変え、どうにか崩落を防ぐことができた。


 窮地を脱したところで、シオンが苛立ちながら舌打ちをした。


「俺たちを生き埋めにするつもりだったか。何が最後通告だ、始めから生かしてここを出すつもり、なかったな」


 その隣では、ヴィンセントが安堵の息を吐きながら額の汗を拭き取っていた。


「で、こっからどうす――」

「カーミラを助けてください! お願いします!」


 ローランドが声を張り上げた。

 突然の大声にシオンたちは驚いたが、


「現状、それしかないかと。ステラ様がいらっしゃると思われる場所はすでに共有いただきましたが、その情報だけでステラ様を奪還できるとは到底思えません。それに、ここまで騒動を大きくしてしまっては、政治的な抑制力も欲しいところ。やはり、この国の権力者の協力は必要不可欠です」


 リリアンが、冷静に今の状況を分析した。

 シオンもそれは理解していて、苦虫を嚙み潰したような顔になりながらも、首を縦に振った。


「わかっている。カーミラを助けに行くぞ」


 それを聞いたエレオノーラが、不安そうに眉根を寄せる。


「でも、カーミラ様はどこに連れていかれたの?」

「先ほど、ヘンリー・ヴァーニィがレイマン湖畔という言葉を発していました。恐らく、そこではないかと」


 リリアンの推理に、ローランドが思い当たる節があると口を動かす。


「レイマン湖畔……ヴァーニィ家の領地で、彼の居城がある場所です」

「敵の根城ってことか。わかりやすくていいねぇ。俺たちを生き埋めにして殺そうとしたこと、ボコボコにして後悔させてやろうぜぇ」


 ヴィンセントが邪悪な笑みを浮かべながら拳を掌に打ち鳴らした。

 やる気満々のヴィンセントとは対照的に、シオンはどこか慎重な面持ちだった。


「それと奴は、“騎士の聖痕”とも言っていた。もしかすると、やはりヘンリー・ヴァーニィは教皇と何かしらの繋がりを持っているのかもしれない」


 リリアンが頷く。


「これ以上事態が悪化する前に急ぎましょう。カーミラ様を救出できなければ、別行動を取っているアルバート様たちも含め、騎士団の作戦はそこで失敗になるものと心得てください」

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